"Logue"Nation

ローグネーション。言葉と図像を手がかりにまんがを「私」が「読む」自由研究サイト。自費持ち出しで非営利。引用画像の無断転載を禁じます。

『GS美神私注』:「GS美神’78!!」編 (37巻、38巻)【再録】

あるいは、美智恵活劇編。若き日の美智恵、唐巣神父をめぐる一編。

01 69 3
「僕が説得しました、お父さん!! 何があってもたったひとりの父親じゃないですか!」「君は娘の恋人の……!?」
 この話はひさびさに、横島が美神に対して煩悩キャラとしてはたらいている。この場面の横島は、アシュ編がなかったかのような、かつての横島のような、ふるまいを見せています。
 とすると、アシュタロス編がなかったことになっているという結論がどうしても引き寄せられてくるのだけれど、むしろ、そのためにまるまる二巻弱の時間を必要としたことのほうを、私は注意しておきたい。

 そして、横島はそれとして、一方の美神はついに横島との恋愛感情を物語上に見せることはないまま終わります。何度か触れているように、それは<ルシオラの呪縛>と言い表せるようなものでありましょう。そうであるならば、直情型の美神美智恵を語るこの話は、美神を語りつづけるかぎり停滞しつづけなければならない物語を(とりわけ色恋関係ありの物語を)なんとか前進させるための、代行的な措置と読むことができましょう。
 じっさい、全てに積極的な美神美智恵は、ちょっとノりすぎではないかというぐらい、生き生きと描かれているように思います。

01 79 1
「いやッしかしッ…!!/~~~~~~!!」
 前々ページから二ページ弱にわたって延々本気の横島は、ひさびさによろしい。
 この二ページ弱のどのコマの横島も、その目が一コマでも【おちゃらけ目】をしていたら、おもしろくもなんともなくなってしまうだろう。妄想してかつ勝手に独走つうか疾走つうか遁走、が良い。
03 106 2
「最初、どうしようかと思っちゃって……! ホラ、最近いるじゃない?/徹夜してまんが映画に行列するような人…!! 今流行ってる「スター・なんとか」の仮装かなんか家でしてるのかと──」「……」
 「オタク」に「オタク」という名の与えられる前夜。「まんが映画」がいい。

04 127 3
「…………」
 この沈黙のコマは、具体的には「あなたは今、信仰が揺らいでいる。/「なぜ神は我々をこんなめにあわせるのか」…とね。」(p132-1)につながります。

06 165 1
<豆知識>
『GS美神』はフィクションですが、一部実在の人物をモデルにしています。
 このへんの、逆手にとるしたたかさ。
 単に78年ネタってだけじゃなくて、良くも悪くも椎名まんがが高橋留美子的世界との通底を指摘されることは容易に想像がつくわけで、煩悩キャラに【おちゃらけ目】なんかはまさにそうなのですが、それを裏返して出すクッセツしたリスペクト表明がここになされている、ということになりましょうか。

07 184 1
「ひとり子を与え、悩める我らを破滅と白昼の悪魔から放ちたもうた父!!/ぶどう畑を荒らす者に恐怖の稲妻を下し、この悪魔を地獄の炎に落としたまえ!!」
 そのかっこよさを言えば、その直前のコマが上からの視点で、そこからページを繰るとそれが、追って落ちてきた唐巣神父の視点だったことがわかる、ってところ。

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07 188 1
「!!/主よ…!! 感謝します!!」
 背景の弧のベクトルを持つ流線。

  ビルから落ちてくるアクションシーンの連続であったことともちろん不可分に、この数ページの展開は、ずっと縦のベクトルを持っていた。そこにクレーン車が闖入する。クレーン車の横のベクトルは、これまでの縦のベクトルの展開にとって意外な偶然であるが、その偶然に佑けられ、かつ、それを天佑と受け止め自らのものとした瞬間の唐巣神父のコマが、縦から横への孤を描かせる。そう言えましょう。

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  そして、十字を切る唐巣神父。公彦との会話で神への不審が問題系として物語に提示されてきていたが、強いられ続けてきたその抑圧が、しかし一瞬のうちに解放される。抑圧からの一瞬での解放は、読者にとっての快楽にほかならないのはいうまでもない。
08 15 4
「じゃ、神さまと仲直りしたのね?」「まーね。あの夜は…何もかもできすぎだったからなあ。
きっと我々は、出会うべくして出会って、やるべきことをそれぞれがやったんだ。/僕は今また主の御心に信頼を寄せているよ。」
 それぞれでは解決しようがなかった困難さを抱えていた、それがここで二つのケースが混ざり合って、それは困難が二乗になったようで、けれど混ざり合ったことで解決の糸口が見える。

09 29 1
「逆噴射──ッ!!」
 機長。さすがに<豆知識>にはしなかった。それはデリカシーというべきものです。

09 31 1
「俺はタカだ──ッ!! うわはははは──ッ!! あんな一撃でこの俺は……」
「か、神よっ感謝しますうううッ!!」
 十字を切る唐巣神父。

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[その7]で十字を切る唐巣神父(上述)の、【対応とその元のパロディ】。
 ここで、ご都合主義的な展開であることを物語があえて読者に自覚させるかのように、<ギャグ>的にさきの<シリアス>的展開(それもそのいちばんのかっこよいページ)を繰り返させることで、このシリーズのキリスト教色の強さを、うまい具合に相対化しているといえます。

09 39 1
ギャキキ
 p28-3と対応しているのはいうまでもありません。

 

(2002/05/11。03/08/17新訂。20/12/7再録、語句修正。引用は椎名高志『GS美神 極楽大作戦』(小学館少年サンデーコミックス>、1992-99)、文中で同作の画像の引用をする場合はkindle版による)

『GS美神私注』:「フォクシー・ガール!!」編その他 (36、37巻)【再録】

あるいは、物語世界再出発編。シロの復帰、タマモの登場に向かう数編である。

■「ドリアン・グレイの肖像!!」
01 11 1
「モデルは女性がいいと思います!! できればヌード!! せめて水着姿ってのはどうでしょう!?」
 このセリフからは、ルシオラの死を抱える者としての横島を、一分も感じとることができない。物語はそのように描かれ始めようとしている。そのためのいくつかの、儀式のようなコマ・セリフの、一つと思われる。
 儀式としてのコマ・セリフについては、「ファイヤー・スターター」編にもいくつか敷設されていると見ることができましょう。その最たるものは、かつてルシオラとパピリオが住んだ屋根裏部屋を燃やしたことであることはいうまでもない。

 アシュ編以後の<ギャグ>の水準は、「ファイヤー・スターター」と「ドリアン・グレイの肖像」がいまいちだったことで(例えば「学校に来たのは浮き世ばなれした感じの先生で──/厄珍堂のはカリカリした雰囲気の女………」の書き分けがよくわからない)、いささか分の悪い感があるが、それ以降は、例えば26~28巻あたりのテイストに近くて、おもしろいと素直に思います。
 しかしながらやはり、ある種の割り切りが前提として必要であることは、アシュ編に至る横島成長譚に耽溺してきた読者にとって、否めないところではあるのではないでしょうか。

 ■「賢者の贈り物!!」
01 53 1
「はッ、/今使ったお札はいくらの──!?」
 おキヌ版「ただいま修行中!!」(11巻)といえる。
 ちなみにこの回は、椎名作品ではおなじみ、「SUNDAY」少女が登場している。短編「はじめてのおつきあい」(『㈲椎名百貨店』所収)は名作。

01 56 1
「…よく考えたら、借金をかたがわりなんて…まちがってました。/どんなことがあったって死んでそこから逃げようなんてよくないんですもの…」
 生と死とに関わるおキヌ(参照、23巻p87-4の項)。この回は、おキヌがメインだけれど、美神、横島、おキヌの三者がよく絡み合っていて安心して楽しめる回。マッチ売りしてみたり。

■「フォクシー・ガール!!」
01 61 4
「「金毛白面九尾の妖孤」通称「九尾の狐」!!/かつて中国とインドを壊滅的な混乱に陥れ──平安時代に日本に流れてきた妖怪だ…!」
 タマモ登場の回。
 参照、「ストレンジャー・ザン・パラダイス!!」28巻p25-5の項。

02 91 2
「それを解決するのもGSの仕事なのよ。」「え…?」
 異世界の仲立ちとしてのGS、という位置づけが、美智恵によって明言される。
 もとより、GSたちは、必ずしも異界のモノと対立してきたわけではなかったが、中盤から物語の展開を促していた「神」対「魔」の対立がアシュ編をもって事実上終結したことで、物語を展開する別の軸が求められてきていることが、この美智恵のセリフには示されている、と受け取ることができようか。
 むろん、この路線と美神とは(とくに金が絡むと)ぶつかるし、それが見どころとなっていくと思われるが。

02 94 2
「ま…すぐに仲良くなろうったってムリですね……!」
 「バレンタインデーの惨劇!!」(27巻)いらいの、【鼻水】のおキヌ。みかんをむきかけの生活感。多く言われているところであるが、おキヌは横島宅で一晩明かしたことになっている。

■「マイ・フェア・レディー!!」
01 106 2
「大丈夫、おキヌちゃん!! おキヌちゃんは美神さんみたくバッタもんじゃないからっ!」「誰がバッタもんよ!?」
 農協の人たちも、おキヌには興奮しているのに、美神には「(ウ…ウソくさいっ!!)」ってのもけっこうひどい。ヨゴレ街道まっしぐら(参照、27巻p22-3)。

01 109 1
「強力な暗示呪法を使うわ!/あんただからこそ、バカバカしい幻想の女性像になれるのよ!!」
 抜き出せば、こうなります。
・果てしなく男に都合がいい
・優しくなんでも善意に解釈
・浮気しても怒らない
・包容
・母性
・年をとりません
・愛
・ウンコなんかしない
・エッチだけど純情
 さて、この挙げられた項目をつなぎあわせると、全くそのままにその通りだとは言わないけれど──ルシオラなのである。客観的に見ると。
 もともと『極楽』の世界観は、<少年まんがに求められる理想の女性像>をズラしてきており、ルシオラ事件を終着点とする横島成長譚ではそのズラしからいったん離れたようであったけれど(参照、31巻p38-1の項)、この巻ではそれをズラしの地点へ引き戻そうとしているのではあるまいか。

 この回の内容も、また「マイ・フェア・レディー!!」の引用タイトル自体も、「バカバカしい幻想の女性像」に、自己ツッコミなしに溺れている世界に対して、かなりの揶揄が感じ取られてよろしい。

■「ザ・ショウ・ゴーズ・オン!!」
01 119 4
「進歩しとるっ!! ちゃんと呪いがかかるよーになってるぞ!!」
 丑の刻参りに見せかけてアセチレンランプ

02 149 4
「ひとこと「がんばったわね」と言えんのかっ!!」「がんばりましたね、横島さん…!!」
 美神不在の状況で、横島とおキヌがドタバタしながら協力して解決、というのは、これまでにもいくつか見受けられましたが、「賢者の贈り物!!」やこの回あたりで、改めて基本形の一つとされかけているように見受けられます。

 ■「沈黙しない羊たち!!」
01 168 3
「かんにんや~!! しかたなかったんや~~!!」
 これも久々に聞くセリフ。横島のひととなりを最も表すセリフであり、上述の、ギャグまんがへと復帰するための「儀式のようなセリフ・コマ」の一つ。
 ここ数回の美神の欲望っぷりはすごいが、そのカウンターとして、横島のこの回。どっちもどっちなのは、「他人のならぜんぜん平気なんだけど!」(p162-5)のコマや、「立場が逆だったら自分が何をするか考えると──/命もあぶないっ!!」(p166-2)の、絶妙のセリフ回しでわかります。

■「白き狼と白き狐!!」
01 182 2
「シロ!!」
 ごく個人的な感想でいえば、なんでここで【おちゃらけ目】なのかがわからない。「デッド・ゾーン!!」でのやりとり(このテンポ、かっこよい)に似るけれど、相手がタマモであると知っているからとはいえ、この横島が【おちゃらけ目】は馴れ合いを感じさせて、寛い心で読めません。ほかの箇所は、なんとかわかるのだけれど。わたくしは存外心が狭い。

04 51 5
「シロ……!! すまん──俺もすぐおまえのところに…
……/やっぱイヤだッ!!
こんなところでさびしく死ぬのはイヤだああッ!!/せめて女の胸に顔をうずめて死にたいッ!! 神さま──ッ!!」
すっ… 「はっ!!
神さまありがとうッ!! どこのどなたか存じませんがその胸の中で死なせてください───ッ!!」
 横島の真骨頂のようなセリフが続々と続く巻である。

04 58 1
「おまたせv 何が終了ですって?」「のわっ!?
な、なんだあああーッ!?」
「タマ切れね……!!/そいつを狙ってたのよ……!!」
 巨大女というジャンルがある。そのルーツは、巨大フジアキコ隊員である…かもしれない。会田誠ですな。

 タマモの、クールな女の子キャラとしての再登場。シロの再登場はかなり久々だったけれども、この二人の対置はうまい。タマモのようなクールな女の子キャラはこれまでの『極楽』ではあまりなくて新鮮であり、かといってタマモ一人では能動的に話が動いていきづらうだろうところに、シロが挑発するorシロと張り合うという条件づけをしてやって、物語はうまく動いていくという結構。
 このハナシ自体も、けっこう脂が乗っていておもしろい。

04 63 4
「無事解決できたのは二人のおかげだ!!」
 GS美神極楽大作戦・女子中学生編、スタート。

 

(2002/04/03。03/08/17新訂。20/12/6再録、語句修正。引用は椎名高志『GS美神 極楽大作戦』(小学館少年サンデーコミックス>、1992-99)による)

 

『GS美神私注』:「ジャッジメント・デイ!!」編 (後) (35巻)【再録】

あるいは、横島成長譚終了編。アシュ編が大団円に終わる一編である。

■「ジャッジメント・デイ!!」 (後)
17 66 1
「戦う動機が横島クンより低レベルだ…!? 大丈夫か!?」
「美神さ~~ん!!」「心配いらないわ、気合いはちゃんと入ってる。あのコなりの照れかくしなのよ。
(でも、横島クンの方は……/確かに人間的に成長して頼もしくはみえるけど──これは……)」
 『極楽』は<ギャグまんが>である。この前提は決して覆らない。<シリアス>がどんなに極まっても、<ギャグ>へ振り子が戻る瞬間を、物語は強固な意思をもって、虎視眈々と狙っているかのように見える。
 といって、<シリアス>傾向は決して『極楽』において逸脱ではない。『極楽』の<シリアス>はそれだけで鑑賞に耐えうる強度を持ち、同時に、およそ<ギャグ>への奉仕の契機を待ちかまえる。<シリアス>と<ギャグ>の往還や見事な転換を、中盤以降の『極楽』は身上としているといえる。

 だが、ルシオラの死の翳は<ギャグまんが>と親和しない。それに関わる横島もまた。『極楽』世界で最も中心的に<ギャグ>を担っていたはずの横島は、ルシオラの消滅が射程に入り始めると、<ギャグ>と<シリアス>のはざまに引き裂かれる。これは作品にとってかつてない事態であった。<ギャグ>と<シリアス>の往還こそが中期以降『極楽』の、あるいは横島の身上であったのに、ルシオラの「霊」の消滅を迎えた横島は<ギャグ>に復帰しえない。そして『極楽』はついに、ルシオラと横島を<ギャグ>の磁場に引き込むことを放棄し、しかし<ギャグまんが>であることを必死に主張するかのように、ルシオラと横島以外のキャラが<ギャグ>を──痛々しいほどに──請け負わざるをえないようになっている。
 読者はこの前提に寛大でないと、ルシオラの挿話とほかのキャラのギャグとのジグザグ構成に違和感を持つかもしれない。

 横島がギャグに復帰しえないことは、例えば、西条の「いつもの悪意がないな。」(p38-3)というセリフに対し無言であるところに確かめることができる。横島の「もうおチャラケはなし」(p65-2)というセリフはそれを裏づける。このセリフをはく横島に、もはやだれも「こんなの本物の横島クンじゃないわっ!!」(31巻p57-3)とは言えない。

 で、物語はこの、「ギャグができない横島」に対してどう落としどころを用意するか──それが、煩悩がパワー源である以上「シリアスな横島にはGSとしての存在価値がない」(p94-2)、という逆説の導入だった。
 <ギャグ>キャラ(=煩悩がパワー源)なのに<シリアス>キャラ(=成長譚)を終着駅まで歩んでしまった横島。これまでの<シリアス>横島はどこかでボケるべきorツッコまれるべきだったのが、今や、横島は自ら<ギャグ>を行わない(行えない)し、周りも直接ツッコむことができない。そんななかでのこの美神の言葉(心内語)は、横島というキャラが抱えた根本の矛盾を衝く、「決めの一手」的な<ギャグ>なのである。
 横島自身は<ギャグ>を行うことができないが、横島という存在そのものを問い返すというメタなレベルの手続きをとることで、横島を<ギャグ>の磁場に引き寄せてしまうのだった。
 徹底して横島を<ギャグ>キャラとして引き戻したいというのは、もはや物語全体の意思であり、そのためのほとんど唯一の手段の発見がここにある。

 けれども、この美神の発言さえも<シリアス>展開のなかに引き込んで<読む>立場もまた可能ではないか。横島の<シリアス>を、<ギャグ>がついに駆逐できない瞬間を物語は用意している。次項に続く。

19 107 1
「!!」
「な……!? オーバーフローしてキャラクターが入れ替わった…!?」
 文字どおり。
 さて、上述の「シリアスな横島にはGSとしての存在価値がない」発言、いわば<横島ジレンマ>とあわせて、この横島のパワーアップについて考えてみることにしたい。

   ○   ○   ○   ○

 そもそも、<シリアス>横島のパワーは、美神によって否定されていたはずであった。何度も引用を繰り返すことになるが、
「確かにシリアスな横島クンは人間的に成長したみたいに見えるけど──/煩悩パワーのない横島クンには霊的パワーもなくなっちゃってる」(p94-1)
という発言(心内語)である。これを<横島ジレンマ>と呼んでおく。美神は「究極の魔体」への最初の攻撃で横島のパワーダウンを肌で感じ取り、その理由をこのように考えたのである。
 たしかに、横島はパワーダウンしていたのだろう。しかし、美神に導かれたその理由としての<横島ジレンマ>を、そのまま鵜呑みして「事実」であると読んでしまうことには警戒したい。
 <横島ジレンマ>は、あくまで美神(と美神母)の発言の域を出ない。つまり、美神母子の「解釈」にすぎない、と読める。少なくとも、そう読みうる余地はある。
 なぜなら、美神の発言を「事実」としてしまうと、このあと横島が「オーバーフロー」するほどの力を出すことの説明をつけにくいからだ。

 パワーアップは二段階に分けて行われる。で、たしかに二段階めは、横島本人が言っているように「煩悩全開」(p108-1)が契機になったと読めるけれど、ならばなおさら、「煩悩全開」以前の一段階目の「オーバーフロー」の理由の説明を煩悩であるといえないのではないか。ルシオラに化けたベスパを横島が見てからp107までの横島の描写そのものに、煩悩の発動を読むのはややむつかしい。
 さらにいえば、二段階目を「煩悩全開」が契機である、とストレートに読んでしまうことに対しても、個人的にはやや抵抗が残る。いずれにせよ、一段階めと二段階めとでは、そのパワーアップの根源は明らかに質が異なっている、と見ることができるだろう。
 そうすると、ここで求められるのは、<横島ジレンマ>という美神の解釈と、一度目のパワーアップ(「オーバーフロー」)、そして二度目のパワーアップ(「煩悩全開」)を包括しうる理屈ということになる。で、やはりこれは、<横島ジレンマ>がルシオラと横島成長譚の接点に関わるかぎり、その関係の端緒から洗い出さなければならない。
 横島成長譚の重要なターニングポイントは次の発言であった。
  「今までずっと、化け物と闘うのはほかの誰かで、/俺はいつも巻きこまれて手伝ってきたけど…
  でも今回は、俺が闘う!!」(31巻p38-4)

  「俺の煩悩パワーを信じなさいっ!!」(p40-1)
 これを(1)とする。
 だが、ここで言った「煩悩」を横島自ら否定する瞬間がある。ルシオラの「霊」の消滅を迎え、美神を横において慟哭するなかでのセリフ。
  「ルシオラは……/俺のことが好きだって……/命も惜しくないって──
  なのに……!! 俺、あいつに何もしてやれなかった!! ヤリたいのヤリたくないのって……てめえのことばっかりで──!!」(35巻p31-4)

  「俺には女のコを好きになる資格なんかなかった…!! なのに、あいつそんな俺のために……!!」(p33-1)
 これを(2)とする。
 以上を踏まえたうえで、横島の成長とルシオラとの関わりについて次のチャートを描くことができる。
 「煩悩」      純愛的「恋」
(ヤリたい)      (好き)
  ↓           ↓?
(1)ルシオラへの宣言(「俺が闘う」)
      ↓
(2)ルシオラ消滅…「煩悩」だけで関わったと後悔
      ↓
魔体への一度目の攻撃:
  (3)パワーあがらず…<横島ジレンマ>by美神
      ↓
魔体への二度目の攻撃
  (4)ルシオラ(=ベスパ)と接触
      ↓
  (5)第一段階:「オーバーフロー」
      ↓
  (6)第二段階:「煩悩全開」
     =(「俺は…やっぱ俺らしくしてなきゃな。」)
 チャートまで書いてしまうのはどうかとも思わなくもないが、乗りかかった舟なので許されたい。チャートに従って考えてみたい。
 (2)のフレーズによると横島は、「ヤリたいのヤリたくないの」=煩悩、と、ルシオラからの「好き」=恋、とを、二項対立させて捉え直し、自分を責めていることがうかがえる。じっさい、横島がルシオラのことを、ルシオラが横島に対してそうであったように本当に「好き」だったかどうかは、わからない描かれ方がされてもいた(30巻p190-3、33巻p57-1参照)。はじめの横島の宣言(1)を、「煩悩」による、いいかげんなものだった、と横島は思い返して自責するのである。

 「煩悩」を自責する横島は、「もうおチャラケはなし」という態度でシリアスにふるまうが、パワーは失われている。そのパワーダウンの理由として美神が行き着いたのが<横島ジレンマ>であった(3)。
 だが、見たとおり、美神の「解釈」では横島の(5)第一段階のパワーアップの理由がつかない。ならばはじめの定義づけから疑うべきでありましょう。「不可能なことをすべて消去した後に残ったものは、どれほどありえなさそうにみえても、真実である。」とデイブ石井氏も言ってることだし。つまり、──そもそも、「煩悩」と「恋」とを二項対立させたところに誤謬があるのではないか。

 横島は「煩悩」のみでルシオラに接したと自責する自縄自縛の状態にある。それゆえパワーはダウンしてしまっている。しかし、ルシオラに化けたベスパを見て、「オーバーフローしてキャラクターが入れ替わ」るほどの(p107-2)パワーアップするのである。これを「煩悩」をルシオラ(=ベスパ)に覚えたから、と見ることはできない。ルシオラ(=ベスパ)を見る横島の描写はあくまでシリアスな表情を崩さないことからそれはわかる。このパワーアップの淵源は、横島自身によって語られる。
「俺は…やっぱ俺らしくしてなきゃな。」(p108-4)
<ギャグ>に復帰して「煩悩」が生じたことがパワーアップの理由なのではなく、「煩悩」/「恋」を切り分けて「煩悩」だけをことさらに否定することが無意味であることを、ルシオラ(=ベスパ)を見て直観したことが契機であるのだろう。
 煩悩もひっくるめて、ヨコシマがヨコシマらしくあること、それがルシオラが恋をした横島であり、しかしルシオラの死に自責をした横島はそのことを見失っていた。ベスパの化けたルシオラに接した横島は、それがベスパであることを知りながら、ルシオラとのこれまでの関わりあいを思い出し、ルシオラの望んだ自らであろうとしたのではないだろうか。
 <ギャグ>による「煩悩」解禁ではなくて、自責による「煩悩」の否定の撤回が、この瞬間に立ち現れるのではないか、と思うのである。

 <煩悩>は、その初期から横島のギャグキャラとしての源泉であり、シリアスでも重要なテーマだったけれど、横島成長譚の最終においてついに、否定されたりするわけでなく、<成長>とぶつかって合わさって高いレベルへ持ち上げられる。そして、この止揚が横島<成長>譚の最終形なのではないだろうか。

 翻って、美神である。<横島ジレンマ>という「解釈」は、美神が、煩悩の有/無、という二項対立という次元から、一歩も抜け出せていないことを意味してもいよう。そこに美神の限界があることがわかる(参照、「ストレンジャー・ザン・パラダイス」編で、未来美神が現在の自分から変わってしまった理由を思いもつかない美神。28巻p100-5)。横島が直面した課題は煩悩の肯定/否定だったとすれば、美神と横島とが到達した地点には、ズレがあるのだ。
 それにしても、小竜姫たちを脱がせた美神であるけれど、比喩的にいえば、本当は美神自身が脱がなければならないのだ。それができない以上、やはり物語への参加資格は、ことここに至っては、ない。
 もう少しいえば、小竜姫たちが脱いだとしても、横島がパワーアップしたかというと、そうではないだろう。そして、仮に美神が脱いだとしても、横島がパワーアップしなかったら、決定的に目も当てられない。だが、そうであるにせよ、美神は状況に身を投げ入れなければ(=横島との関係と自分の感情に対して、照れて逃げずに、向き合わなければ)ならないはずなのである。
 けれど美神はついに向き合わなかった。そのかぎりにおいて、「キャラクターが入れ替わ」り、このあとのアシュタロスを倒す場面、さらに「ジャッジメント・デイ!![その20]」ではまるまる一話、美神の姿が物語中全く描かれず黙殺されるのは、もはや必然であった。

   ○   ○   ○   ○

 というわけで、一度述べたことをここで再び繰り返しておきたい。
 <成長譚>という少年まんがの基本的な話型からいえば、今の美神にとって本来は、ルシオラとの対立こそ何らかの形で乗り越え、解決すべき課題であると考えられる。
 ところが、この成長課題は、先延ばしし続けて(orされ続けて)いくまま、ついに解決せずに(orできずに)ルシオラの退場という形でアシュ編は終了してしまう。
 チャンスが目の前に何度もありながら、向かいあうことをおそれて先延ばしされ続けた<恋>は、いつか<恋>の方からそっぽを向かれてしまうのは世のならい。すなわち、アシュ編後の美神は、物語の恋の主人公の資格を剥奪されてしまいます。これは<ルシオラの呪縛>にほかならない。

19 108 2
「あんたがやれって言ったんじゃねーかっ!!」
 物語は、<シリアス>横島の<ギャグ>への復帰を待っていた。そして、「煩悩全開」の横島と、美神とのこのかけあいは、<シリアス>横島の<ギャグ>への復帰のように見える。
 けれども、実のところ、<シリアス>横島が意識的に、「<ギャグ>横島」をあえて演じているという印象をわたくしは拭えない。それは横島の一つの優しさである、といっては、ひいきしすぎか。

19 108 4
「すまん。俺は…やっぱ俺らしくしてなきゃな。/でないとルシオラががっかりするよな。」
「……! おまえ──ひと目で…?」
 「ブラインド・デート!!」(4巻)と対応するもの、と読みたい。
 外見にまどわされず、【目】を見ることで正体を感じ取る。これもまた、おキヌとルシオラのパラレルを指し示しています。

20 117 1
「永久に邪悪な存在であり続け、勝ってはいけない戦いを繰り返し、/茶番劇の悪役であらねばならんのだ!!」
 「茶番」であることに気づいてしまったアシュタロスにとって、取るべき道は、茶番を書き換える、もしくは、茶番から降りる、の二つ。ということになる。

 そして、アシュタロスが持ち出したこの「茶番」とは、『極楽』全編を一方に置いたときのアシュタロス編自体の特徴を寓意的に示唆しているとも読めよう。アシュタロスは、ついに茶番の悪役から脱し得なかった。

 ともあれ、「茶番」から降りることが「神」に保証されて、アシュタロス編のアシュタロス話は終了する。横島/美神の<物語>と、アシュタロス/美神の<物語>との比重がいつの間にか逆転していった感もあるが(アシュタロスの矮小化?)、ひとまずはアシュタロスの<物語>が終わるのである。

 

■「エピローグ:長いお別れ」
01 131 -
 トビラ、夕陽を遠く見る横島。
 末尾のエピソード(p146-148)の、横島だけを切り取った絵、と解することもできるけれど、やっぱりこれまでの夕陽を見る横島を重ね合わせて、この横島は東京タワーから夕陽を眺めている、と読みたい(34巻p71-1の項参照)。このトビラには、美神とおキヌは介入することができない。

 末尾のエピソードが、夕方なのかどうかは、白黒ページだから読者にはわからない。もちろん夕方と解釈して、p147-2,3の光線を夕陽のものと読んでもよい。けれども、この空の描かれ方は、ほかの夕陽の場面に比べて、夕方の空っぽくないのではないか。昼なのではないか。美神とおキヌがいっしょに登場する場面に、夕陽は選ばれないと解釈するべきではないだろうか。

f:id:rinraku:20201202220143j:plain(p147-1,2)

 p147-2、3は、後ろに控えている美神に返答するが、横島の思念はルシオラのほうを向いている。それは、「…………」(p147-2)のタメにも見てとることができる。p147-4、p148-1は、横島は幻想のルシオラと、物語における最後の対話をする。
 肝心なのは、この四つのコマの背景(p147-2,3,4,p148-1)が、他のコマ(p147-1など)がそうであるような空ではないことだ。空を背景に持つ他のコマと、このp147-2、3で横島に注がれる<光>とは、異質なものであるように感じられるのである。この<光>は、<昼と夜>のそれではなく、そこにはありえないはずの<夕>の<光>なのではないか。それは、ここで退場するルシオラ(と横島の恋)に対しての、物語による惜別の情のようなものではなかろうか。

 横島は、次編から、比喩的にいえば、<夕>ではなく<昼と夜>の世界へと戻ることになる。次編「ファイヤースターター」が、ルシオラとパピリオのいた屋根裏を焼いて、あたかもリセットを図ったように解釈されることは、多く指摘されるところである。横島は<夕>の世界にケリをつけなければならず、横島のp148-2の「彼女のためにも一日も早く俺──」のフキダシが、上のコマに軽くかかっていることは、その譲歩を示すのかもしれない。

 

 <昼と夜>から屹立するこの四コマと、トビラの夕陽を眺めてたたずむ横島の姿をもって、わたくしたちはルシオラ(と横島の恋)にさよならを告げなければならないだろう。

   ○   ○   ○   ○

 この一編について、さらに踏み込み、展望も示したものとしては次の小文も参照されたい。

rinraku.hatenablog.jp    (2002/02/27。03/08/17新訂。20/12/3再録、語句修正。引用は椎名高志『GS美神 極楽大作戦』(小学館<少年サンデーコミックス>、1992-99)、文中で同作の画像の引用をする場合はkindle版による

『GS美神私注』:「ジャッジメント・デイ!!」編 (中) (34巻、35巻)【再録】

あるいは、横島慟哭編。アシュタロスの野望が終焉する一編である。

07 74 2
「一緒にここで夕陽を見たね、ヨコシマ……/昼と夜の一瞬のすきま──/短い間しか見れないから……きれい……」
 改めて、物語がルシオラと夕陽をどう描いてきたかをなぞってみると、
(1)
「昼と夜の一瞬のすきま…! 短時間しか見れないからよけい美しいのね。」(「その後の仁義なき戦い!![その1]」30巻p88-3)
ルシオラの夕陽への思い入れが初めて表れる。ルシオラは、自分たちの一年という寿命と、夕陽のはかなさとそれゆえの美しさとを重ね合わせた。
 横島とルシオラ、単独での会話が初めて描かれる場面であり、横島にとっては、三姉妹=魔族=敵、という認識がゆさぶられるきっかけにもなるセリフ。

(2)
「夕焼け…好きだって、言ったろ。」
「え。」
「一緒に見ちまったから…/あれが最後じゃ、悲しいよ。」(「仁義なき戦い・超常作戦!![その2]」30巻p148-4)
▼横島は、吸い込まれそうになるルシオラの足をつかみ、放さなかった。その理由を問われて。
 ルシオラにとっての<夕陽>は、自分たちの寿命と重ね合わせるものであるだけでなく、横島によって再び生を与えられたものとしての意味もまた、持つことになる。

(3)
「もっとおまえの心に──残りたくなっちゃうじゃない…!」「……!!」
「敵でもいい、また一緒に夕焼けを見て……! ヨコシマ!」(「仁義なき戦い・超常作戦!![その3]」30巻p172-1)
▼はじめて横島の名を呼ぶルシオラ。
 そして、(2)の段階からさらに踏み出し、<一緒に夕陽を見る>ことが横島・ルシオラの恋の象徴として物語上提示されたことにもなる。

(4)
「夕焼けなんか、百回でも二百回でも一緒に──!!」(「ワン・フロム・ハート!![その1]」30巻p190-2)
ルシオラを説得しようとする横島。あとから読み直すと、改めて感慨深い名セリフ、といってみたい気がする。「百回でも二百回でも」という数字のリアリティ(これが「十回でも二十回でも」や「千回でも二千回でも」ではダメなのはわかってもらえましょうか)と、しかしついにこのセリフはかなわなかったことにおいて。
 (3)でのルシオラは、<一緒に夕陽を見る>ことをせめて望むものであったろう。そこには、一年という寿命が前提としてあり、ルシオラのなかでこの前提は覆らない。
 だから、(4)の横島のセリフはルシオラにとっては、考えもしなかったはずなのだ。ルシオラにとって、<一緒に夕陽を見る>か<見ない>か、という以外の選択肢はおそらくなかったのに、横島は、ルシオラが全く考えもしていなかった<寿命を伸ばす>ことを持ち出してきた。横島のセリフは、ルシオラのセリフが抱えていた、ある種の悲壮感と切なさを打ち消し、そんなに考えこまなくてもいい日々を送れる未来へと、いざなおうとしているのである。(1)に提示された夕陽の属性(=はかないもの)を横島は否定・更新しようとする、と言い換えることもできようか。そして、それこそが横島の優しさであったはずだ。
 だが、このあと見るように、<一緒に夕陽を見る>ことは一日しかかなわない(少なくとも物語はその一日だけしか描かない)。それを知るとなおさら、「百回でも二百回でも」のセリフは切ない。

(5)
「じゃ、なんで──」~「いやなわけないでしょ、/ぜんぜんv」(「甘い生活!![その2]」33巻p16-2~p19-2)
▼東京タワーの上。(4)のあと、<一緒に夕陽を見る>ことが唯一かなう日。
となる。
 ルシオラのセリフはこの流れをふまえて読みたい。ルシオラの死を描くこの場面、「一緒にここで夕陽を見たね、ヨコシマ……」とは、直接は(5)を承ける。そのあとのコマ、「昼と夜の一瞬のすきま──/短い間しか見れないから……きれい……」とは、いうまでもなく(1)のセリフをなぞる。
 だが、(4)のセリフにおいて、横島は(1)を否定しようとしたはずではなかったか。横島は一貫して、ルシオラから死の翳を振り払おうとしてきたのだった。ならば、(1)と(5)をともに喚起するルシオラの最期のセリフは、(4)における、横島によるはかなさという属性の否定が、ルシオラに対しついに無効であったことを指し示すだろう。

 ルシオラは、横島がいくらはたらきかけても、根源的に死の暗さを抱え続けている。それは寿命が一年に設定されている、という具体的なレベルを超えて、彼女の存在それ自体のレベルとして。それは強引に意味づければ、横島に生かされて在るという一点のみが、<イマ・ココニ・いる>存在基盤であることに拠る。のかもしれない。

   ○   ○   ○

 ちなみに、他でも触れたことだけれども、「昼と夜の一瞬のすきま」とある「昼と夜」を、美神とおキヌの<喩>と見なすことができる*1
 ルシオラと美神、また、ルシオラとおキヌが、それぞれパラレルな関係にあることは何度か指摘してきたけれども、はからずも、そうした見方を補強するセリフとなっていよう。パラレル関係については後にまとめる予定。

07 76 3
「待ってろ、ルシオラ!!」
 だが、横島はすでにルシオラが亡いことを知らない、という皮肉。物語づくり(作劇)の基本。

08 90 1
「おちついて!! アシュ様はおまえをまだナメてるわ!!/かわせる!!」
 【 同伴する幻 】。

10 127 4
「サラッと値切るな、サラッと……!!/ここの料金は昔っから六文に決まってる!!」「だから今日だけ二文にしてってお願いしてんじゃん!」
 このあと、「三文! 三文半…!」と駆け引きが続いているらしい。この三途の川の渡し守、『999』の鉄郎に見えるがいかがか。

11 143 1
「調子にのるな! 今のを見逃してやったのは、/私にはもはやあの女の生死などどうでもいいからだ。
あいつは外へ出た! 残ったおまえは私が放り出す! 泳がせるのはここまでだ!!」
 わたくしは別段ルシオラびいきというわけではないけれども、それでもここで美神の復活だけが「見逃」され、ルシオラの復活は許さないアシュタロスの意図がよくわからない。
 確かに、描かれない行間をいろいろ想像することも可能ではある。アシュタロスも、「始末」してやると言ってはいるけれども(p105-3、p119-4)、「排除」(p112-3、p148-1)とも言っている。「始末」は「殺す」という意味だけではなく、「排除」もやっぱり「始末」のうちではあるから、一応のところ矛盾はしない。「死ね」(p118-1)と横島に言っているのも、「排除」をした後に、と読む余地がないわけではない。とにかく、いちおうアシュタロスにとっては「排除」が最優先課題だったらしいことは確かにわかる。それで、美神と横島を、殺すわけではなく、「排除」した。
 だがそれにしても、ルシオラの「復活」だけを許さなかったというアシュタロスの必然性がなかなか見出せない。総じてアシュタロスがルシオラの裏切りをどう考えていたのかがよくわからないので、そのへんに美神の復活を許してルシオラの復活は許さなかった理由があるのかもしれない。アシュタロスは美神(≒メフィスト)に対しては怒りとともに共感を覚えているというアンビバレントな感情を持っていることもあるし、あるいは死を望んでいるアシュタロス像も点景されてはいる。美神に対しては、殺したいが生かしたい、という揺れ動く感情があってもおかしくはない。

 そういうふうにいろいろ補完をしても、何かむなしい。美神を生かしルシオラを生かさないのは、物語内の論理では必然ではないが、物語外の論理では必然であることをわたくしたちは知っているからだ。美神は生かされなければならず、ルシオラはそろそろ退場しなければならない。それはよくわかるし、そのために物語内の論理をつくりださなければならないこともわかる。そのための布石──たとえばルシオラに常にまとわりつく死の翳──も確かに打たれてはいる。それはそれでいいのだけれど、どうしてこの場面のアシュタロスの行動に、このセリフのような、こざかしい(…と言ってしまおう)理由がつくのだろう。アシュタロスは美神の復活には惜しくも間に合わなかった、今やっとここに着いた、それで横島を外の世界に排除した、でいいじゃないですか。このあたり、この作品の、<理>で統括したがる傾向がマイナスにはたらいているところだと思う。

 この『私注』は、偏執的なまでにポジティヴに読む試みですが、それでもアシュ編中この一箇所だけは、わたくしは冷静に読めない(あと「ファイヤー・スターター」編も読めない)。それはルシオラが好きとかキライとかいうレベルの問題じゃなく、「物語にのっかる」という作品と読者を結ぶ大前提に対し、この部分は重大な侵犯をしてしまっているのではないかという疑いが頭から離れないからである。

12 166 1
「「奥の手」だけに……/オクテ…なんちて…」「くっ…くだらんっ!!」
 際限なく出てくるとか、単なる武器になっているとか、評判の芳しくない「ジャッジメント・デイ!!」編の「文珠」だけれども、この部分けっこう好もしい。
 なお、こういう「~だけに」というような(なかばベタな)セリフは、やはりおキヌが言うのがいちばんしっくりくる。

   ○   ○   ○

 横島の「悪運じゃなくて策略だよ、アシュタロス……!!」(p163-1)というセリフがある。さて、これは、アシュタロスの行為を否定する目的で発せられた言葉でありながら、同時に「宇宙意志」(p154-1)の会話を展開していた美神さえ否定する可能性をはらんでいておもしろい。いや、美神の「天は自ら助くる者を助ける」(p171-2。Heaven helps them help themselves.)という言葉によれば、「策略」がうまくいったのも「宇宙意志」のベクトルに助けられてということになるのだけれども。
 美神と横島との間にあるこのくいちがいは注目するに足る。アシュ編において、アシュタロス・美神と、横島(・ルシオラ)とが、どうやら本質的にくいちがう行動原理にあるようであることと、相似形をなすように思われるからである。
 アシュ編の随所で、美神の行動原理と、横島の行動原理にはくいちがいが見られる。美神はそれを感じとりつつも、有効なアプローチを行わない。また、行えない。アシュタロスの劣勢を、「宇宙意志」によるものと述べ立てる美神もまた、劣勢に導くための重要な役割を果たした横島のはたらき自体については、(アシュタロスへの言葉ということもあって、)なかなか口では出さない。比喩的にいえば、彼女は常に、自分が主人公であり続けようとするのである。
 のちに、「ここまでやれたのは横島クンのおかげだしね。」(35巻p12-3)という言葉を述べてはいるので、横島のはたらきを評価していないわけではないが、逆にいえば、横島の手に地球の運命がかかるというドタンバである状況にならなければ、この発言はついに横島に正面きってはなされなかっただろうと想像することができる。
 いま述べたことは、4項目下の「介入できない美神」問題に即つながる。参照されたい。

13 184 1
「今すぐ返せば君とルシオラは生かしておいてやろうじゃないか。/新世界のアダムとイヴにしてやろう。」
 というわけでヒヨシをアダムに、ヒナタをイヴにして『MISTERジパング』がはじまった! と思ったが…。連載終了してしまった。キライじゃなかったのだが…。

14 15 2
「約束したじゃない、アシュ様を倒すって…!/それとも──
誰かほかの人にそれをやらせるつもり!? 自分の手を汚したくないから──」「……!!」
 かつて横島はルシオラに、
  「今までずっと、化け物と闘うのはほかの誰かで、/俺はいつも巻きこまれて手伝ってきたけど…
  でも今回は、俺が闘う!!」(31巻p38-4)
と言った。
 当事者になるということは、傍観者であったときには背負わなくてもよかったリスクと向き合わなければならないことと裏表である。ルシオラは横島に自分の言葉に責任をとるように説く。そして横島はその言葉を受け入れる。遠くは「誰がために鐘は鳴る!!」編から、そして具体的には「今、そこにある危機」編から始まる横島成長譚は、ここに一つの決着を見る。

 だが、一方の成長譚の主役・美神は、さまざまに成長譚の課題を随所で与えられておきながら、リスクに対する責任を果たさない。アシュタロス編において美神が主人公から追いやられるのは、この点において必然であった。

15 31 1
「……
……/横島クン……
なんといっていいのかわかんないけど……でも……」「あいつは──
ルシオラは…/俺のことが好きだって……/命も惜しくないって──」
 ルシオラ消滅。横島は慟哭する。
 そして、そこには美神とおキヌは介入しえない。3ページにわたって美神は横島に慰めの言葉を向けるが、その言葉は空疎でさえあり、横島のセリフは美神の言葉をさえぎってさえいる。美神は横島を抱きかかえ、【視線】も横島のほうをずっと指し示しているが、横島の体勢には、美神の体から離れるようなベクトルさえ読みとれ、【視線】もまた、美神の方を向かない。

f:id:rinraku:20201202090748j:plain(p31-3,4)

f:id:rinraku:20201202122725j:plain(p33-2)

 この3ページ、横島と美神(+おキヌ)のあいだには、セリフにおいても、表現においても、断絶(または非対称)が示されていて、例外はない。この事実は重い。

 横島の視線がルシオラまたは自分以外を向くのは、パピリオとの会話(p38-4)を待たなければならない。

 (2001/10/20。03/08/17新訂。20/12/2再録、語句修正。引用は椎名高志『GS美神 極楽大作戦』(小学館<少年サンデーコミックス>、1992-99)、文中で同作の画像の引用をする場合はkindle版による

*1:具体的に、昼(太陽)=美神、夜(月)=おキヌ、とみなす読みも提示されている(アイベックスKO氏「極楽的小宇宙」『紙の砦!!』5、2000・8)。「『極楽大作戦』が長期連載を辿る過程で、美神さんとおキヌちゃんが背負いきれなくなったドラマツルギーを、ルシオラは託された」。卓見。

『GS美神私注』:「ジャッジメント・デイ!!」編 (前) (33巻、34巻)【再録】

あるいは、東京タワー編。ルシオラが消滅する一編である。

■「疑惑の影!!」
03 123 1
「………/どこでもいい?」
 「芦優太郎」の誘いに対して意外にもOKを出す美神。
 この美神のセリフ、「………」のタメがポイントだろう。

 あとになって、一連の出来事は芦優太郎ことアシュタロスの策略だったということがわかる。だが、どこまでが策略だったのかはけっこう問題だ。
 二か月の虚構空間は、アシュタロスが「用意した世界」(p144-2)というが、その世界のどれほどをアシュタロスは統括しているのだろうか。この空間では、「芦優太郎」にギャグキャラ的な【汗】が付せられたり(p100-1、p103-3など)、心内語が示されたり(p94-3、p109-3)、語り手によるナレーションが入ったり(p106-2)、あるいは、これが一番重要だが、美神一人をだますための虚構空間を語らなければならないのに、美神の行動とは無関係の横島とルシオラのやりとりが描かれたり(「もし、あれがアシュ様だったら…/私たち──どうなるの?」p92-6)している。はたして、この横島やルシオラ、美智枝たちの行動もまたアシュタロスの策略なのだろうか。
 合理的解釈をすれば以下のようになるだろうか。この空間は確かにアシュタロスが用意した虚構空間であるが、「芦優太郎」という人物(とその財閥)が仮構されている点のみが、元の世界と異なるだけである。美神を除く全ての人物は、元の世界と同じ思考・同じ感情を持っている。言い換えれば、この「宇宙のタマゴ」の設定は「芦優太郎」と美神を除いて、ほかは全てコピーされている。
 この世界の人物たちは、仮に「芦優太郎」という人物がそこに現れたとしたら、かく行動・言動するであろう、というとおりの行動・言動を行う。「芦優太郎」の存在以外、アシュタロスによる元の世界からの改変は特に意図されていないのである。むしろそうでなければ美神を欺くことはできない。
 こうした世界を設定したうえで、アシュタロスは「芦優太郎」としての行動を通して、美神に「芦」とアシュタロスは無関係と思わせ(p101-1)、仕事と金とを渇望している美神の欲求を満たし、かつ美神を誘惑(?)し(注2)、と美神が「心を許す瞬間」(p144-2)を待ち構えている。
 アシュタロスの策略は、どうもこんなところに落ち着きそうである。*1

 しかし、美神がアシュタロスの策略にあっさり乗ることがあるのだろうか。
 ことに美神は、西条を除けば同年代の男性に対して、強気なようで、その実、初めから必要以上に距離を置いていると思われる(物語ではその辺り、家族関係に原因があるように描かれているようだ。「私と結婚したいだなんて、バカじゃないの?」(4巻p6-2)というセリフが何の他意・含意もなく口を衝いている点も注意される(アシュタロスと金成木財閥の息子を比べてはいけないのかもしれないが))。そういう美神が、芦優太郎の誘いにあっさり乗ってしまうところには、アシュタロスの策略以外にもうワンステップ、別の理由を考えておくべきではないか。それを解くのが、最初に触れた、「………」というタメなのである。

 この「………」は、これより少し前、アシュタロスが「くたばっ」たらしいということになった場面で、ルシオラが横島に抱きつき「よかった!! 本当によかった!!/私たち、もう──なんの心配もなくなったのね……!」(p117-1)と言うのに対して、美神がジトッと横目を向けているコマのフキダシ「……」(p117-3)と、通じあっていましょう。
 ルシオラは「私たち」と言った。この「私たち」とはいうまでもなく、ルシオラと横島である。ルシオラが意図していないとはいえ、ここに美神は明らかに疎外されているわけです。美神は横島を取り込めなくなってしまっている。横島とルシオラがくっついたことによる美神の微妙な感情が、「芦優太郎」との関わりに影響している(誘われても普段なら鼻で笑って拒絶しそうなものなのに、少しためらったあと簡単にOKしてしまう)ということになります。
 「……」というフキダシの一致が、二つのエピソードが相関することを示していると考えられるわけです。
 (ルシオラと横島のいちゃつきもアシュタロスの作為のうちにあった、とは考えないことを付言しておきたい。それは「…うまくいったようだな。」「ええ! この先はもうアシュ様にまかせておけばいい。」(p112-2)という土偶羅とベスパの会話が、横島とルシオラのやりとりとは無関係であるところから証明できるかと思います。)

 そうすると、アシュタロスの罠にかかったかと思われた美神も、その実、アシュタロスの意図した策そのものに100%はまったというわけではないという、奇妙な現象が生じたことになる。ルシオラのことで心が揺れてなければ、アシュタロスに付け入らせるスキはなかったかもしれないのである。
 美神が、自分の性格と状況と感情がこんがらがったなかで、<ルシオラの恋>をうまく感情処理できないこと。アシュタロスとの対立とは別の次元に、ルシオラとの対立を美神がかかえていることは物語がはっきり示しています。ならば、<成長譚>という少年まんがの基本的な話型からいえば、今の美神にとって本来は、ルシオラとの対立こそ何らかの形で乗り越え、解決すべき課題であると考えられます。言い換えれば、アシュタロスにだまされた→アシュタロスを倒す、というのが物語の表面の展開だが、裏面には、横島と美神の関係がルシオラによって不全になった→横島と美神は新たな関係を構築し直さなければならない、という課題が敷かれている、ということです。

 ところが、この成長課題は、先延ばしし続けて(され続けて)いくまま、ついに解決せずに(できずに)ルシオラの退場という形でアシュ編は終了してしまう。
 チャンスが目の前に何度もありながら、向かいあうことをおそれて先延ばしされ続けた<恋>は、いつか<恋>の方からそっぽを向かれてしまうのは世のならい。すなわち、アシュ編後の美神は、物語の恋の主人公の資格を剥奪されてしまいます。これは<ルシオラの呪縛>にほかならない。

01 125 3
「(ま、いーか。)」
 かつて、酔って寝てしまったおキヌを背負う横島を、美神が横目で見ながらつぶやいた、「ま、いいかv」(「スタンド・バイ・ミー!!」23巻p112-4)が思い起こされよう。

 「ま、いいか」という言葉自体は、問題の先送り、あるいは成り行き任せであるわけです。いや、文脈から言えば、意地っ張りと優しさとが絡まった彼女の美質やかわいさを表す言葉ではあるのですが、同時に見方によっては負の側面に受け取られるおそれのある言葉でもあります。
 おキヌが相手である「ま、いいかv」の場合、おキヌと横島の関係は自分の把握できる範疇にあるという安心が根底にあると考えられ、またおキヌ自身が積極的でないこともあって、成り行き任せという負の側面は、美神自身自覚することはないし、読者に対しても顕在化することはとくにありません。

 だが、ルシオラと横島の関係は、美神が把握できる範疇を超えている。また、これまでの『極楽』キャラには見られないほど、ルシオラは積極性を前面に押し出しています(ただし、積極性については小鳩をその先蹤と読むことも可能。これについてはすでに随所で諸氏によって言及されている)。ここに関しては、積極的なおキヌ、と考えるとわかりやすいかもしれない。ルシオラ/おキヌのパラレルがここにもみることができるわけです(→参考、33巻p33-1の項 )。

 おキヌが相手の場合は潜在するにとどまっていた美神の性格の負の側面が、アシュタロスとの対立が描かれるなかではからずも顕在化してしまう。そういうことになりましょうか。美神がアシュタロスの策略に落ちる決定的なコマのセリフが、わざわざ「(ま、いーか。)」と、「スタンド~」編でのセリフをなぞっているところに、そういう含意を読みとってみたいわけです。

 美神が成り行き任せと先送りを崩さないことが原因で、対アシュタロス物語の局面は重大な危機を迎えている。前項にも述べたように<成長譚>的に考えれば、さあここで美神は一皮むけなければならないところだが、それをどうも徹底的に拒否してしまう。美神が? 物語が?

 

■「ジャッジメント・デイ!!」 (前)
01 141 1
「おだまり裏切り者!/私は自分の意志でアシュ様についてくって決めたんだよ!」
 参考、32巻p146-4の項。

01 141 5
「二か月…!?/パピリオの家出のあと……」「まだ三日しか経ってないですよ!?」
 というところで、「疑惑の影!!」の物語が卵のなかの世界であったことがわかる。

01 145 1
「魂とは加工の難しい素材だ。/普通の人間のものでも願いを叶えてやったりと手間がかかる。」
 「デッド・ゾーン!!」編の、
「(おまえのような人間の魂が一番御しやすいのよ。願いを満たせばもう魂は逆らえない──ひとついただきね…!)」 (22巻p69-3)
というセリフと平仄があわせられる。

02 157 2
ぼてっ 「横島さんっ!!」「火事場のバカ力がそんなに続くわけないでちゅよっ!」
 「火事場のバカ力」の直接の射程は、まちがいなくゆでたまごキン肉マン』。ひいては80~90年代『少年ジャンプ』系格闘モノが、徹底的にズラされる。

04 35 3
「許さん!!/貴様のような下等なゴミにこれ以上わずらわされるなど…!!」
 「GSの一番長い日!!」編で、アシュタロスは、「おまえは私が意図せず作った作品なんだよ。/千年前、おまえにしてやられた時は屈辱的に感じたものだったが──/あとでそれに気づいて──私は嬉しかったよ。」 (32巻p67-2)と言っていたが、結局本質は変わっていないで足下をすくわれる。人間、謙虚さが大事です。

05 38 3
「私、おまえが好きよ。だから…/おまえの住む世界、守りたいの。」
 ルシオラとおキヌとの通底をこれまでにいくつか導き出してきたけれども、その類似に対して、「守る」ための理由は大きく異なる。
 おキヌが「みんなを…/守らなきゃ…」(20巻p129-2)という理由は、「もう…終わりにしたいんです。/誰かが…肉親を失って悲しむのは…!」(20巻p73-1)というところにある。一方、ルシオラはひたすら横島の存在が行動原理である。この違いは、二人のキャラの魅力の違いを示してもいましょう。

 もちろんおキヌの良さを、博愛的というところにまとめてしまうつもりもない。彼女の魅力は、「みんなを」という博愛的な願いとは別に、「生き返ったって…/何百年もたってから生き返ったって…もう…/横島さん…」(20巻p137-2)という想いが頭をよぎってしまうところにこそあると思われるからである。

06 48 1
「この辺でケリをつけましょう、ベスパ!」
 ベスパは「地下鉄に移動したのはポチを逃がすためか……!?」というけれど、もちろん、ルシオラには別の文脈が在る。東京の地理に詳しければ、神谷町駅(p47-1)でピンとくるし、「女同士、ホレた男の未来を賭けて勝負よ!!」(p49-1)のコマではっきりわかるが──ここが、東京タワーのある場所である、ということ。

 ただし、ルシオラはこの場所を自ら選んだのかどうか。答えは永遠に謎のなかです。死地として想い出のこの場所を選んだと見ても、意図したわけではなくともいつのまにかここに惹かれていたと読むのも、たぶんどちらでもいい。

07 71 1
「よ…よし、わかった…! 必ず戻るから待ってろよ!!」
 この約束は、35巻p131で果たされる、と読みます。

07 71 2
「ここでいいわ。ながめがいいし、おまえがあいつを壊せばすぐ見えるから…!」
 「ここでいい」一番の理由を、ルシオラは横島に言わない。

   ○   ○   ○   ○

 自分の「霊基構造」を、瀕死の横島に間引いて与えたルシオラだが、それが死と引き替えである行為であることを横島には隠している。その隠そうとするルシオラの感情の推移と、ルシオラの【目】の表現とは、密接な関係を示しているといえるだろう。

1.)
 p69-3とp70-1では【片目をつぶる】ことが<苦痛>に耐えるルシオラを示している。
 横島は「大変だ…! すぐみんなのとこに──」と言うが、ルシオラは慌てて心配を打ち消す。p70-2。【集中線】とともに【汗】と【鼻の上の斜線】で、慌てが表現されているのは見やすい。

f:id:rinraku:20201129111138j:plainf:id:rinraku:20201129111140j:plain(p69-3,70-2)

 以後のルシオラは、横島を心配させるようなそぶりを見せません。横島を前にしているかぎり、【汗】はルシオラには付されていない(後掲)。これが、横島から見えなくなるp73-1、p73-3になるとルシオラに付される。

f:id:rinraku:20201129111132j:plain(p73-3)

いうまでもなく、汗の有無が、あえて横島の前で苦痛の表情を見せまいとするルシオラの心情を示す比喩表現になっている。

2.)
 加えて、p70-4・p70-5・p71-2のルシオラが【片目隠し】である意味に着目したい。単にかっこよくルシオラを描いているだけではない。

f:id:rinraku:20201129111124j:plain(p70-5,6)

 p69-3・p70-1ではつぶっていた【片目】が<苦痛>を表していたことを思い起こされたい。つぶった【片目】(=<苦痛>)が、【斜線】で隠されること。ルシオラが<苦痛>を必死に隠しているという含意が導き出せないだろうか。
 これを踏まえると、p71-2の、片目を隠しつつ、にこっ.と笑いかけるルシオラのコマはさらに重い。

f:id:rinraku:20201129111126j:plain(p71-1,2)

 表現は連環して心情の推移を描き出す。

3.)

f:id:rinraku:20201129113916j:plain(p71-4)

 「がんばってね。」と横島に言葉をかけるp71-4は、ルシオラの【両目】が見えている。ルシオラにとっては、これは横島への最期の言葉のつもりだからだ。
 ルシオラは最後のつもりで気を張って横島を、【両目】で見送ろうとするのである。【片目】を2ページ分積み重ねてきたあと、ここが【両目】である意味を汲み取りたい。

4.)
 だが、もう1コマ、ルシオラが「大丈夫…!!」と笑う、p72-3が残っている。

f:id:rinraku:20201129111129j:plain(p72-3)
 これも【両目】が見えているけれども──しかし、p71-4と、このp72-3とは等価値ではないだろう。
 p71-4は、【両目】を見せているとはいえ、【鼻の上の斜線】が付されて、ルシオラのある種の気負いが感じられるようです。けれど、p72-3ではその気負いさえ消えています。
 この違いの淵源はどこにあるか。たぶん、p71-4は、ルシオラが用意していた表情なのだ。けれどもp72-3の笑顔は用意していたものではない。横島が「お、おうっ!!」と去りかけたあと、立ち止まってルシオラにもう一度声をかけたのは、ルシオラにとっては予想外の展開だったのだから。
 横島に気づかれないままに別れを告げたつもり(p71-4)が、横島は立ち止まり、ルシオラに「本当に…大丈夫だな?/ウソだったらただじゃおかねーからなっ!!」と、再び心配の目を向けた。淵源はここでしょう。ルシオラは、自分の思惑のとおりにこっそり最後の別れを告げたはずが、自分の思惑を超えて、横島の、変わらない優しさに触れてしまう。ルシオラに全ての苦痛と気負いを隠させて、笑顔を可能にさせたのは、横島の優しさだったのではないか。そして、優しさがあるからこそ、優しさを与えてくれた相手に、ルシオラは最高のウソをつける。最高の笑顔を投げかける。そう読めるのではないだろうか。

07 73 4
「ウソついたこと──/あんまり怒らないでね……」
 横島の去ったあとのルシオラ。このコマはルシオラの視点に即して描かれている。

f:id:rinraku:20201129111134j:plain ルシオラが、いま地上のどこかを走る横島を幻視しながら、その横島に向けて、言わなかった本当の別れの言葉を投げかけているコマです。
 そしてさらに、次の瞬間、ルシオラはかつて二人で見た夕陽を幻視します。

07 74 2
「一緒にここで夕陽を見たね、ヨコシマ……/昼と夜の一瞬のすきま──/短い間しか見れないから……きれい……」
 ルシオラ消滅。次編に続く。

(2001/04/01。04/02改訂。03/08/17新訂。20/11/30再録、語句修正。引用は椎名高志『GS美神 極楽大作戦』(小学館<少年サンデーコミックス>、1992-99)、文中で同作の画像の引用をする場合はkindle版による

*1:ただし、合理的解釈がいかに可能であっても、わたくしの感想としては、この「疑惑の影!!」編は、一般のまんが読みが普通に体得している<まんがを読む際の約束事>に対して、重大な侵犯をしてしまっていると思う。セーフととる解釈も確かに可能なの(だし、そのための布石がいくつか打たれていることも頭ではわかるの)だが、仮にそうであったとしてもそこに<だまされる快楽>はなく、ある種の気持ち悪さが残ってしまう、というのが偽らざる心境です。

『GS美神私注』「甘い生活!!」編(32巻、33巻)【再録】

あるいは、横島ルシオラ恋愛編。パピリオが丸め込まれる一編である。

02 16 2
「じゃ、なんで──」
 夕焼けを見る二人。
 かつてヨコシマがルシオラに投げかけた、「夕焼けなんか、百回でも二百回でも一緒に──!!」(「ワン・フロム・ハート!![その1]」30巻p190-4)というセリフどおりの時をいま過ごすことができている。

02 16 4
「でも、もし私がその気になったら──人間の何百人くらい、すぐに殺せるのよ? 怖くない?」「怖いけど、/美神さんもそうだし!」
 女の子と向き合っているとき、ほかの女性を基準に話をしてはいけません。ましてそれを口に出すなどなおさら。

02 19 2
「いやなわけないでしょ、/ぜんぜんv」
 のちに大きな意味を持っていくことになる、東京タワーと夕陽の組み合わせは、ここが初出である(ただし、22巻を参照のこと)。
 横島が「「ぐわー」とか迫って「いやー」とか言われ」ず、こともあろうにキスまでされてしまう、という、明らかにこれまでと異なる展開。

02 21 6
「私、まだ子供なのかも……/…美神さんは?」
 おキヌ子供問題については、29巻p89-1も参照されたし。

 それまで「幽霊」だったことで横島と非対称な関係だったおキヌは、「再生」し、対称的な関係(恋愛可能な関係)になったと思われたが(「サバイバルの館!!」編にはそれが顕著)、物語は、「グレートマザー襲来!!」編前後から、「おキヌ=子供」という公式を接ぎ木することで、結局、非対称な関係が継続されている、ということができる。

02 22 1
「あのコたちのことはなりゆきにまかせるしかないじゃん!」
 美神がこういう態度をとるのは彼女の立場からいってもっともで、じっさい、なりゆきにまかせる、ということは恋においては往々にしてありうることだ。
 ただ、この態度をこののち四巻分、ついに改めることなく、積極的な行動を行わなかった(行えなかった)一点において、アシュ編末の美神の言葉は空疎に響く。

 これに対してこの物語の因果律は、アシュ編後の美神に恋を許さない。

03 33 1
「大丈夫よ、ヨコシマ。/もしもの時は私がパピリオを始末して…自分のことは自分で──」
「バ…バカなこと言うなッ!!」
 ルシオラ/おキヌのパラレルな関係は何度か指摘してきているが、ここにもそれが確認できる。
  「守ってくれて嬉しかった…! でも…この霊たちの辛さがわかるから──/もう…」
  「バ…バカなこと言うな!!」(「スタンド・バイ・ミー!!」23巻p87-4)
 この横島の真剣さについては、おキヌを自己犠牲に至らしめてしまったという過去(「スリーピング・ビューティー!!」編)を再び繰り返してしまいそうな予感を、横島なりに覚えるから、と解釈できた。
 そしてここも、──ルシオラに対して投げかける「バ…バカなこと言うなッ!!」という言葉もまた、かつて自分のために命をかけようとした過去をその背後に抱えるからこその真剣さであると見ることができよう。

03 33 3
「………/ま、もーちょい様子をみましょう。」
 「………」のタメに注意。

04 48 1
「チョウの弱いものって何かしら!?」「カ…カマキリ──とか、クモ…とか?」
「「カマキリ」って漢字でどー書く!? ひと文字!?」「えーとえーと。」
「「クモ」ってどーだっけ!?」「えーとえーと。」
「くっそー!! 空の「雲」ならひと文字なのに…!!/──」
ぴん 「!!」
「雨!!」
 こういうところが文珠の醍醐味。22巻p13-5参照。

04 56 3
「な…なんでよっ!?/なんでそんな夢見てるのよっ!?」
 ルシオラの震えを、刮目して見よ。

04 57 1
「どうして私が美神さんに入れ替わってるの!?/それは私たちの思い出じゃない!!」
「ル…/ルシ…オラ?」
「女のコなら誰でもよくて──/たまたま美神さんに入れ替えてみただけ? それとも──」
 単に人が入れ替わっているだけではなく、夕焼けの東京タワーであることは、かぎりなく重い。
 夕焼けには、今のルシオラにとって、かつて「ちょっといいながめでしょ?」(30巻p88-2)といっていたとき以上の意味がある。つまり、今のルシオラが見る夕焼けは、横島によって与えられた夕焼けであり、「夕焼け」と「ヨコシマ」とは切り離されて存在しない。その横島が、夕焼けの光景を深層心理では美神と過ごしていることに対し、ルシオラの愕然はいかほどのものだろうか。
 美神のルシオラを慮っていう、「よかったわね、ルシオラ!/………?」(p58-2)という言葉は、かえって残酷でさえある。

 ならばこの、「横島の深層心理でルシオラと美神とが入れ替わっている事件」は、横島を(さらに作者を)非難すべきこととしてわたくしたちに記憶されるべきでしょうか。
 たしかに「ルシオラとつきあっている」ことになってるのだから、横島が非難されることではある。だけれども、ルシオラの見た深層心理は、当の本人の横島さえ意識・自覚していないものです(だからこそ「深層心理」なんだけど)。横島自身はルシオラと<恋>をしていると思っている。ところが深層においては実は美神と交換されている。あまりにも残酷だけれども、ですがそういうことは人の心においてありえる事象にちがいないのである。
 実際、横島のルシオラへの想いは、いざ問うてみるとほんとうに<恋>なのかどうか、わからない。そして青春の<恋>には、およそそういうことだってあたりまえのようにありうることなのではなかろうか。

 ただ、この「深層心理」を、イコール永続不変の「真実」と決めつけてしまうのも早計だ。なにしろルシオラと横島の関係はまだ始まったばかりで、発展途上の青春の<恋>であり、また横島にとってはある面では受け身の<恋>であることも考えあわせるべきでしょう。目先をかえて次のコマに着目してみたい。
「ル…シ……?」 (33巻p75)
 このセリフで、美神ではなく、ルシオラを呼びかけようとしている点も考えあわせなければ片手落ちです。
 いや、次のページで突如キスを迫るヨコシマが描かれるので、ルシオラとわかった途端迫るなんてやっぱり不実だ、と読むのも穏当な読みなのですが、他方、眼が「+」になっていることに注目してみたい。

f:id:rinraku:20201129085800j:plainこれは無意識状態を示しているとも解釈できる。無意識状態にあって、「ルシ」オラを呼ぶ横島。とすると、時間をかければきっといちばん奥深いところでもルシオラを思うようになっていくにちがいない、と読者に期待させるコマではありますまいか。

 「深層心理」が自覚する「意識」と食い違っている。しかし、それが必ずしも永続不変のものではない可能性も「ル…シ……?」の発言に望むことができる。あえてうねった形で示されるこの<恋愛>観はなかなかにリアルなのではないか、と思わされるのです。

 05 68 1
「ヨコシマや西条さんが助かったのはあのコが手加減したからじゃないのよ!!/私は──
許さないッ!!」
 パピリオの事件が引き金になって、見なくてもいいものまで見てしまうことになってしまったことへの行き場のない思いがこの「許さないッ」には込められている、と読めないか。根拠があるわけではないが、「私は──/許さない」の間にコマを変えたタメに、そういうルシオラの心境を読みたい。

05 73 2
「(そうだったのか──!? / いや、それだ!! 俺もそれが言いたかった……!! よーな気がするっ!!)」
 椎名まんがにはコピーが多用されていて、たいがいの場合げんなりするのだけれど、ここの横島の3連続のコピー使い回しは、たいへんに笑える。

05 74 6
(でも、考えてみたら、今回はともかく──
まるっきりウソってわけでもないよ。私のときは身をていして守ってくれたもの。)
f:id:rinraku:20201129085753j:plain

 かわいさ・幼さ・照れを主に表す【ほお斜線】がルシオラに与えられている。のですが、これがp10-4、p11-2以来、約60ページぶりである点は着目されるべきではないか。

f:id:rinraku:20201129085750j:plain(p11-2)

 60ページの【ほお斜線】空白期において、ルシオラが【照れ】ていると考えられるシチュエーションでは【鼻の上斜線】が用いられている。じゃあ別に取り立てていうほどのことでもないのでは、と言いたいところだけども、同じ【照れ】を表すまんが記号でも、【ほお斜線】と【鼻の上斜線】とのあいだには位相差を指摘できるはずなのだ。

 【鼻の上斜線】は、照れだけではなく、気持ちの余裕のなさ・緊張・焦り・思いこみというような、マイナスの感情を読者に示す役割も持っていると定義づけられると思われる。 そしてこの60ページ分のルシオラには【鼻の上斜線】がきわめて多用されているように思う。

f:id:rinraku:20201129085756j:plain(p57-3)

f:id:rinraku:20201129085803j:plain(p69-4)

これが全て【照れ】ばかりか。【鼻の上斜線】が付されていても、本当にルシオラが無邪気に【照れ】ているのかどうかあえて読みとらせないコマさえあるように思われるのである。そこには、あえて読みとらせないという記号上の戦略を考えておくべきではないか。はっきりと【照れ】を表す記号である【ほお斜線】は、事件が終息し、ルシオラ自身が横島との関係に前向きの納得をするこのp113-1まで、用いられない。
 このことはウラを返せば、パピリオ事件の展開のなかで、人間社会のなかにまだなじめない不安定さ、そしてさらに、横島の深層心理を知ったことでかかえてしまった疑念をめぐって、ルシオラがいかに不安定な状態・心情にいつづけていたかを如実に表すのではないか。

05 75 2
「バカでやさしくて──スケベの一念でアシュ様だってやっつけちゃって…好きよ、横島。」
 26巻p19-4参照。

05 75 4
(だから今は、/心の中が私ひとりでなくても……ま、いーか。/ヨコシマのスケベ心が美神さんにひかれるのは当然だもんね。)
 なんて寛容な。
 ただ、この「だから今は」という限定のもとでのルシオラの留保が、「急がなくても──今の私たち、時間はちゃんとあるんですもの。」(p11-2)という認識に裏づけられていることがわかると、二度め以降の読みにおいてはなかなか悲しいものがある。「甘い生活!!」編がいかにつかの間の平和だったか、偲んで余りありましょう。

 なお「ま、いーか。」と言ってしまってのっぴきならなくなるのはむしろ次の編の美神だったりする。

05 76 3
「ひゃんほひほほほはっへはらひはひゃんはほっ……!?」「当分の間全面禁止にしますっ!!」
 「ちゃんとしごとおわってからしたじゃんかよっ……!?」か。

 (2001/02/04。02/05改訂。03/08/17新訂。20/11/29再録、語句、誤記修正。引用は椎名高志『GS美神 極楽大作戦』(小学館<少年サンデーコミックス>、1992-99)、文中で同作の画像の引用をする場合はkindle版による