あるいは、横島慟哭編。アシュタロスの野望が終焉する一編である。
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「一緒にここで夕陽を見たね、ヨコシマ……/昼と夜の一瞬のすきま──/短い間しか見れないから……きれい……」
改めて、物語がルシオラと夕陽をどう描いてきたかをなぞってみると、
(1)
「昼と夜の一瞬のすきま…! 短時間しか見れないからよけい美しいのね。」(「その後の仁義なき戦い!![その1]」30巻p88-3)
▼ルシオラの夕陽への思い入れが初めて表れる。ルシオラは、自分たちの一年という寿命と、夕陽のはかなさとそれゆえの美しさとを重ね合わせた。
横島とルシオラ、単独での会話が初めて描かれる場面であり、横島にとっては、三姉妹=魔族=敵、という認識がゆさぶられるきっかけにもなるセリフ。
(2)
「夕焼け…好きだって、言ったろ。」
「え。」
「一緒に見ちまったから…/あれが最後じゃ、悲しいよ。」(「仁義なき戦い・超常作戦!![その2]」30巻p148-4)
▼横島は、吸い込まれそうになるルシオラの足をつかみ、放さなかった。その理由を問われて。
ルシオラにとっての<夕陽>は、自分たちの寿命と重ね合わせるものであるだけでなく、横島によって再び生を与えられたものとしての意味もまた、持つことになる。
(3)
「もっとおまえの心に──残りたくなっちゃうじゃない…!」「……!!」
「敵でもいい、また一緒に夕焼けを見て……! ヨコシマ!」(「仁義なき戦い・超常作戦!![その3]」30巻p172-1)
▼はじめて横島の名を呼ぶルシオラ。
そして、(2)の段階からさらに踏み出し、<一緒に夕陽を見る>ことが横島・ルシオラの恋の象徴として物語上提示されたことにもなる。
(4)
「夕焼けなんか、百回でも二百回でも一緒に──!!」(「ワン・フロム・ハート!![その1]」30巻p190-2)
▼ルシオラを説得しようとする横島。あとから読み直すと、改めて感慨深い名セリフ、といってみたい気がする。「百回でも二百回でも」という数字のリアリティ(これが「十回でも二十回でも」や「千回でも二千回でも」ではダメなのはわかってもらえましょうか)と、しかしついにこのセリフはかなわなかったことにおいて。
(3)でのルシオラは、<一緒に夕陽を見る>ことをせめて望むものであったろう。そこには、一年という寿命が前提としてあり、ルシオラのなかでこの前提は覆らない。
だから、(4)の横島のセリフはルシオラにとっては、考えもしなかったはずなのだ。ルシオラにとって、<一緒に夕陽を見る>か<見ない>か、という以外の選択肢はおそらくなかったのに、横島は、ルシオラが全く考えもしていなかった<寿命を伸ばす>ことを持ち出してきた。横島のセリフは、ルシオラのセリフが抱えていた、ある種の悲壮感と切なさを打ち消し、そんなに考えこまなくてもいい日々を送れる未来へと、いざなおうとしているのである。(1)に提示された夕陽の属性(=はかないもの)を横島は否定・更新しようとする、と言い換えることもできようか。そして、それこそが横島の優しさであったはずだ。
だが、このあと見るように、<一緒に夕陽を見る>ことは一日しかかなわない(少なくとも物語はその一日だけしか描かない)。それを知るとなおさら、「百回でも二百回でも」のセリフは切ない。
(5)
「じゃ、なんで──」~「いやなわけないでしょ、/ぜんぜんv」(「甘い生活!![その2]」33巻p16-2~p19-2)
▼東京タワーの上。(4)のあと、<一緒に夕陽を見る>ことが唯一かなう日。
となる。
ルシオラのセリフはこの流れをふまえて読みたい。ルシオラの死を描くこの場面、「一緒にここで夕陽を見たね、ヨコシマ……」とは、直接は(5)を承ける。そのあとのコマ、「昼と夜の一瞬のすきま──/短い間しか見れないから……きれい……」とは、いうまでもなく(1)のセリフをなぞる。
だが、(4)のセリフにおいて、横島は(1)を否定しようとしたはずではなかったか。横島は一貫して、ルシオラから死の翳を振り払おうとしてきたのだった。ならば、(1)と(5)をともに喚起するルシオラの最期のセリフは、(4)における、横島によるはかなさという属性の否定が、ルシオラに対しついに無効であったことを指し示すだろう。
ルシオラは、横島がいくらはたらきかけても、根源的に死の暗さを抱え続けている。それは寿命が一年に設定されている、という具体的なレベルを超えて、彼女の存在それ自体のレベルとして。それは強引に意味づければ、横島に生かされて在るという一点のみが、<イマ・ココニ・いる>存在基盤であることに拠る。のかもしれない。
○ ○ ○
ちなみに、他でも触れたことだけれども、「昼と夜の一瞬のすきま」とある「昼と夜」を、美神とおキヌの<喩>と見なすことができる*1
ルシオラと美神、また、ルシオラとおキヌが、それぞれパラレルな関係にあることは何度か指摘してきたけれども、はからずも、そうした見方を補強するセリフとなっていよう。パラレル関係については後にまとめる予定。
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「待ってろ、ルシオラ!!」
だが、横島はすでにルシオラが亡いことを知らない、という皮肉。物語づくり(作劇)の基本。
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「おちついて!! アシュ様はおまえをまだナメてるわ!!/かわせる!!」
【 同伴する幻 】。
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「サラッと値切るな、サラッと……!!/ここの料金は昔っから六文に決まってる!!」「だから今日だけ二文にしてってお願いしてんじゃん!」
このあと、「三文! 三文半…!」と駆け引きが続いているらしい。この三途の川の渡し守、『999』の鉄郎に見えるがいかがか。
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「調子にのるな! 今のを見逃してやったのは、/私にはもはやあの女の生死などどうでもいいからだ。
あいつは外へ出た! 残ったおまえは私が放り出す! 泳がせるのはここまでだ!!」
わたくしは別段ルシオラびいきというわけではないけれども、それでもここで美神の復活だけが「見逃」され、ルシオラの復活は許さないアシュタロスの意図がよくわからない。
確かに、描かれない行間をいろいろ想像することも可能ではある。アシュタロスも、「始末」してやると言ってはいるけれども(p105-3、p119-4)、「排除」(p112-3、p148-1)とも言っている。「始末」は「殺す」という意味だけではなく、「排除」もやっぱり「始末」のうちではあるから、一応のところ矛盾はしない。「死ね」(p118-1)と横島に言っているのも、「排除」をした後に、と読む余地がないわけではない。とにかく、いちおうアシュタロスにとっては「排除」が最優先課題だったらしいことは確かにわかる。それで、美神と横島を、殺すわけではなく、「排除」した。
だがそれにしても、ルシオラの「復活」だけを許さなかったというアシュタロスの必然性がなかなか見出せない。総じてアシュタロスがルシオラの裏切りをどう考えていたのかがよくわからないので、そのへんに美神の復活を許してルシオラの復活は許さなかった理由があるのかもしれない。アシュタロスは美神(≒メフィスト)に対しては怒りとともに共感を覚えているというアンビバレントな感情を持っていることもあるし、あるいは死を望んでいるアシュタロス像も点景されてはいる。美神に対しては、殺したいが生かしたい、という揺れ動く感情があってもおかしくはない。
そういうふうにいろいろ補完をしても、何かむなしい。美神を生かしルシオラを生かさないのは、物語内の論理では必然ではないが、物語外の論理では必然であることをわたくしたちは知っているからだ。美神は生かされなければならず、ルシオラはそろそろ退場しなければならない。それはよくわかるし、そのために物語内の論理をつくりださなければならないこともわかる。そのための布石──たとえばルシオラに常にまとわりつく死の翳──も確かに打たれてはいる。それはそれでいいのだけれど、どうしてこの場面のアシュタロスの行動に、このセリフのような、こざかしい(…と言ってしまおう)理由がつくのだろう。アシュタロスは美神の復活には惜しくも間に合わなかった、今やっとここに着いた、それで横島を外の世界に排除した、でいいじゃないですか。このあたり、この作品の、<理>で統括したがる傾向がマイナスにはたらいているところだと思う。
この『私注』は、偏執的なまでにポジティヴに読む試みですが、それでもアシュ編中この一箇所だけは、わたくしは冷静に読めない(あと「ファイヤー・スターター」編も読めない)。それはルシオラが好きとかキライとかいうレベルの問題じゃなく、「物語にのっかる」という作品と読者を結ぶ大前提に対し、この部分は重大な侵犯をしてしまっているのではないかという疑いが頭から離れないからである。
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「「奥の手」だけに……/オクテ…なんちて…」「くっ…くだらんっ!!」
際限なく出てくるとか、単なる武器になっているとか、評判の芳しくない「ジャッジメント・デイ!!」編の「文珠」だけれども、この部分けっこう好もしい。
なお、こういう「~だけに」というような(なかばベタな)セリフは、やはりおキヌが言うのがいちばんしっくりくる。
○ ○ ○
横島の「悪運じゃなくて策略だよ、アシュタロス……!!」(p163-1)というセリフがある。さて、これは、アシュタロスの行為を否定する目的で発せられた言葉でありながら、同時に「宇宙意志」(p154-1)の会話を展開していた美神さえ否定する可能性をはらんでいておもしろい。いや、美神の「天は自ら助くる者を助ける」(p171-2。Heaven helps them help themselves.)という言葉によれば、「策略」がうまくいったのも「宇宙意志」のベクトルに助けられてということになるのだけれども。
美神と横島との間にあるこのくいちがいは注目するに足る。アシュ編において、アシュタロス・美神と、横島(・ルシオラ)とが、どうやら本質的にくいちがう行動原理にあるようであることと、相似形をなすように思われるからである。
アシュ編の随所で、美神の行動原理と、横島の行動原理にはくいちがいが見られる。美神はそれを感じとりつつも、有効なアプローチを行わない。また、行えない。アシュタロスの劣勢を、「宇宙意志」によるものと述べ立てる美神もまた、劣勢に導くための重要な役割を果たした横島のはたらき自体については、(アシュタロスへの言葉ということもあって、)なかなか口では出さない。比喩的にいえば、彼女は常に、自分が主人公であり続けようとするのである。
のちに、「ここまでやれたのは横島クンのおかげだしね。」(35巻p12-3)という言葉を述べてはいるので、横島のはたらきを評価していないわけではないが、逆にいえば、横島の手に地球の運命がかかるというドタンバである状況にならなければ、この発言はついに横島に正面きってはなされなかっただろうと想像することができる。
いま述べたことは、4項目下の「介入できない美神」問題に即つながる。参照されたい。
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「今すぐ返せば君とルシオラは生かしておいてやろうじゃないか。/新世界のアダムとイヴにしてやろう。」
というわけでヒヨシをアダムに、ヒナタをイヴにして『MISTERジパング』がはじまった! と思ったが…。連載終了してしまった。キライじゃなかったのだが…。
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「約束したじゃない、アシュ様を倒すって…!/それとも──
誰かほかの人にそれをやらせるつもり!? 自分の手を汚したくないから──」「……!!」
かつて横島はルシオラに、
「今までずっと、化け物と闘うのはほかの誰かで、/俺はいつも巻きこまれて手伝ってきたけど…
でも今回は、俺が闘う!!」(31巻p38-4)
と言った。
当事者になるということは、傍観者であったときには背負わなくてもよかったリスクと向き合わなければならないことと裏表である。ルシオラは横島に自分の言葉に責任をとるように説く。そして横島はその言葉を受け入れる。遠くは「誰がために鐘は鳴る!!」編から、そして具体的には「今、そこにある危機」編から始まる横島成長譚は、ここに一つの決着を見る。
だが、一方の成長譚の主役・美神は、さまざまに成長譚の課題を随所で与えられておきながら、リスクに対する責任を果たさない。アシュタロス編において美神が主人公から追いやられるのは、この点において必然であった。
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「……
……/横島クン……
なんといっていいのかわかんないけど……でも……」「あいつは──
ルシオラは…/俺のことが好きだって……/命も惜しくないって──」
ルシオラ消滅。横島は慟哭する。
そして、そこには美神とおキヌは介入しえない。3ページにわたって美神は横島に慰めの言葉を向けるが、その言葉は空疎でさえあり、横島のセリフは美神の言葉をさえぎってさえいる。美神は横島を抱きかかえ、【視線】も横島のほうをずっと指し示しているが、横島の体勢には、美神の体から離れるようなベクトルさえ読みとれ、【視線】もまた、美神の方を向かない。
(p31-3,4)
(p33-2)
この3ページ、横島と美神(+おキヌ)のあいだには、セリフにおいても、表現においても、断絶(または非対称)が示されていて、例外はない。この事実は重い。
横島の視線がルシオラまたは自分以外を向くのは、パピリオとの会話(p38-4)を待たなければならない。
(2001/10/20。03/08/17新訂。20/12/2再録、語句修正。引用は椎名高志『GS美神 極楽大作戦』(小学館<少年サンデーコミックス>、1992-99)、文中で同作の画像の引用をする場合はkindle版による)