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『GS美神私注』:「ジャッジメント・デイ!!」編 (後) (35巻)【再録】

あるいは、横島成長譚終了編。アシュ編が大団円に終わる一編である。

■「ジャッジメント・デイ!!」 (後)
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「戦う動機が横島クンより低レベルだ…!? 大丈夫か!?」
「美神さ~~ん!!」「心配いらないわ、気合いはちゃんと入ってる。あのコなりの照れかくしなのよ。
(でも、横島クンの方は……/確かに人間的に成長して頼もしくはみえるけど──これは……)」
 『極楽』は<ギャグまんが>である。この前提は決して覆らない。<シリアス>がどんなに極まっても、<ギャグ>へ振り子が戻る瞬間を、物語は強固な意思をもって、虎視眈々と狙っているかのように見える。
 といって、<シリアス>傾向は決して『極楽』において逸脱ではない。『極楽』の<シリアス>はそれだけで鑑賞に耐えうる強度を持ち、同時に、およそ<ギャグ>への奉仕の契機を待ちかまえる。<シリアス>と<ギャグ>の往還や見事な転換を、中盤以降の『極楽』は身上としているといえる。

 だが、ルシオラの死の翳は<ギャグまんが>と親和しない。それに関わる横島もまた。『極楽』世界で最も中心的に<ギャグ>を担っていたはずの横島は、ルシオラの消滅が射程に入り始めると、<ギャグ>と<シリアス>のはざまに引き裂かれる。これは作品にとってかつてない事態であった。<ギャグ>と<シリアス>の往還こそが中期以降『極楽』の、あるいは横島の身上であったのに、ルシオラの「霊」の消滅を迎えた横島は<ギャグ>に復帰しえない。そして『極楽』はついに、ルシオラと横島を<ギャグ>の磁場に引き込むことを放棄し、しかし<ギャグまんが>であることを必死に主張するかのように、ルシオラと横島以外のキャラが<ギャグ>を──痛々しいほどに──請け負わざるをえないようになっている。
 読者はこの前提に寛大でないと、ルシオラの挿話とほかのキャラのギャグとのジグザグ構成に違和感を持つかもしれない。

 横島がギャグに復帰しえないことは、例えば、西条の「いつもの悪意がないな。」(p38-3)というセリフに対し無言であるところに確かめることができる。横島の「もうおチャラケはなし」(p65-2)というセリフはそれを裏づける。このセリフをはく横島に、もはやだれも「こんなの本物の横島クンじゃないわっ!!」(31巻p57-3)とは言えない。

 で、物語はこの、「ギャグができない横島」に対してどう落としどころを用意するか──それが、煩悩がパワー源である以上「シリアスな横島にはGSとしての存在価値がない」(p94-2)、という逆説の導入だった。
 <ギャグ>キャラ(=煩悩がパワー源)なのに<シリアス>キャラ(=成長譚)を終着駅まで歩んでしまった横島。これまでの<シリアス>横島はどこかでボケるべきorツッコまれるべきだったのが、今や、横島は自ら<ギャグ>を行わない(行えない)し、周りも直接ツッコむことができない。そんななかでのこの美神の言葉(心内語)は、横島というキャラが抱えた根本の矛盾を衝く、「決めの一手」的な<ギャグ>なのである。
 横島自身は<ギャグ>を行うことができないが、横島という存在そのものを問い返すというメタなレベルの手続きをとることで、横島を<ギャグ>の磁場に引き寄せてしまうのだった。
 徹底して横島を<ギャグ>キャラとして引き戻したいというのは、もはや物語全体の意思であり、そのためのほとんど唯一の手段の発見がここにある。

 けれども、この美神の発言さえも<シリアス>展開のなかに引き込んで<読む>立場もまた可能ではないか。横島の<シリアス>を、<ギャグ>がついに駆逐できない瞬間を物語は用意している。次項に続く。

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「!!」
「な……!? オーバーフローしてキャラクターが入れ替わった…!?」
 文字どおり。
 さて、上述の「シリアスな横島にはGSとしての存在価値がない」発言、いわば<横島ジレンマ>とあわせて、この横島のパワーアップについて考えてみることにしたい。

   ○   ○   ○   ○

 そもそも、<シリアス>横島のパワーは、美神によって否定されていたはずであった。何度も引用を繰り返すことになるが、
「確かにシリアスな横島クンは人間的に成長したみたいに見えるけど──/煩悩パワーのない横島クンには霊的パワーもなくなっちゃってる」(p94-1)
という発言(心内語)である。これを<横島ジレンマ>と呼んでおく。美神は「究極の魔体」への最初の攻撃で横島のパワーダウンを肌で感じ取り、その理由をこのように考えたのである。
 たしかに、横島はパワーダウンしていたのだろう。しかし、美神に導かれたその理由としての<横島ジレンマ>を、そのまま鵜呑みして「事実」であると読んでしまうことには警戒したい。
 <横島ジレンマ>は、あくまで美神(と美神母)の発言の域を出ない。つまり、美神母子の「解釈」にすぎない、と読める。少なくとも、そう読みうる余地はある。
 なぜなら、美神の発言を「事実」としてしまうと、このあと横島が「オーバーフロー」するほどの力を出すことの説明をつけにくいからだ。

 パワーアップは二段階に分けて行われる。で、たしかに二段階めは、横島本人が言っているように「煩悩全開」(p108-1)が契機になったと読めるけれど、ならばなおさら、「煩悩全開」以前の一段階目の「オーバーフロー」の理由の説明を煩悩であるといえないのではないか。ルシオラに化けたベスパを横島が見てからp107までの横島の描写そのものに、煩悩の発動を読むのはややむつかしい。
 さらにいえば、二段階目を「煩悩全開」が契機である、とストレートに読んでしまうことに対しても、個人的にはやや抵抗が残る。いずれにせよ、一段階めと二段階めとでは、そのパワーアップの根源は明らかに質が異なっている、と見ることができるだろう。
 そうすると、ここで求められるのは、<横島ジレンマ>という美神の解釈と、一度目のパワーアップ(「オーバーフロー」)、そして二度目のパワーアップ(「煩悩全開」)を包括しうる理屈ということになる。で、やはりこれは、<横島ジレンマ>がルシオラと横島成長譚の接点に関わるかぎり、その関係の端緒から洗い出さなければならない。
 横島成長譚の重要なターニングポイントは次の発言であった。
  「今までずっと、化け物と闘うのはほかの誰かで、/俺はいつも巻きこまれて手伝ってきたけど…
  でも今回は、俺が闘う!!」(31巻p38-4)

  「俺の煩悩パワーを信じなさいっ!!」(p40-1)
 これを(1)とする。
 だが、ここで言った「煩悩」を横島自ら否定する瞬間がある。ルシオラの「霊」の消滅を迎え、美神を横において慟哭するなかでのセリフ。
  「ルシオラは……/俺のことが好きだって……/命も惜しくないって──
  なのに……!! 俺、あいつに何もしてやれなかった!! ヤリたいのヤリたくないのって……てめえのことばっかりで──!!」(35巻p31-4)

  「俺には女のコを好きになる資格なんかなかった…!! なのに、あいつそんな俺のために……!!」(p33-1)
 これを(2)とする。
 以上を踏まえたうえで、横島の成長とルシオラとの関わりについて次のチャートを描くことができる。
 「煩悩」      純愛的「恋」
(ヤリたい)      (好き)
  ↓           ↓?
(1)ルシオラへの宣言(「俺が闘う」)
      ↓
(2)ルシオラ消滅…「煩悩」だけで関わったと後悔
      ↓
魔体への一度目の攻撃:
  (3)パワーあがらず…<横島ジレンマ>by美神
      ↓
魔体への二度目の攻撃
  (4)ルシオラ(=ベスパ)と接触
      ↓
  (5)第一段階:「オーバーフロー」
      ↓
  (6)第二段階:「煩悩全開」
     =(「俺は…やっぱ俺らしくしてなきゃな。」)
 チャートまで書いてしまうのはどうかとも思わなくもないが、乗りかかった舟なので許されたい。チャートに従って考えてみたい。
 (2)のフレーズによると横島は、「ヤリたいのヤリたくないの」=煩悩、と、ルシオラからの「好き」=恋、とを、二項対立させて捉え直し、自分を責めていることがうかがえる。じっさい、横島がルシオラのことを、ルシオラが横島に対してそうであったように本当に「好き」だったかどうかは、わからない描かれ方がされてもいた(30巻p190-3、33巻p57-1参照)。はじめの横島の宣言(1)を、「煩悩」による、いいかげんなものだった、と横島は思い返して自責するのである。

 「煩悩」を自責する横島は、「もうおチャラケはなし」という態度でシリアスにふるまうが、パワーは失われている。そのパワーダウンの理由として美神が行き着いたのが<横島ジレンマ>であった(3)。
 だが、見たとおり、美神の「解釈」では横島の(5)第一段階のパワーアップの理由がつかない。ならばはじめの定義づけから疑うべきでありましょう。「不可能なことをすべて消去した後に残ったものは、どれほどありえなさそうにみえても、真実である。」とデイブ石井氏も言ってることだし。つまり、──そもそも、「煩悩」と「恋」とを二項対立させたところに誤謬があるのではないか。

 横島は「煩悩」のみでルシオラに接したと自責する自縄自縛の状態にある。それゆえパワーはダウンしてしまっている。しかし、ルシオラに化けたベスパを見て、「オーバーフローしてキャラクターが入れ替わ」るほどの(p107-2)パワーアップするのである。これを「煩悩」をルシオラ(=ベスパ)に覚えたから、と見ることはできない。ルシオラ(=ベスパ)を見る横島の描写はあくまでシリアスな表情を崩さないことからそれはわかる。このパワーアップの淵源は、横島自身によって語られる。
「俺は…やっぱ俺らしくしてなきゃな。」(p108-4)
<ギャグ>に復帰して「煩悩」が生じたことがパワーアップの理由なのではなく、「煩悩」/「恋」を切り分けて「煩悩」だけをことさらに否定することが無意味であることを、ルシオラ(=ベスパ)を見て直観したことが契機であるのだろう。
 煩悩もひっくるめて、ヨコシマがヨコシマらしくあること、それがルシオラが恋をした横島であり、しかしルシオラの死に自責をした横島はそのことを見失っていた。ベスパの化けたルシオラに接した横島は、それがベスパであることを知りながら、ルシオラとのこれまでの関わりあいを思い出し、ルシオラの望んだ自らであろうとしたのではないだろうか。
 <ギャグ>による「煩悩」解禁ではなくて、自責による「煩悩」の否定の撤回が、この瞬間に立ち現れるのではないか、と思うのである。

 <煩悩>は、その初期から横島のギャグキャラとしての源泉であり、シリアスでも重要なテーマだったけれど、横島成長譚の最終においてついに、否定されたりするわけでなく、<成長>とぶつかって合わさって高いレベルへ持ち上げられる。そして、この止揚が横島<成長>譚の最終形なのではないだろうか。

 翻って、美神である。<横島ジレンマ>という「解釈」は、美神が、煩悩の有/無、という二項対立という次元から、一歩も抜け出せていないことを意味してもいよう。そこに美神の限界があることがわかる(参照、「ストレンジャー・ザン・パラダイス」編で、未来美神が現在の自分から変わってしまった理由を思いもつかない美神。28巻p100-5)。横島が直面した課題は煩悩の肯定/否定だったとすれば、美神と横島とが到達した地点には、ズレがあるのだ。
 それにしても、小竜姫たちを脱がせた美神であるけれど、比喩的にいえば、本当は美神自身が脱がなければならないのだ。それができない以上、やはり物語への参加資格は、ことここに至っては、ない。
 もう少しいえば、小竜姫たちが脱いだとしても、横島がパワーアップしたかというと、そうではないだろう。そして、仮に美神が脱いだとしても、横島がパワーアップしなかったら、決定的に目も当てられない。だが、そうであるにせよ、美神は状況に身を投げ入れなければ(=横島との関係と自分の感情に対して、照れて逃げずに、向き合わなければ)ならないはずなのである。
 けれど美神はついに向き合わなかった。そのかぎりにおいて、「キャラクターが入れ替わ」り、このあとのアシュタロスを倒す場面、さらに「ジャッジメント・デイ!![その20]」ではまるまる一話、美神の姿が物語中全く描かれず黙殺されるのは、もはや必然であった。

   ○   ○   ○   ○

 というわけで、一度述べたことをここで再び繰り返しておきたい。
 <成長譚>という少年まんがの基本的な話型からいえば、今の美神にとって本来は、ルシオラとの対立こそ何らかの形で乗り越え、解決すべき課題であると考えられる。
 ところが、この成長課題は、先延ばしし続けて(orされ続けて)いくまま、ついに解決せずに(orできずに)ルシオラの退場という形でアシュ編は終了してしまう。
 チャンスが目の前に何度もありながら、向かいあうことをおそれて先延ばしされ続けた<恋>は、いつか<恋>の方からそっぽを向かれてしまうのは世のならい。すなわち、アシュ編後の美神は、物語の恋の主人公の資格を剥奪されてしまいます。これは<ルシオラの呪縛>にほかならない。

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「あんたがやれって言ったんじゃねーかっ!!」
 物語は、<シリアス>横島の<ギャグ>への復帰を待っていた。そして、「煩悩全開」の横島と、美神とのこのかけあいは、<シリアス>横島の<ギャグ>への復帰のように見える。
 けれども、実のところ、<シリアス>横島が意識的に、「<ギャグ>横島」をあえて演じているという印象をわたくしは拭えない。それは横島の一つの優しさである、といっては、ひいきしすぎか。

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「すまん。俺は…やっぱ俺らしくしてなきゃな。/でないとルシオラががっかりするよな。」
「……! おまえ──ひと目で…?」
 「ブラインド・デート!!」(4巻)と対応するもの、と読みたい。
 外見にまどわされず、【目】を見ることで正体を感じ取る。これもまた、おキヌとルシオラのパラレルを指し示しています。

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「永久に邪悪な存在であり続け、勝ってはいけない戦いを繰り返し、/茶番劇の悪役であらねばならんのだ!!」
 「茶番」であることに気づいてしまったアシュタロスにとって、取るべき道は、茶番を書き換える、もしくは、茶番から降りる、の二つ。ということになる。

 そして、アシュタロスが持ち出したこの「茶番」とは、『極楽』全編を一方に置いたときのアシュタロス編自体の特徴を寓意的に示唆しているとも読めよう。アシュタロスは、ついに茶番の悪役から脱し得なかった。

 ともあれ、「茶番」から降りることが「神」に保証されて、アシュタロス編のアシュタロス話は終了する。横島/美神の<物語>と、アシュタロス/美神の<物語>との比重がいつの間にか逆転していった感もあるが(アシュタロスの矮小化?)、ひとまずはアシュタロスの<物語>が終わるのである。

 

■「エピローグ:長いお別れ」
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 トビラ、夕陽を遠く見る横島。
 末尾のエピソード(p146-148)の、横島だけを切り取った絵、と解することもできるけれど、やっぱりこれまでの夕陽を見る横島を重ね合わせて、この横島は東京タワーから夕陽を眺めている、と読みたい(34巻p71-1の項参照)。このトビラには、美神とおキヌは介入することができない。

 末尾のエピソードが、夕方なのかどうかは、白黒ページだから読者にはわからない。もちろん夕方と解釈して、p147-2,3の光線を夕陽のものと読んでもよい。けれども、この空の描かれ方は、ほかの夕陽の場面に比べて、夕方の空っぽくないのではないか。昼なのではないか。美神とおキヌがいっしょに登場する場面に、夕陽は選ばれないと解釈するべきではないだろうか。

f:id:rinraku:20201202220143j:plain(p147-1,2)

 p147-2、3は、後ろに控えている美神に返答するが、横島の思念はルシオラのほうを向いている。それは、「…………」(p147-2)のタメにも見てとることができる。p147-4、p148-1は、横島は幻想のルシオラと、物語における最後の対話をする。
 肝心なのは、この四つのコマの背景(p147-2,3,4,p148-1)が、他のコマ(p147-1など)がそうであるような空ではないことだ。空を背景に持つ他のコマと、このp147-2、3で横島に注がれる<光>とは、異質なものであるように感じられるのである。この<光>は、<昼と夜>のそれではなく、そこにはありえないはずの<夕>の<光>なのではないか。それは、ここで退場するルシオラ(と横島の恋)に対しての、物語による惜別の情のようなものではなかろうか。

 横島は、次編から、比喩的にいえば、<夕>ではなく<昼と夜>の世界へと戻ることになる。次編「ファイヤースターター」が、ルシオラとパピリオのいた屋根裏を焼いて、あたかもリセットを図ったように解釈されることは、多く指摘されるところである。横島は<夕>の世界にケリをつけなければならず、横島のp148-2の「彼女のためにも一日も早く俺──」のフキダシが、上のコマに軽くかかっていることは、その譲歩を示すのかもしれない。

 

 <昼と夜>から屹立するこの四コマと、トビラの夕陽を眺めてたたずむ横島の姿をもって、わたくしたちはルシオラ(と横島の恋)にさよならを告げなければならないだろう。

   ○   ○   ○   ○

 この一編について、さらに踏み込み、展望も示したものとしては次の小文も参照されたい。

rinraku.hatenablog.jp    (2002/02/27。03/08/17新訂。20/12/3再録、語句修正。引用は椎名高志『GS美神 極楽大作戦』(小学館<少年サンデーコミックス>、1992-99)、文中で同作の画像の引用をする場合はkindle版による