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横島、ルシオラ、「長いお別れ」 ―チャンドラー『長いお別れ』から、『GS美神』「エピローグ:長いお別れ」へ―

 チャンドラー『長いお別れ』(清水俊二訳)から一節を。

 「さよなら、マイオラノス君。友だちになれてうれしかったぜ──わずかのあいだだったがね。」

 「さよなら」

 彼は向こうをむき、部屋を横ぎって出ていった。……しかし、彼は戻ってこなかった。私が彼の姿を見たのはこのときが最後だった。

レイモンド・チャンドラー『長いお別れ』(清水俊二訳:ハヤカワ文庫、1976(初出1954))

   「魔族には生まれかわりは別れじゃないのよ」とルシオラは言う。そうなのかもしれない。しかし、親子としての転生・邂逅がのちにあったとしても、いや、親子として転生・邂逅することしかできないならばなおさら、二人の<恋>は、決定的な「長いお別れ」(THE LONG GOODBYE)にほかならないであろう。「長いお別れ」とは──じつに皮肉なことばを『GS美神』は<引用>したものだ。

 チャンドラー『長いお別れ』で、マーロウとマイオラノスは二度と逢うことはない。ときには、にがい、乾いた別れをしなければならないときもあって、マーロウはまさにそういう「お別れ」を選んだのだ。けれど、横島は?

 

 マイオラノスはその「長いお別れ」を、(マーロウがその言い方を素直に受け取ったかどうかはわからないが)、「宿命」と呼んだ。二人はにがく別れるしかなかった。

 一方、ルシオラの死も、「仕方なかった」(P32)と美神によって語られるように、「デッドゾーン!!」編での高島の言葉(22巻P177)にならうとすれば、「運命」と呼ぶことができる。少なくとも、美神はそれを「運命」としたのである。

 だが、横島はその「運命」にあらがおうとする。自分が死なせたという思いからの自責、それも、何よりも自分を本当に好きになってくれた初めての相手。「何かあるはずだ…!! 何かテが…!!」(P138)とあるように、どんな手段にすがっても、という思いであることが描かれる。ところが、いみじくも美神が思いついた、ルシオラを消滅させない唯一の手段──横島の子に転生させること──は、ルシオラとの<恋>を断念しなければならないことであった。「子」は、愛しあう相手がいないかぎり生まれないのだから(それは少年まんがでは絶対の【倫理】。意地悪いこといえば、愛してもいない相手に子を生ませてその子を恋愛の対象とすることだって、考えられないわけじゃないが──そんなこと少年誌ではできないだろう)、子への転生を認めることは<恋>をあきらめると同じことである。それは「恋は実らなかったけど」(P147)というルシオラのセリフで改めて確かめられていく。

 だから横島とルシオラは、マーロウが選び取ったような、<二度と逢うことない「お別れ」>になるわけではなさそうだけれども、マーロウとは違う意味で、にがい別れを告げなければならない。ルシオラが仮に転生しても、そこでは「横島とルシオラの<恋>」は転生しないのだから。<恋>の転生は、そのさらに先の時空を待たなければならない。

 

 「長いお別れ」とは、にがい、皮肉な題だ。

 

 ルシオラは「ありがとう。」といった。が、ふたたび『長いお別れ』の一節を思い起こせば、ほんとうは「さよなら」をいわなければならなかったのではないか。いや、ルシオラに背負わせてはいけない。横島は「さよなら」を言わなければならなかったのではないか。マーロウとマイオラノスのように。

 けれど横島は「さよなら」を言えなかった。それは「人の業」という言い回しで表されるようなことなのだろう。美神が思いついた唯一の手段は、遺伝子治療や臓器移植のような、倫理ぎりぎりの、まさに「神の領域」に人が口出しをすることにほかならないが、横島はそれをぎりぎりのところで受け入れざるをえなかったようだ。受け入れたことを物語ははっきり描いていないが、どう読んでも横島はその方法を受け入れたとしか読めない。そして、それもやはり「人の業」なのだ。

 

 とはいえ、では、物語としての『GS美神』が、愛する妻との間にかつて愛した女が娘として転生するような、そこからの物語を許容するかといえば、それは許さないだろう。事実、39巻の連載終了段階まででは許されていない。物語の世界観からいえば、しかたがない。

 それはそれとして、ぼくにいわせれば、その妻に選ばれ、子を産む役割を与えられる女性に、どうしようもない葛藤と、しかしそれを乗り越えられる寛容さと愛情となにものかが持ち合わされていなければ、この話は「ハッピーエンド」(P146)には決してならない。

 といって、しかしべつに美神だけがその資格を持っているというわけでもない。そこで「右手」を包み込む(P139)おキヌの描写

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が、象徴的なものとして注目されてくるだろう。「左手」ではない。ルシオラを包み込む横島の「右手」

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を包み込むのである。「とにかくここから上がりましょう…!?」(27巻P91)という稀代の名場面

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から感じ取られる、「横島にとっての「おキヌちゃん」とは何か」ということを思いあわせてもいい。おキヌは、「包み込める」のだ。

 一方で、P145のおキヌの表情

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からは、単なる「包み込む」だけのオールOKの単純なキャラではない、葛藤も抱えるであろう「人としての奥行き」をも感じさせる。だからこそ、いい。そもそもおキヌは、いろんなキャラたちが、そして何より物語が、美神─横島ラインをあたかも必然的な結論のように収束させてしまうなかで、さりげなく、それに回収されない可能性をみずから示している。ひとつは、「えっ!? 私が3号なんですか?」(29巻P17)であり、また、「横島さんフケツーッ!!」(38巻P130)もそうであろう。うまい言い方にならないが、おキヌは、美神─横島ラインよりさきに、自分─横島の結びつきを夢想、さらにいえば妄想している。そのへんのおキヌの機微を物語はよく描ききっていることを読みとっていい。P145の表情は、横島の子を産むことを(なかば無意識のうちに)夢想しているからこそ複雑な表情なのである。

 前世からの「運命」は、美神─横島ラインにとっては「切り札」であるし、それをルシオラも認めているようだけれども、なに、横島は、もうすでにルシオラの転生という、「「運命」へのあらがい」を示して歩き始めたじゃないか。おキヌ─横島ラインが「運命」に裏づけられていなくても、それがなんだっていうのだ。

 そう読んだところで、やはり『GS美神』では横島とルシオラの<恋>にはもう出会えない。先に言ったように、まず物語がそれを許さないのだろう。出会いたければ、またコミックスを読み返すしかないのだけれど、だが、せめてもの慰みをぼくたちは与えられてもいい。

 ここまで、いくつかの例外を除いて、「作家」「作者」または「椎名高志」という言葉では論じないようにしてきたが、ここであえていえば、まだ見ぬ新たな椎名作品に、せめて横島とルシオラの<恋>の転生をぼくたちがのぞむことは、許されるだろう。そこには横島のような人物、ルシオラのような人物がそのままにいる必要はない。ただ、あの<恋>が息づいていれば、それでいい。

 (2000/04/10、07/05改訂。2020/11/6再録、文体を一部訂した。引用は椎名高志『GS美神 極楽大作戦』(小学館<少年サンデーコミックス>、1992-99)、文中で同作の画像の引用をする場合はkindle版による。

 

後記:まんがの「読み」を、「作者の意図」に還元するのではない形で表すやり方はないかと考えて、遙か昔、ホームページ文化隆盛のころに、試みのつもりでwebサイトにアップしていたもの(若書きにもほどがある…)。これが、傍目には研究とも批評とも二次創作とも言い切れないテキストになった(当人としては研究のつもりである)。そののち、無料ホームページの時代が終わり、ブログ文化、さらにSNS全盛となって、プロバイダも撤退してしまってあれだけあった自作HPがことごとく消え、このテキストも自動的に消えてしまっていたが、最近読んだ、町田粥『マキとマミ』(KADOKAWAになぜか勝手に励まされて、ブログに移して再録できないかとあれこれ試みて、ようやく再録できた。このテキストに言及してくれるネット上の記述にごくたまに出会ったりすることもあり、愛着もあるのです。

 ここから膨大に書き連ねた偏執狂的な読みの記録、「『GS美神』私注」も、いま読み返してみたら、一周回って思っていた以上によく書けているように思えてきたので、無理のないペースでゆるゆると再録してみたい。

 それにしても、やっぱり『美神』はおもしろい。『椎名百貨店』もだ。『絶チル』も購入が途中で停まっていたけれど改めて読み進めようと思いはじめています。