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Led ぼっちちゃん Ⅱ― 12話のライブ「星座になれたら」の好きなところをただ挙げていく

 8話に負けず劣らず、最終12話「君に朝が降る」の、特に「星座になれたら」のライブシーンが良かった。観て考えたところをただただ書き連ねてみたい。

1.喜多ちゃんの視線、ぼっちの視線

 最終話は、1話との対比も楽しいが、8話「あのバンド」と「星座になれたら」との照応からも読みが広がる。

 ぼっちちゃんのギターが、ペグの不調で1弦が切れ、2弦のチューニングも不安定。調整しなおそうと座り込むが、どうしたらよいかテンパってしまうぼっちを喜多ちゃんが一瞥して、トラブルに気づく。テンパるぼっちのギターソロパートにさしかかるところで、スクランブルでアドリブのソロでつなぐ喜多ちゃん。このサポートに、ついにぼっちが喜多ちゃんの方を見る。

8小節ソロでつなぎながら喜多ちゃんの内話。これをぼっちが見返す。

 この視線の交錯は、8話の「あのバンド」では無かった。8話では、喜多ちゃんは、何度か(すがるように・おどろくように・たしかめるように)目線をぼっちちゃんに向けていて、しかし、演奏中にあってひたすらバンドを引っ張っていくぼっちちゃんは、喜多ちゃんの方を見ない(直接見る目の描写が巧妙に避けられている)。

 それが、ここでついに、喜多ちゃんの予想外のリードで、ぼっちと喜多ちゃんは一瞬、目を合わせるのである。

 すぐ目を逸らすのがぼっちちゃんだけど。

 目を逸らすのは、ぼっちの「陰キャ」の性格ゆえと思わせるものでありつつ、次の8小節に向けての決意を含む前への視線の移動でもある。この直視が、ほんの一瞬であるのが味わい深い。

 これは私たちが大好きな、「天才を一瞬振り向かせる」話ではないですかね。ぼっちを天才だと思って憧れる喜多ちゃんの思いが示され、それが一瞬報われ、しかしそんなふうに思われているとはぼっちは思っていないのが、たいへんによろしい。

 ただ、これが一瞬でしかなかったことは、ここで終わりではなく、後にさらなる変身(関係性の展開)の余地を残してもいることにもなる。てことで、「ぼっち・ざ・ろっく!」二期が待たれる。

2 決意の喜多ちゃん

 これは完全に妄想なのですが、この画像の、テンパっているぼっちちゃんの場面、2周目以降に観てみると、この顔が隠れている手前の喜多ちゃんは、直前にぼっちのトラブルに一瞥をくれて気づいているわけで、だとすると、このときサビを歌いながら、ぼっちのために数秒後にやってくるソロを自分のアドリブでつなぐ決意を固めている、と読んでしまう自分がいてなかなかヤバい。これが補完というものか…。

 ちなみに、喜多ちゃんはこのソロプレイで激しい動きをするが、これは、ぼっちちゃんのトラブルから観客の目を逸らすためのものであろう。たださらに、この喜多ちゃんの最後の猫背に、「あのバンド」のぼっちの猫背との照応、師弟の継承があるという指摘をネットのコメントで見て、なるほど!と思った。

3 8小節延ばす所でのリョウと虹夏のあわせ

 放映直後にリリースされたアルバム「結束バンド」版を聴いて比較すると、文化祭では、本来のソロから8小節分を、スクランブルで延ばしていることがわかる(アニメ視聴後にリリースされたアルバム聴いて、その差分を考えるなんて、こんなアニメ=音楽体験初めてだ…)。

 うまくいったから良いもののなかなかに鬼畜の所業だと思っているのだけど笑、ぼっちが何かしそうだというのをリョウが見ているのがいい。10話のファミレスで、「郁代とぼっち、二人の文化祭でしょ」とソロを押したのはリョウだった。熱くなっている喜多ちゃんも含めて下手から俯瞰し、ぼっちがソロでいけるかギリギリまで待つ。→ぼっちが何かやりそうだ・できそうだと延ばすことを判断。→虹夏を見て拍を取る。→虹夏はそれを察して深く「うん」とうなずく。→で、ループさせてもう8小節――、という展開が短いなかで丁寧に描かれて、

3人でぼっちを支えようとしていることがよく表されている。その支え方には、ぼっちのリカバーを信じて疑わない喜多ちゃんと、先輩として横からクールに見届け判断していくリョウ、その意を汲む虹夏、という偏差もうかがえておもしろい。虹夏は、喜多ちゃんのアドリブを映すカメラ回り込みの場面に映る顔に、この状況をさあどうすると考えているかのような面持ちが見えていて、この意気込みを経由させると、リョウの合図での深い頷きにこめたものの深さがよりわかる。

 

 思惟の交錯の面白みとともに、この急に8小節延ばすための8小節めの、リョウと虹夏の「ンタタタタタタタ」と体でリズムを取るところが、単純に気持ちよく、これはライブの愉楽。普通にライブ中にこういうことをリズム隊がしてくれると私などは無条件でアガる。ライブシーン全般にいえることだが、ファンタジーは織り交ぜられていつつも、ライブの愉楽へのリスペクトが随所に見て取れて、本当に信頼できるのである。

 それと、リズム隊の8小節のループそのものが、めちゃくちゃベネ(良し)。このBPMでのループでしか味わえない疾走感がある。

4 ボトルネック奏法終わりの「ズギュル」という音を残していること

ライブ感!

これを入れるスタッフは信用できる。

5 「遙か彼方」と「カルマだから」の全韻

 「あのバンド」もそうだけど、ぼっちちゃんの歌詞世界が良すぎる。一聴、さわやかポップ調で、歌詞もそういうところがあるのに、いきなり差し挟まれる「カルマ」がとてもよろしい。しかも全韻。

 一方で、「星座になりたい」を押し入れで一面に貼った4人のアー写を眺めながら歌詞を書いていたとすると、なかなか考えさせられるものはある。

6 「満月じゃなくても」で主旋律とハモるリードギター

 難局を乗り越えて中空を見上げ(ソロが終わってからの、楽曲が進行していくなかでのエアポケットの時間は、吹奏楽などでもありうることで、その抒情がよく表現されていると思う)、自分の演奏が入るところでナチュラルにバンドを見ることができているぼっちちゃんに、1話からの成長を見て取れる場面。

 もう一歩踏み込めば、ここで、ぼっちがみんなの方をナチュラルに見た(見れた)あとに演奏に加わる箇所が、伴奏やリフを弾くところではなくて、ドラム・ベース・ボーカル・リードギターの4者で音を一緒にそろえるところであるのがよい。ぼっちは、3人と音を揃える。また、揃えることができる。

 このぼっちの顔は、陰がかかって描かれる。歌詞は「(暗闇を/照らすような)満月じゃなくても」。

 ぼっちには陰がさしたままで、4人が音を揃える。それでいいということなのだろう。大げさな物言いをすれば、そのままにありえていいという、自らの中における受容。そしてそのままであっても他の3人と並びうることの確かめだということができる。

 

 4人の中の一人ということとともに、喜多ちゃんとの関係に焦点をあてれば、そもそも、歌詞そのものが、喜多ちゃん(というか喜多ちゃんに象徴されるもの)との関わりを介在させずに読むことができないものだ。陰のさすぼっちの「満月じゃなくても」が終わったところで表される喜多ちゃんは、ぼっちと対照的に表される。

 ここに限らず、この曲では喜多ちゃんの顔にはライトが当たり続ける(若干不自然さすら覚えるぐらいに)。

 この喜多ちゃんのようではありえない自分のままに、ステージに並んで立つぼっちちゃん。それは音楽の上でも象徴的に示されているとみてよい。つまり、「満月じゃなくても」が、喜多ちゃんのボーカルの主旋律に、リードギターでハーモニー的に旋律を弾く場所だということ。ぼっちはギターで「満月じゃなくても」と歌い、調和させているのであって、このボーカルの喜多ちゃんとハーモニーを奏でるぼっちのギターは、ひそかな聴きどころなのではないかと思わされるのである。

 こうして、歌詞・描写・音楽によって複合的に示されるぼっちちゃんの現在。ここが1期のぼっちちゃんの到達地点なのだろう。

                   ◯

 ところで、では喜多ちゃんには陰は付されないのかといえば、この曲で、印象的に喜多ちゃんの顔の全面に陰が付される場所がある。

 アドリブソロの終わり。密かにぼっちちゃんに憧れ、それを真似る喜多ちゃんに、陰が付される。よくできている。

 

(追記)7 ぼっちのボトルネック奏法と承認欲求モンスター

 ボトルネック奏法の場面が見せ場なのは言うまでもないのだけれど、ここの何がいいって、ぼっちが将来ちやほやされるためにこれらの目立てるテクニックを過去に一人で手当たり次第練習してたことを思わせることと、そのひたすらな練習による技量に裏づけられつつ、この土壇場ではそんな承認欲求なんて忘れて、結束バンドのための一心で弾いてるところであろう。

 あと、酒瓶の描写、光の入れ方がキレイ。

おまけ

SHIORI EXPERIENCE』難民救済。

 

「ぼっち・ざ・ろっく」を観るたびに、『シオリエクスペリエンス』もアニメ化してくれ!いや、アニメ化してしまってはダメだ!いやアニメ化してくれ!いや(以下、繰り返し)

 

参考:8話の読解

 

nico.ms

youtu.be

(2022/12/28。12/31改訂および7の追記)