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ローグネーション。言葉と図像を手がかりにまんがを「私」が「読む」自由研究サイト。自費持ち出しで非営利。引用画像の無断転載を禁じます。

『僕ヤバ』の語りと表現が楽しい②

rinraku.hatenablog.jp

からの続き。

3 「大丈夫」と「頑張れ」

 7巻Karte.96で、市川は広島にいる山田に「大丈夫」とLINEを送った。ここまで「頑張れ」と「大丈夫」は、山田が市川に投げかける言葉だったから、ここはそれへのアンサーとして機能している。

 ところで、この二つの言葉はもともとは並置されていたのだった。

(6巻Karte.73)

市川は自分を奮い立たせるために「大丈夫/頑張れ」とモノローグで述べる。これ以外にもこの二つの言葉はキーワードとして繰り返し述べられるのであるけれど、ここに違いがもたらされるのが6巻Karte.84だ。

市川は、もらう言葉が「頑張れ」でないことを望み、山田は知らずそのとおりに「頑張れ」でなく「大丈夫」と投げかけた。

 「大丈夫」は、「頑張る」の手前にある、不安を乗り越えるための、自己肯定を促す言葉だ。こう考えると、身も蓋もない言い方になるが、市川と山田が現段階で相手に何を求めているかがよくわかる。自信の無い自分への肯定を与えてくれる存在であることを根柢で求めているのである。あるいはそれだから信頼を寄せることができる。

もちろん、「頑張れ」が否定されているわけではない。ただ、この二つは、並べられるのではなく、「頑張れ」の前提として「大丈夫」がなければならない。

 doの前にbeが保証されること。受容されること。そうすると、告白してフラれる南条先輩(ナンパイ)は、負けるべくして負けたことがよくわかる。

(6巻Karte.85)

「山田さんが頑張ってると…こう……俺も嬉しい」。「頑張る」という語を持ち出した瞬間にナンパイお前は意図せず市川と同じ土俵に立ってしまったのだ。いや、「頑張る」という語を用いてもよいのだろうけれど、お前、そこから「大丈夫」に持ってけないだろ? 山田とはその歴史がないし、その後のサッカーのエピソードで彼はサッカーのリタイアを冗談めかして言って、端的にいって頑張れていないことが示されている(リタイアしたことが問題なのではなく、リタイアしたあとのふるまいが問題。リタイアしてもリタイアしたなりに頑張れているなら良かったのだ。この物語はこういう所はきちんと丁寧である)。ナンパイが間違った理路に入り込んでいることは、次の山田のセリフとの対比で確認される。実は、ナンパイへの山田の返答は、噛み合っていない。

(Karte.85)

 そもそも、幼なじみの女の子の儀式にすぎないというセリフで既にナンパイのフラれることは予感されていたのだが、ことここに至って、ナンパイの負けは正しく確定する。物語にあって、それがキーワードである「大丈夫」「頑張る」という語の位置づけと紐付けられて描かれる丁寧な構成を読み取りたい。

 ちなみに、市川に「大丈夫」という言葉を投げかける人物として、山田と、自分自身、そしておねえが並んでいるのはとてもいい。

(Karte.84)

市川にとって、おねえが本当に大切な人物であるということがここによく示されている。おねえは出色のキャラクターだと私は思っていて、Karte.77など抱腹絶倒の回で大好きなのだけれど(

(Karte.77)

ナチュラルに「お姉ちゃん」呼びしている山田もポイント高い)、随所で市川のことを本当に思ってあげている姉であることが示されているところがたいへんに好もしいのだ。

 

4 心を通わせる描写がいい

 『刃牙』の原稿にときめく市川にときめく山田について触れた。山田は別段『刃牙』は好きにはならなかったわけだが(先のKarte.77のおねえのあるセリフにピンときていない山田がその証明)、ここから山田が、同じものを好きになりたい、同じものが好きだったらいい、というモードを出し始め、

(2巻Karte.26)

(市川はそういう山田の心の動きに気づいていない)、自分の好きなまんが『君オク』を市川と共有したいと思う。

(3巻Karte.44)

 そこでの市川は、図らずも山田が良いと思っているのと同じポイントを挙げる。山田は「私も!!」と嬉しがる。人と好きなモノの好きなところが共有できる嬉しさの大きさは、私たちにもなじみの深いものである。これが作中内でまんがによって為されるところに、まんがへの信頼とまんがへの祈りがあるように私には思えるが、それはそれとして、この、互いについて、「同じ」と「違う」ということに、二人はとても鋭敏であり続ける。

例えば4巻Karte.46、渋谷デート回。黒い服についての会話。山田は「私も好き」と、『君オク』の時に似たことを述べる。

それに対して市川は「全然違う」と述べる。市川は、自己卑下から山田と自分などは違う、と決めつけて、山田を上げようとするのだけれども、山田は、やや不穏な描写をもってそういうセリフに警戒をみせている(上の2コマ目。顔の陰りと長い「………………………」も何を考えているのか、不穏)。

これが、

(同)

互いの関係に隔たりをもたらすような発言でないことがわかったところで(上の「…………………………」の含み。上のコマとの照応)、その不穏さが表面上は解消される。

 こういう「違う」と「同じ」の二つの極の間の揺曳が、この後積み重ねられていく(そう考えると、上で挙げた南条先輩のセリフの「違う違う」がどれだけ周回遅れかということもよくわかる)。今はそれを一つ一つたどることはしないが、たどっていくと、市川が山田のことを「キモい」自分と別世界の人間だと決めつけるような認識から、山田もまた悩む存在なのであり、その悩みも含めて自分と同じ部分を持つ、いわば等身大の他者としての山田を発見していく物語なのだということがわかる。「心を通わせる描写」が、そのように積み重ねられてゆくのである。

それにしても、振り返ってみてキモくない恋愛なんてあるものかね。だから、多くの読者にとってこの作品は、ありえなかった、しかしどこかなつかしい物語になっているのだろう。

 

おまけ 神崎問題について

 7巻の、Wデート回を読んで、神崎をどう思うか?

 私は、けっこう怖いと思った。Karte.1以来の、「性癖が特殊」というギャグ的に回収される水準とは別に、原さんに「ありのまま」を善として要求して原さんその人を等身大の他者として本当に見ていないフシがあるからだ(その意味では、ギャグ仕立てながら等身大の他者の発見という市川と山田の物語の陰画なのではないかとすら思わされる)。

それは原さんの時折見せる反応からもある程度妥当な読みだと思う。もちろん原さんは嬉しさを感じていたり、楽しんだり恋人っぽい関係ゆえに不満を表明してみせたりもしているのだが、神崎の発言に、言語化できないしっくりいかなさを感じているさまもほの見えるのである。

これに対して、市川は、(自分や山田のこれまでと現在を参照枠に置きながら)原さんが変わろうとするのを受容するのがよいのでは、と助け船を出す。

イッチの、二項対立に第三の認識を提示できるところ、本当に自分の言葉を持っている頭の良い子だと思う。で、ふつう少年まんがの構造的には、主人公の助言を経るとその相手に何かの変容があるはずである。しかし、どうも神崎には、きちんとした形では響いていない。市川が触媒として機能しかけても気づきが表面的で終わっていて、そして今後伸びしろがあるようにも(今のところ)描かれていない。

 市川から「決定的な何かが欠けている」といわれているのは、むしろそう読者に明言されている所がせめてもの救いになっているようなところがあり、実はどうにも不穏さを微妙に湛え続けている。原さんが良いキャラクターなだけに、けっこう私などはハラハラさせられてしまうのだ。このへんの、表面的に上手く行っているようでも実はしっくりいかなさを言語化できないレベルで抱えている、という男女関係が、どうも原さんと神崎の関係にはあるように思えて、現段階によるかぎり、原さんに幸あれと願うほかない。(今後の展開に期待したい)

 なお、原さんは初登場時よりキレイになっていて、これは、恋する女はキレイになる、とか、キレイになるよう努めるようになった、とかいう言い方でも説明できるのだけど、それだけでなく体型の出にくいファッションをうまく選んでもいるはずである。このあたり、なかなかリアルでよろしいと思う。

 それにしても「僕も変わりたくて/ここまで来た」という市川は、正しく少年まんがの主人公だ。私は、『スラムダンク』の赤木の「オレは間違ってはいなかった」というセリフが本当に大好きなのだけれど、これらのような、これまでの迷いながらの道のりを振り返る主人公のセリフは、巻を積み重ねてきた物語たちが持てる特権であろう。

 

(2022/08/21。本テキストは研究です(営利目的でない)。引用は桜井のりお『僕の心のヤバいやつ』(秋田書店2018-)、文中で必要上同作の画像の一部引用をする場合はkindle版による)。ここでの画像の他媒体への転載を禁じます

 

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