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『僕ヤバ』の語りと表現が楽しい①

桜井のりお『僕の心のヤバいやつ』7巻(秋田書店)読了。

『僕ヤバ』は、筋そのものを追うのも楽しいけれど、表現と語りについて考えて読みに参入させていくのもたいへんに楽しい。いくつか、こういうことも言えるんじゃないか、ということを並べていきたい。

ただ、『僕ヤバ』は、ネット上でちょっと検索するだけでもかなりぶ厚く読み解かれているので、すでに言及されていることならば、そちらに譲るのはやぶさかではないです。

(以下最新刊までのネタバレあり。通読してからお読み下さい。)

 

1. 物語内でのセリフが別の意味をもたされて読者に向けられる

 『僕ヤバ』は、市川の一人称視点仕立て(あくまで「仕立て」だが)で描かれていて、それを積み重ねた上で逆手に取るような仕掛けが随所で用いられている。このことはいまさら言うまでもないのだけれど、いちおう丁寧にたどっておこう。ベーシック中のベーシックなものとして次のページを挙げる。

(2巻Karte.25)

 山田が、これまで見たことが無かった、市川の『刃牙』の原稿に感動して夢中になっている顔を不意に発見して、その顔を見入ってしまうという場面。これへのモノローグが「ほんとに女子はなんにもわかってねーな」なのだが、ここに読者(私たち)はツッコミをいれないではいられない。つまり、「山田が今お前の夢中になっている顔に惹き込まれているのを、ほんとにイッチお前はなんにもわかってねーな!」と。

 読者にツッコミを喚起する市川の巧まざるモノローグ。『僕ヤバ』はこういうことをしてくる。アイロニカルな作用を果たす、まんがの戦略としての一人称語り。こういうのは、まんがでも映画やドラマでもちょいちょい見るには見るし、なんなら『源氏物語』までさかのぼってもよいのだが、ポップな少年誌のラブコメでぶち込んでくるのが楽しいのだ。

これは一例であって、『僕ヤバ』ではところどころ、形を変えてこの種の仕掛けが施されている。一人称語りという定型を手を替え品を替え逆手にとって、それを物語の彩りと変えていく手練手管。そのなかでも序盤にして500億点をたたき出した、純度の高い結晶のような場面が、2巻Karte.30の四角囲みナシの「好き」なのだが、これについてはすでに様々に指摘もあるようで、ここでは次の言及yamakamu.net

を引用するにとどめたい(この人、本当に読める人だよな…)。参照されたい。

さて、これをふまえて、7巻の話に跳びたい。7巻で目を惹いたのは、Karte.87~89のダブルデート回の、一人称トリックとでもいおうか、これまでとはまた違う形で一人称仕立てを逆手に取る次の展開である。

(Karte.87)

原さんとの買い物での市川のセリフが、読者初見の段階ではプレゼントを選ぶ段階でのそれだと読者に思わせて、

(Karte.89)

しかし実は、自分の用意したプレゼントに自信が無いので原さんにそれとなく自分のジャッジへの保証を求めるようなセリフだったということが後から分かるという結構。

これはこれで、これまでとはまた別の一人称語り仕立てを逆手に取った展開だと言えよう。

で、こうした展開の後に、山田と市川との次のやりとりがある。

(Karte.89)

この「伏線回収というやつだ」という市川のセリフ。これは、直接は、山田に向けた、菓子作りの場にいたことが今のプレゼントの伏線になっているというメッセージであるわけだけれども、それと同時に、原さんとのやりとりが実は用意していたプレゼントの「伏線」として作用していたことへの、読者に向けたメッセージにもなっていると読めるだろう。

これはモノローグではなくて市川のセリフなのだが、やはり、物語内でのことばでありながら物語外へむけたことばでもあるという意味で、先ほどと同軌のものであるといえそうだ。読者をニヤッと(ニチャァと)させながら物語にさらに引き込む装置。そしてこれが、ただの技巧の披露なのでなく、山田に対して自分のやることに自信を持ちきれない市川という人物をよく表すために寄与し、そして市川のそういう自分からの脱却の決意を際立たせるために作用している(大袈裟な言い方をすれば、表現が主題を補強している)ところが、本当に良いのだ。

 

2 足立のセリフにより学び気づかされる市川とそして私たち

 6巻から7巻にかけて長い話数がかけられたバレンタインとホワイトデーのエピソードでは、私はドタバタのギャグとラブコメの要素を余すところなくぶち込んできた山田家でのチョコ作りの回がたいへんに好きなのだが、それはそれとして、ホワイトデー後の次の市川のセリフもなかなか味わい深い。

(6巻Karte.75)

「俺にとっては足立の方が学びや気づきになること言ってるぞ」。

もっともらしいがとってつけたようなセリフしか言っていない南条先輩(ナンパイ)に対して、この回の足立のいくつかのセリフを対象として市川はこう述べるのだろうが、それを第一層として、この市川の感懐には第二層の意味がある。

(Karte.74)

 萌子からもらった義理チョコにハート型に見えなくもないナッツが入っていることで「隠れ本命…ってコト!?」と色めき立つ足立のセリフが回想されている。市川は、山田に対して自分への自信のなさからまず保険を掛けていくところがあって、足立の「勘違い」に呆れながら自分の受け止め方も「勘違い」になりかねないと自分の思考に規制をかけるのだけれども、山田の「勘違いしても/いいよ」(Karte.74)というセリフと「ス」の字を半分にちぎったハート型に見えなくもないチョコのトッピングのマフィンをもらったことで、やはり勘違いなのではなくて「本命」なのではないか、という思いに至るのだった。そしてこれは「ハート型のナッツ」が本命を表す、という足立の言葉が起点となっている。広く言えば、はからずも、やはり足立のセリフから学び・気づきを得ているといえるように思う。(ただ、これだけだと足立が市川に奉仕するだけの存在で終わってしまうので、ちょっとだけ萌子が照れる回を差し挟んで物語は足立に若干の救済を施しているのではないかとも思わされる)

 

そして、さらに想像をたくましくすれば――これにはさらに第三層もあって、私たちもまた、足立から学びや気づきを得ているのではないか。

 私たちは、これ以前にハート型に見えなくもないチョコレートに接しているのだった。

(Karte.30)

先にも触れた2巻Karte.30。マカダミアチョコレートを溶かしてこの形にしたのは市川だった(手を繋ぐ市川のアップ→山田のアップの圧倒的筆力よ…)。

このあと、山田は、このドロドロに溶けたチョコを、何かを考えながら、市川に隠れて「ペロペロ もぐ」次いで「ポリポリ」と食べてしまう。

市川はこの溶けたチョコレートを山田が食べてしまうことを想像すらしていない(「キモい」自分が溶かしたチョコだから、ナチュラルに「洗った方がいいよ」と言っている)。市川の意図せざる山田へのギフト。このハートに見えなくもないチョコは、山田が、「勘違いでもいい」から市川からの恋情の投げかけと見なして、それをこっそり食べる=受け入れてみる、のだといえないだろうか。

 このマカダミアナッツチョコを食べる行為は、この回だけでも読み解けはするけれども、その先数巻を隔てたバレンタイン回からさかのぼって読み返したときに、さらに意味づけを重ねていけるのではないか、と読んでみたいのである。

 勘違いかもしれないという自己規制と、勘違いでもいいという思い切り・踏み出しとの間での行きつ戻りつの道のりが、足立のセリフと二つの図像の類似から浮かび上がる。ここで市川に隠れてこっそりハートに見えるチョコを食べる山田だったのが(あるいは、山田だからこそ)、数ヶ月を隔てていま市川に勘違いでもいいと踏み出すようにまる(あるいは、踏み出せる)。

こう考えると、私たちも、足立には感謝した方がよろしい。サンキュー。

 

(私の読みも勘違いかもしれないが市川と山田に励まされてえいと踏み出してみるのである。)

 

(2022/08/19。8/21改訂。本テキストは研究です(営利目的でない)。引用は桜井のりお『僕の心のヤバいやつ』(秋田書店2018-)、文中で必要上同作の画像の一部引用をする場合はkindle版による)。ここでの画像の他媒体への転載を禁じます

 

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rinraku.hatenablog.jp