"Logue"Nation

ローグネーション。言葉と図像を手がかりにまんがを「私」が「読む」自由研究サイト。自費持ち出しで非営利。引用画像の無断転載を禁じます。

2022年、おもしろかったまんが十選

振り返る時間もないままに忘れてた。定点観測的に挙げる。順不同。

 

0,三島芳治『児玉まりあ文学集成』リイド社

 僕ヤバが260万部売れているなら、三島芳治『児玉まりあ文学集成』は26億部売れてもおかしくない。4巻待ってます。

 

0,長田悠幸・町田一八『シオリ・エクスペリエンス』(スクウェア・エニックス

 アニメ「ぼっち・ざ・ろっく!」が盛り上がりを見せていくのと連動して、ツイッターのTL上で『シオリ・エクスペリエンス』のファンたちが、次はこれ読め的布教をしていたり、やれ次はこれをアニメ化してくれ、と、いやアニメ化してくれるな、アニメ化は無理だ、とあっちこっち行っていたりしていたのを見た。まったく同感であるが、たぶん「ぼっち・ざ・ろっく!」勢はそんなことを言っても読んでくれないと思う。でもとてもわかる。

 

1,はまじあき『ぼっち・ざ・ろっく!』(芳文社

 アニメが底抜けに良かったので、現在刊行分全巻買ってむさぼるように読んだ。おもしろかった。ところでアニメから入ったので「リョウ」と呼称していたが、まんがを読むと圧倒的に「山田」としか呼ばなくなる自分がいるな。またはYAMADAか…。

 

2,水薙竜ウィッチクラフト・ワークス』(講談社

 コミックス今年完結のなかから。世界観がよろしい。彼女たちが工房の魔女であることが塔の魔女たちから疑われているのがよろしい。強い魔女たちがみんななぜか律儀に「多華宮君」呼びなのもよろしい。この作品のおかしみが何かに似てるなと思って記憶を探っているのだけど、案外、佐々木倫子動物のお医者さん』あたりなのかもしれない。

 

3,三原和人『ワールドイズダンシング』(講談社

 かなり良かったのに、打ち切りなのか、かなり急ぎ足でまとめられた。惜しい。ただ、作者がやりたいことを全然やりきれなくての打ち切り、とばかりは言い切れない感じもある。長く続けるには難しい題材だということもあるのかもしれない。

 同じ能楽を扱ったものとしてのアニメ「犬王」もそうだし、少し時代はさかのぼって傑作『逃げ上手の若君』もそうだけれど、ここのところ中世が、頭でっかちではないかたちでポップにエンターテインメントで扱われるようになってきた流れはおもしろい。室町周りの新書が売れ、歴史研究も、80年代前後あたりの中世ブームとはまた別の形で進んできているのも大きいようである。

 

4,河添太一『不徳のギルド』(スクウェア・エニックス

 ギルドとかスキルとかチートとか、なに最近のまんが、その知らない単語を当たり前のこととして話を進めてくれてるんじゃい、という自分が、その手のもののなかで読めるのは、『異世界おじさん』とこれ。

 ライトなエロはそれとして、自分が楽しめるのは、ギャグが知的でおもしろいのと(単発の会話劇で笑いをとるだけでなく、一話の中やシリーズ全体の中での構成を用いて笑いを作るのがべらぼうにうまい)、シリアスとの往還がかなりうまくいっているところによる。マスラオウ・セイテン編で、初めて本当に怒るキッ君の回は、なかでもかなり気に入っていて、考えてみると今年刊行の巻なのでここで挙げた。

 

5,青木潤太朗・森山慎『鍋に弾丸を受けながら』(KADOKAWA

comic.webnewtype.com

 今年のベスト1を選べといわれたらこの作品。めちゃんこおもしろい。博多の話が好き。

 この作品を読んでから、やたら女の子しか出てこないまんがやアニメに接すると、実はみんな男の美少女化なのではないかといぶかしむようになった。

 

6,殆ど死んでいる『異世界おじさん』(KADOKAWA

 神化魔炎竜までアニメがいくかどうかハラハラしていたが、別の意味でハラハラするとは。(コロナ由来で2度の延期)

 コミックスは最初から読んでいるが、ここ数巻は、本当に画力が神がかっている。こういう表現をどうやって思いつくのか、あるいは思いついてもどうやったらこういうふうに本当に絵に落とし込めるのか…。いや、すごいよこれ。

 8巻の裏表紙は「浮かれきったエルフを見守る、新たな旅が幕を開ける!」であった。これ以上的確なキャッチコピーがあったろうか。

 

7, D・キッサン『神作家・紫式部のありえない日々』(一迅社

 紫式部周りはけっこうまんが化されているのだが、変なファンタジーや対立構造を捏造せず、史実に足をおきながらそのうえでよく遊んでいる感じがしてよい。24年の紫式部を主人公にする大河ドラマの出来次第では、私はこの作品を原案にすればよかったのに!と言い出す可能性がある。

 

8, りょん『地雷なんですか?地原さん』(一迅社

地雷なんですか?地原さん - GANMA!(ガンマ)

 地雷女設定が早速破綻しているのに、めっぽうおもしろいのは、黒木くんが実は地原さんに輪を掛けた優しい異常者というところで、この作者何者?と思うのだが、この作品は、あまり外野が面白い面白いとはやしたてない方がよい気がする。長く続いてほしい。

 笑い目表現史研究家(?)としては、2022年にあってこの作品での「^^」の笑い目の位置付けられ方が、ものすごく興味深い。

 

9, 押切蓮介ハイスコアガール DASH』(スクウェア・エニックス

 3巻で俄然おもしろくなってきた。日高が仕事のうえでも覚醒していっているのがよい。のだけど、ハルオ登場は意外。どう転ぶか。4巻を待ちたい。

 

10,『僕の心のヤバイやつ』(秋田書店

 6巻が本当に良かった。

 参考:『僕ヤバ』の語りと表現が楽しい② - "Logue"Nation

『僕ヤバ』の語りと表現が楽しい① - "Logue"Nation

 

次点, 冬葉つがる『窮鬼の仇花』(講談社

 初見で、天才あらわる…と思ったしそれは疑っていないのだけど、打ち切りっぽい感じで終わってしまった。なにしろ画力が凄いと思うし、題材もありそうでない領域を扱って意欲的だったと思うんだが、突き抜ける何かにやや欠けるところもあったように思え、打ち切りになったのはわかる気もする。とはいえ、かつて『カメレオンジェイル』とか『てんで性悪キューピット』とかを連載時におもしろい!と思っていた人間なので、次作以降を楽しみにしてるといいことがあったりするので楽しみにしている。

 

こんなところかな。

ほかにも、この人!という方々が紹介している、読んだら面白いんだろうな、という話題作や意欲作のタイトルは目にしているし、それらはまちがいなく面白いのだろうけれども、今年はあまりそこまで手を伸ばせなかった。手に入ったものを中心にした、ごく私的な十選になった。

Led ぼっちちゃん Ⅱ― 12話のライブ「星座になれたら」の好きなところをただ挙げていく

 8話に負けず劣らず、最終12話「君に朝が降る」の、特に「星座になれたら」のライブシーンが良かった。観て考えたところをただただ書き連ねてみたい。

1.喜多ちゃんの視線、ぼっちの視線

 最終話は、1話との対比も楽しいが、8話「あのバンド」と「星座になれたら」との照応からも読みが広がる。

 ぼっちちゃんのギターが、ペグの不調で1弦が切れ、2弦のチューニングも不安定。調整しなおそうと座り込むが、どうしたらよいかテンパってしまうぼっちを喜多ちゃんが一瞥して、トラブルに気づく。テンパるぼっちのギターソロパートにさしかかるところで、スクランブルでアドリブのソロでつなぐ喜多ちゃん。このサポートに、ついにぼっちが喜多ちゃんの方を見る。

8小節ソロでつなぎながら喜多ちゃんの内話。これをぼっちが見返す。

 この視線の交錯は、8話の「あのバンド」では無かった。8話では、喜多ちゃんは、何度か(すがるように・おどろくように・たしかめるように)目線をぼっちちゃんに向けていて、しかし、演奏中にあってひたすらバンドを引っ張っていくぼっちちゃんは、喜多ちゃんの方を見ない(直接見る目の描写が巧妙に避けられている)。

 それが、ここでついに、喜多ちゃんの予想外のリードで、ぼっちと喜多ちゃんは一瞬、目を合わせるのである。

 すぐ目を逸らすのがぼっちちゃんだけど。

 目を逸らすのは、ぼっちの「陰キャ」の性格ゆえと思わせるものでありつつ、次の8小節に向けての決意を含む前への視線の移動でもある。この直視が、ほんの一瞬であるのが味わい深い。

 これは私たちが大好きな、「天才を一瞬振り向かせる」話ではないですかね。ぼっちを天才だと思って憧れる喜多ちゃんの思いが示され、それが一瞬報われ、しかしそんなふうに思われているとはぼっちは思っていないのが、たいへんによろしい。

 ただ、これが一瞬でしかなかったことは、ここで終わりではなく、後にさらなる変身(関係性の展開)の余地を残してもいることにもなる。てことで、「ぼっち・ざ・ろっく!」二期が待たれる。

2 決意の喜多ちゃん

 これは完全に妄想なのですが、この画像の、テンパっているぼっちちゃんの場面、2周目以降に観てみると、この顔が隠れている手前の喜多ちゃんは、直前にぼっちのトラブルに一瞥をくれて気づいているわけで、だとすると、このときサビを歌いながら、ぼっちのために数秒後にやってくるソロを自分のアドリブでつなぐ決意を固めている、と読んでしまう自分がいてなかなかヤバい。これが補完というものか…。

 ちなみに、喜多ちゃんはこのソロプレイで激しい動きをするが、これは、ぼっちちゃんのトラブルから観客の目を逸らすためのものであろう。たださらに、この喜多ちゃんの最後の猫背に、「あのバンド」のぼっちの猫背との照応、師弟の継承があるという指摘をネットのコメントで見て、なるほど!と思った。

3 8小節延ばす所でのリョウと虹夏のあわせ

 放映直後にリリースされたアルバム「結束バンド」版を聴いて比較すると、文化祭では、本来のソロから8小節分を、スクランブルで延ばしていることがわかる(アニメ視聴後にリリースされたアルバム聴いて、その差分を考えるなんて、こんなアニメ=音楽体験初めてだ…)。

 うまくいったから良いもののなかなかに鬼畜の所業だと思っているのだけど笑、ぼっちが何かしそうだというのをリョウが見ているのがいい。10話のファミレスで、「郁代とぼっち、二人の文化祭でしょ」とソロを押したのはリョウだった。熱くなっている喜多ちゃんも含めて下手から俯瞰し、ぼっちがソロでいけるかギリギリまで待つ。→ぼっちが何かやりそうだ・できそうだと延ばすことを判断。→虹夏を見て拍を取る。→虹夏はそれを察して深く「うん」とうなずく。→で、ループさせてもう8小節――、という展開が短いなかで丁寧に描かれて、

3人でぼっちを支えようとしていることがよく表されている。その支え方には、ぼっちのリカバーを信じて疑わない喜多ちゃんと、先輩として横からクールに見届け判断していくリョウ、その意を汲む虹夏、という偏差もうかがえておもしろい。虹夏は、喜多ちゃんのアドリブを映すカメラ回り込みの場面に映る顔に、この状況をさあどうすると考えているかのような面持ちが見えていて、この意気込みを経由させると、リョウの合図での深い頷きにこめたものの深さがよりわかる。

 

 思惟の交錯の面白みとともに、この急に8小節延ばすための8小節めの、リョウと虹夏の「ンタタタタタタタ」と体でリズムを取るところが、単純に気持ちよく、これはライブの愉楽。普通にライブ中にこういうことをリズム隊がしてくれると私などは無条件でアガる。ライブシーン全般にいえることだが、ファンタジーは織り交ぜられていつつも、ライブの愉楽へのリスペクトが随所に見て取れて、本当に信頼できるのである。

 それと、リズム隊の8小節のループそのものが、めちゃくちゃベネ(良し)。このBPMでのループでしか味わえない疾走感がある。

4 ボトルネック奏法終わりの「ズギュル」という音を残していること

ライブ感!

これを入れるスタッフは信用できる。

5 「遙か彼方」と「カルマだから」の全韻

 「あのバンド」もそうだけど、ぼっちちゃんの歌詞世界が良すぎる。一聴、さわやかポップ調で、歌詞もそういうところがあるのに、いきなり差し挟まれる「カルマ」がとてもよろしい。しかも全韻。

 一方で、「星座になりたい」を押し入れで一面に貼った4人のアー写を眺めながら歌詞を書いていたとすると、なかなか考えさせられるものはある。

6 「満月じゃなくても」で主旋律とハモるリードギター

 難局を乗り越えて中空を見上げ(ソロが終わってからの、楽曲が進行していくなかでのエアポケットの時間は、吹奏楽などでもありうることで、その抒情がよく表現されていると思う)、自分の演奏が入るところでナチュラルにバンドを見ることができているぼっちちゃんに、1話からの成長を見て取れる場面。

 もう一歩踏み込めば、ここで、ぼっちがみんなの方をナチュラルに見た(見れた)あとに演奏に加わる箇所が、伴奏やリフを弾くところではなくて、ドラム・ベース・ボーカル・リードギターの4者で音を一緒にそろえるところであるのがよい。ぼっちは、3人と音を揃える。また、揃えることができる。

 このぼっちの顔は、陰がかかって描かれる。歌詞は「(暗闇を/照らすような)満月じゃなくても」。

 ぼっちには陰がさしたままで、4人が音を揃える。それでいいということなのだろう。大げさな物言いをすれば、そのままにありえていいという、自らの中における受容。そしてそのままであっても他の3人と並びうることの確かめだということができる。

 

 4人の中の一人ということとともに、喜多ちゃんとの関係に焦点をあてれば、そもそも、歌詞そのものが、喜多ちゃん(というか喜多ちゃんに象徴されるもの)との関わりを介在させずに読むことができないものだ。陰のさすぼっちの「満月じゃなくても」が終わったところで表される喜多ちゃんは、ぼっちと対照的に表される。

 ここに限らず、この曲では喜多ちゃんの顔にはライトが当たり続ける(若干不自然さすら覚えるぐらいに)。

 この喜多ちゃんのようではありえない自分のままに、ステージに並んで立つぼっちちゃん。それは音楽の上でも象徴的に示されているとみてよい。つまり、「満月じゃなくても」が、喜多ちゃんのボーカルの主旋律に、リードギターでハーモニー的に旋律を弾く場所だということ。ぼっちはギターで「満月じゃなくても」と歌い、調和させているのであって、このボーカルの喜多ちゃんとハーモニーを奏でるぼっちのギターは、ひそかな聴きどころなのではないかと思わされるのである。

 こうして、歌詞・描写・音楽によって複合的に示されるぼっちちゃんの現在。ここが1期のぼっちちゃんの到達地点なのだろう。

                   ◯

 ところで、では喜多ちゃんには陰は付されないのかといえば、この曲で、印象的に喜多ちゃんの顔の全面に陰が付される場所がある。

 アドリブソロの終わり。密かにぼっちちゃんに憧れ、それを真似る喜多ちゃんに、陰が付される。よくできている。

 

(追記)7 ぼっちのボトルネック奏法と承認欲求モンスター

 ボトルネック奏法の場面が見せ場なのは言うまでもないのだけれど、ここの何がいいって、ぼっちが将来ちやほやされるためにこれらの目立てるテクニックを過去に一人で手当たり次第練習してたことを思わせることと、そのひたすらな練習による技量に裏づけられつつ、この土壇場ではそんな承認欲求なんて忘れて、結束バンドのための一心で弾いてるところであろう。

 あと、酒瓶の描写、光の入れ方がキレイ。

おまけ

SHIORI EXPERIENCE』難民救済。

 

「ぼっち・ざ・ろっく」を観るたびに、『シオリエクスペリエンス』もアニメ化してくれ!いや、アニメ化してしまってはダメだ!いやアニメ化してくれ!いや(以下、繰り返し)

 

参考:8話の読解

 

nico.ms

youtu.be

(2022/12/28。12/31改訂および7の追記)

Led(by)ぼっちちゃん ― アニメ「ぼっち・ざ・ろっく!」8話「あのバンド」の全身総毛立つところを挙げていく

 アニメ「ぼっち・ざ・ろっく!」#8が凄い。タイトル回収回は伊達じゃない。

 作り手側のインタビューなどもぜひ読んでみたいけれども、とりあえず最終回になる前に、他に情報を入れずに自分なりに観て考えたことを、視聴の記録として並べていきたい。

nico.ms

1.ぼっちちゃんのアドリブのギターソロのタイム感

 「ギターと孤独と蒼い惑星」の演奏が揃わない。そのまま2曲めになだれこみそう…というピンチで、ギターヒーロー登場…! その展開の気持ち良さったらないが、ここ、ただ荒ぶってるんじゃなくて、派手なギターソロで引き込まれるけれど、ソロ終わりの手前まで、タイム感を保ち続けているところも見どころ(聴きどころ)だと思う。そしてこのBPMを、そのままリズム隊に渡す(もちろんリズム隊がそれを受け取れることへの信頼もある)。このギターソロは、狭い意味の「承認欲求」のそれではなくて、バンドの全体へ寄与するためのそれ。

 しかし、きちんと音楽教育を受けたなどのバックボーンは特に描かれていないと思うけど、すごいキープ力だよこれ。

 日常パートでは周りから引っ張られているぼっちちゃんが、逆転するかのように周りをリードするのがグッとくるし、同時に、これははからずも、廣井きくりが路上ライブでやってくれたこと(#6)を、ギタープレイヤーとしてのやり方でやっていることにもなっているとみることもできる。だとすると、意図してではなく結果的にだろうが、「敵を見誤るなよ」と、ほかの3人にギターで示していることになるのだ。

2.虹夏とリョウ+喜多ちゃんとの気づき方のちがい

 どちらも「あっ」という反応だけれども、その身体の動きには描き分けがある。もちろんその瞬間は読者にはその中味はわからず、後から分かる。二度読みで楽しい点。

 

3.ギターを左右に揺らすぼっちちゃん

 押し入れに籠もる日常パートのぼっちちゃんぼイメージからすると、前にのめりこむ姿勢との親和性が高いが、ここで、左右に身体やギターを振る描写があるのが、なんだかよろしい。モーションキャプチャーをベースにはしているかと思う描写だが(違っていたらすみません。アニメのことはあまりよくわからない)、モーションキャプチャーをすれば何でもリアルに描けるわけではないし、リアルに描いても演出に耐える絵はまた別なのだろうと推察される。そうであるにしても絵と動きの「選択」がそこにはあるのであり、それが本当に適切なのだ。

4.ファンになった二人の子のノリと廣井きくりのノリのちがい

(やっぱりちょっと違うかなと削除)

 

5.Bメロの青く照らされるぼっちちゃん

 アドリブかと思しきイントロ前のソロから、イントロ(跳ねるカッティング)→Aメロの動的な展開を経て、Bメロでやや静的な感じになるところ、青い照明で静かに照らされるぼっちちゃんの美しさよ。もやがかった中空がライトで青白く光る。

 アニメの表現史の中に置けば、「月の光で照らされるヒロイン」の系譜の一変奏ともいえるかもしれない。

6.「あのバンド」の歌詞世界

 日常パートでギャグになっているぼっちちゃんの陰キャ行動や陰キャ思考が、「ロックの歌詞」というフィルターを通すと(器のなかに入れると)、あの歌詞になって表れるのか!という発見も楽しい。

 ただ、これは、ロックの言葉で表出することで遂行的に「真の」内面が形を持った、ということではなくて、日常パートのギャグに回収される陰キャ思考と、ロックの歌詞でこのような表れをするものと、どちらもぼっちちゃんの本質であるということは大事だと思う。

 変に恋愛を歌っていない(#4)のもポイント高い。「あのバンド」って、表題からして既に勝ちですよ。ロックは恋の歌のみを歌うものかは。

7.喜多ちゃんの視線を受け止めない・気づかないぼっちちゃん

 #5、#6、#8と積み重ねられてきた演奏シーンで、ぼっちちゃんの目線がどう描かれているか(あるいは隠されるか)は、物語の縦軸を支える表現となっている。

 ぼっちちゃんが顔を上げないで、冥く沈潜するように弾くのは、得体の知れなさとかっこよさがある。そして、それゆえに、目を見せる場面が逆に際立つようになり、すごみがでてくる。

 で、「あのバンド」では、喜多ちゃんの目も注意される。喜多ちゃんは、何度か(すがるように・おどろくように・たしかめるように)目線をぼっちちゃんに向けていて、だが、演奏中、ぼっちちゃんは喜多ちゃんの方を見ない。視線が一方通行なのである。この非対称は何度か繰り返される。

 で、演奏直後、ぼっちちゃんはまず虹夏を見る。そのあと、別に仲が悪いわけではないわけで、喜多ちゃんとも顔を合わせるのだが、

ぼっちが直視する描写が表現上は巧妙に避けられて、描かれていないのである。

 これは8話が投げ入れた物語上の<課題>といえるはずで、となると、最終回(あるいは2期)に向け、このバンドはもう一段階変身を残していると予想できる。

 これは最終回で答え合わせをしてみたい。

8.「私が放つ音以外」の二度のストローク

 最高。カッティングもチョーキングも超絶的なのだが、この箇所のピントのぼやけた向こうでのストローク2回の所作が本当にかっこいいし、クール。もうこれは観て聴いてくれとしか言いようがない。1回めの動作の大きさと速さ、そして2回めの、直後のアウトロのソロのための予備動作でもある動きの小ささと鋭さ。

 このあとはピントがぼっちちゃん本人にあたってザ・見せ場のソロとなるのだが(とはいえ、実は虹夏のドラムとの共闘がアウトロの見どころなのだがね。なお、ここに至るとギターでリードする必要がないぐらいにリズム隊の二人が持ち直しているので、リズム隊の上にぼっちちゃんは乗ってソロを弾いているのである)、その直前、ピントがあっていない描写で、喜多ちゃんがメインを張っている所で自分は支える部分であることを示していて、私などはこっちの方がぐっとくるのである。

 

 とりあえず以上です。とにかく「あのバンド」という歌そのものが、歌詞も曲も演奏も絵も動きも演出も好きすぎる。

 

 最初観始めたときは、主人公の(天性でない)異能の獲得が第1話のオープニング前の数分で済んでしまうのはギャグ成分多めのコメディと言ってしまえばそれまでながらいかにも00年代以降という感じである云々(早口)、などともっともらしいことを考えながら眺めていたのだけれど、演奏シーンで本当にやられた。他の音楽演奏アニメはあまり知らないのだけど、こういうレベルの作品がゴロゴロしているのだろうか(多分ゴロゴロはしていないだろう)。

 

 リアルの演奏をアニメで再現しているのが凄いのではない。いや、それだけでも凄いことだし相当の熱量と技量に裏づけられて成立しているとは思うのだが、リアルをアニメに落とし込むことの先にある、演奏とキャラクター・物語とを関わらせる表現が成立しえていることが、楽しいし嬉しいし驚愕させられるのである。

 

(なお、原作のまんがは未見なので、見当外れのことを言っていないか若干心配はある。まんがはアニメを最終回まで観てから読みたい。)

 

Led Zeppelinのledが過去分詞ではなく鉛から来ているのはいちおう知っています。

『僕ヤバ』の語りと表現が楽しい②

rinraku.hatenablog.jp

からの続き。

3 「大丈夫」と「頑張れ」

 7巻Karte.96で、市川は広島にいる山田に「大丈夫」とLINEを送った。ここまで「頑張れ」と「大丈夫」は、山田が市川に投げかける言葉だったから、ここはそれへのアンサーとして機能している。

 ところで、この二つの言葉はもともとは並置されていたのだった。

(6巻Karte.73)

市川は自分を奮い立たせるために「大丈夫/頑張れ」とモノローグで述べる。これ以外にもこの二つの言葉はキーワードとして繰り返し述べられるのであるけれど、ここに違いがもたらされるのが6巻Karte.84だ。

市川は、もらう言葉が「頑張れ」でないことを望み、山田は知らずそのとおりに「頑張れ」でなく「大丈夫」と投げかけた。

 「大丈夫」は、「頑張る」の手前にある、不安を乗り越えるための、自己肯定を促す言葉だ。こう考えると、身も蓋もない言い方になるが、市川と山田が現段階で相手に何を求めているかがよくわかる。自信の無い自分への肯定を与えてくれる存在であることを根柢で求めているのである。あるいはそれだから信頼を寄せることができる。

もちろん、「頑張れ」が否定されているわけではない。ただ、この二つは、並べられるのではなく、「頑張れ」の前提として「大丈夫」がなければならない。

 doの前にbeが保証されること。受容されること。そうすると、告白してフラれる南条先輩(ナンパイ)は、負けるべくして負けたことがよくわかる。

(6巻Karte.85)

「山田さんが頑張ってると…こう……俺も嬉しい」。「頑張る」という語を持ち出した瞬間にナンパイお前は意図せず市川と同じ土俵に立ってしまったのだ。いや、「頑張る」という語を用いてもよいのだろうけれど、お前、そこから「大丈夫」に持ってけないだろ? 山田とはその歴史がないし、その後のサッカーのエピソードで彼はサッカーのリタイアを冗談めかして言って、端的にいって頑張れていないことが示されている(リタイアしたことが問題なのではなく、リタイアしたあとのふるまいが問題。リタイアしてもリタイアしたなりに頑張れているなら良かったのだ。この物語はこういう所はきちんと丁寧である)。ナンパイが間違った理路に入り込んでいることは、次の山田のセリフとの対比で確認される。実は、ナンパイへの山田の返答は、噛み合っていない。

(Karte.85)

 そもそも、幼なじみの女の子の儀式にすぎないというセリフで既にナンパイのフラれることは予感されていたのだが、ことここに至って、ナンパイの負けは正しく確定する。物語にあって、それがキーワードである「大丈夫」「頑張る」という語の位置づけと紐付けられて描かれる丁寧な構成を読み取りたい。

 ちなみに、市川に「大丈夫」という言葉を投げかける人物として、山田と、自分自身、そしておねえが並んでいるのはとてもいい。

(Karte.84)

市川にとって、おねえが本当に大切な人物であるということがここによく示されている。おねえは出色のキャラクターだと私は思っていて、Karte.77など抱腹絶倒の回で大好きなのだけれど(

(Karte.77)

ナチュラルに「お姉ちゃん」呼びしている山田もポイント高い)、随所で市川のことを本当に思ってあげている姉であることが示されているところがたいへんに好もしいのだ。

 

4 心を通わせる描写がいい

 『刃牙』の原稿にときめく市川にときめく山田について触れた。山田は別段『刃牙』は好きにはならなかったわけだが(先のKarte.77のおねえのあるセリフにピンときていない山田がその証明)、ここから山田が、同じものを好きになりたい、同じものが好きだったらいい、というモードを出し始め、

(2巻Karte.26)

(市川はそういう山田の心の動きに気づいていない)、自分の好きなまんが『君オク』を市川と共有したいと思う。

(3巻Karte.44)

 そこでの市川は、図らずも山田が良いと思っているのと同じポイントを挙げる。山田は「私も!!」と嬉しがる。人と好きなモノの好きなところが共有できる嬉しさの大きさは、私たちにもなじみの深いものである。これが作中内でまんがによって為されるところに、まんがへの信頼とまんがへの祈りがあるように私には思えるが、それはそれとして、この、互いについて、「同じ」と「違う」ということに、二人はとても鋭敏であり続ける。

例えば4巻Karte.46、渋谷デート回。黒い服についての会話。山田は「私も好き」と、『君オク』の時に似たことを述べる。

それに対して市川は「全然違う」と述べる。市川は、自己卑下から山田と自分などは違う、と決めつけて、山田を上げようとするのだけれども、山田は、やや不穏な描写をもってそういうセリフに警戒をみせている(上の2コマ目。顔の陰りと長い「………………………」も何を考えているのか、不穏)。

これが、

(同)

互いの関係に隔たりをもたらすような発言でないことがわかったところで(上の「…………………………」の含み。上のコマとの照応)、その不穏さが表面上は解消される。

 こういう「違う」と「同じ」の二つの極の間の揺曳が、この後積み重ねられていく(そう考えると、上で挙げた南条先輩のセリフの「違う違う」がどれだけ周回遅れかということもよくわかる)。今はそれを一つ一つたどることはしないが、たどっていくと、市川が山田のことを「キモい」自分と別世界の人間だと決めつけるような認識から、山田もまた悩む存在なのであり、その悩みも含めて自分と同じ部分を持つ、いわば等身大の他者としての山田を発見していく物語なのだということがわかる。「心を通わせる描写」が、そのように積み重ねられてゆくのである。

それにしても、振り返ってみてキモくない恋愛なんてあるものかね。だから、多くの読者にとってこの作品は、ありえなかった、しかしどこかなつかしい物語になっているのだろう。

 

おまけ 神崎問題について

 7巻の、Wデート回を読んで、神崎をどう思うか?

 私は、けっこう怖いと思った。Karte.1以来の、「性癖が特殊」というギャグ的に回収される水準とは別に、原さんに「ありのまま」を善として要求して原さんその人を等身大の他者として本当に見ていないフシがあるからだ(その意味では、ギャグ仕立てながら等身大の他者の発見という市川と山田の物語の陰画なのではないかとすら思わされる)。

それは原さんの時折見せる反応からもある程度妥当な読みだと思う。もちろん原さんは嬉しさを感じていたり、楽しんだり恋人っぽい関係ゆえに不満を表明してみせたりもしているのだが、神崎の発言に、言語化できないしっくりいかなさを感じているさまもほの見えるのである。

これに対して、市川は、(自分や山田のこれまでと現在を参照枠に置きながら)原さんが変わろうとするのを受容するのがよいのでは、と助け船を出す。

イッチの、二項対立に第三の認識を提示できるところ、本当に自分の言葉を持っている頭の良い子だと思う。で、ふつう少年まんがの構造的には、主人公の助言を経るとその相手に何かの変容があるはずである。しかし、どうも神崎には、きちんとした形では響いていない。市川が触媒として機能しかけても気づきが表面的で終わっていて、そして今後伸びしろがあるようにも(今のところ)描かれていない。

 市川から「決定的な何かが欠けている」といわれているのは、むしろそう読者に明言されている所がせめてもの救いになっているようなところがあり、実はどうにも不穏さを微妙に湛え続けている。原さんが良いキャラクターなだけに、けっこう私などはハラハラさせられてしまうのだ。このへんの、表面的に上手く行っているようでも実はしっくりいかなさを言語化できないレベルで抱えている、という男女関係が、どうも原さんと神崎の関係にはあるように思えて、現段階によるかぎり、原さんに幸あれと願うほかない。(今後の展開に期待したい)

 なお、原さんは初登場時よりキレイになっていて、これは、恋する女はキレイになる、とか、キレイになるよう努めるようになった、とかいう言い方でも説明できるのだけど、それだけでなく体型の出にくいファッションをうまく選んでもいるはずである。このあたり、なかなかリアルでよろしいと思う。

 それにしても「僕も変わりたくて/ここまで来た」という市川は、正しく少年まんがの主人公だ。私は、『スラムダンク』の赤木の「オレは間違ってはいなかった」というセリフが本当に大好きなのだけれど、これらのような、これまでの迷いながらの道のりを振り返る主人公のセリフは、巻を積み重ねてきた物語たちが持てる特権であろう。

 

(2022/08/21。本テキストは研究です(営利目的でない)。引用は桜井のりお『僕の心のヤバいやつ』(秋田書店2018-)、文中で必要上同作の画像の一部引用をする場合はkindle版による)。ここでの画像の他媒体への転載を禁じます

 

rinraku.hatenablog.jp

『僕ヤバ』の語りと表現が楽しい①

桜井のりお『僕の心のヤバいやつ』7巻(秋田書店)読了。

『僕ヤバ』は、筋そのものを追うのも楽しいけれど、表現と語りについて考えて読みに参入させていくのもたいへんに楽しい。いくつか、こういうことも言えるんじゃないか、ということを並べていきたい。

ただ、『僕ヤバ』は、ネット上でちょっと検索するだけでもかなりぶ厚く読み解かれているので、すでに言及されていることならば、そちらに譲るのはやぶさかではないです。

(以下最新刊までのネタバレあり。通読してからお読み下さい。)

 

1. 物語内でのセリフが別の意味をもたされて読者に向けられる

 『僕ヤバ』は、市川の一人称視点仕立て(あくまで「仕立て」だが)で描かれていて、それを積み重ねた上で逆手に取るような仕掛けが随所で用いられている。このことはいまさら言うまでもないのだけれど、いちおう丁寧にたどっておこう。ベーシック中のベーシックなものとして次のページを挙げる。

(2巻Karte.25)

 山田が、これまで見たことが無かった、市川の『刃牙』の原稿に感動して夢中になっている顔を不意に発見して、その顔を見入ってしまうという場面。これへのモノローグが「ほんとに女子はなんにもわかってねーな」なのだが、ここに読者(私たち)はツッコミをいれないではいられない。つまり、「山田が今お前の夢中になっている顔に惹き込まれているのを、ほんとにイッチお前はなんにもわかってねーな!」と。

 読者にツッコミを喚起する市川の巧まざるモノローグ。『僕ヤバ』はこういうことをしてくる。アイロニカルな作用を果たす、まんがの戦略としての一人称語り。こういうのは、まんがでも映画やドラマでもちょいちょい見るには見るし、なんなら『源氏物語』までさかのぼってもよいのだが、ポップな少年誌のラブコメでぶち込んでくるのが楽しいのだ。

これは一例であって、『僕ヤバ』ではところどころ、形を変えてこの種の仕掛けが施されている。一人称語りという定型を手を替え品を替え逆手にとって、それを物語の彩りと変えていく手練手管。そのなかでも序盤にして500億点をたたき出した、純度の高い結晶のような場面が、2巻Karte.30の四角囲みナシの「好き」なのだが、これについてはすでに様々に指摘もあるようで、ここでは次の言及yamakamu.net

を引用するにとどめたい(この人、本当に読める人だよな…)。参照されたい。

さて、これをふまえて、7巻の話に跳びたい。7巻で目を惹いたのは、Karte.87~89のダブルデート回の、一人称トリックとでもいおうか、これまでとはまた違う形で一人称仕立てを逆手に取る次の展開である。

(Karte.87)

原さんとの買い物での市川のセリフが、読者初見の段階ではプレゼントを選ぶ段階でのそれだと読者に思わせて、

(Karte.89)

しかし実は、自分の用意したプレゼントに自信が無いので原さんにそれとなく自分のジャッジへの保証を求めるようなセリフだったということが後から分かるという結構。

これはこれで、これまでとはまた別の一人称語り仕立てを逆手に取った展開だと言えよう。

で、こうした展開の後に、山田と市川との次のやりとりがある。

(Karte.89)

この「伏線回収というやつだ」という市川のセリフ。これは、直接は、山田に向けた、菓子作りの場にいたことが今のプレゼントの伏線になっているというメッセージであるわけだけれども、それと同時に、原さんとのやりとりが実は用意していたプレゼントの「伏線」として作用していたことへの、読者に向けたメッセージにもなっていると読めるだろう。

これはモノローグではなくて市川のセリフなのだが、やはり、物語内でのことばでありながら物語外へむけたことばでもあるという意味で、先ほどと同軌のものであるといえそうだ。読者をニヤッと(ニチャァと)させながら物語にさらに引き込む装置。そしてこれが、ただの技巧の披露なのでなく、山田に対して自分のやることに自信を持ちきれない市川という人物をよく表すために寄与し、そして市川のそういう自分からの脱却の決意を際立たせるために作用している(大袈裟な言い方をすれば、表現が主題を補強している)ところが、本当に良いのだ。

 

2 足立のセリフにより学び気づかされる市川とそして私たち

 6巻から7巻にかけて長い話数がかけられたバレンタインとホワイトデーのエピソードでは、私はドタバタのギャグとラブコメの要素を余すところなくぶち込んできた山田家でのチョコ作りの回がたいへんに好きなのだが、それはそれとして、ホワイトデー後の次の市川のセリフもなかなか味わい深い。

(6巻Karte.75)

「俺にとっては足立の方が学びや気づきになること言ってるぞ」。

もっともらしいがとってつけたようなセリフしか言っていない南条先輩(ナンパイ)に対して、この回の足立のいくつかのセリフを対象として市川はこう述べるのだろうが、それを第一層として、この市川の感懐には第二層の意味がある。

(Karte.74)

 萌子からもらった義理チョコにハート型に見えなくもないナッツが入っていることで「隠れ本命…ってコト!?」と色めき立つ足立のセリフが回想されている。市川は、山田に対して自分への自信のなさからまず保険を掛けていくところがあって、足立の「勘違い」に呆れながら自分の受け止め方も「勘違い」になりかねないと自分の思考に規制をかけるのだけれども、山田の「勘違いしても/いいよ」(Karte.74)というセリフと「ス」の字を半分にちぎったハート型に見えなくもないチョコのトッピングのマフィンをもらったことで、やはり勘違いなのではなくて「本命」なのではないか、という思いに至るのだった。そしてこれは「ハート型のナッツ」が本命を表す、という足立の言葉が起点となっている。広く言えば、はからずも、やはり足立のセリフから学び・気づきを得ているといえるように思う。(ただ、これだけだと足立が市川に奉仕するだけの存在で終わってしまうので、ちょっとだけ萌子が照れる回を差し挟んで物語は足立に若干の救済を施しているのではないかとも思わされる)

 

そして、さらに想像をたくましくすれば――これにはさらに第三層もあって、私たちもまた、足立から学びや気づきを得ているのではないか。

 私たちは、これ以前にハート型に見えなくもないチョコレートに接しているのだった。

(Karte.30)

先にも触れた2巻Karte.30。マカダミアチョコレートを溶かしてこの形にしたのは市川だった(手を繋ぐ市川のアップ→山田のアップの圧倒的筆力よ…)。

このあと、山田は、このドロドロに溶けたチョコを、何かを考えながら、市川に隠れて「ペロペロ もぐ」次いで「ポリポリ」と食べてしまう。

市川はこの溶けたチョコレートを山田が食べてしまうことを想像すらしていない(「キモい」自分が溶かしたチョコだから、ナチュラルに「洗った方がいいよ」と言っている)。市川の意図せざる山田へのギフト。このハートに見えなくもないチョコは、山田が、「勘違いでもいい」から市川からの恋情の投げかけと見なして、それをこっそり食べる=受け入れてみる、のだといえないだろうか。

 このマカダミアナッツチョコを食べる行為は、この回だけでも読み解けはするけれども、その先数巻を隔てたバレンタイン回からさかのぼって読み返したときに、さらに意味づけを重ねていけるのではないか、と読んでみたいのである。

 勘違いかもしれないという自己規制と、勘違いでもいいという思い切り・踏み出しとの間での行きつ戻りつの道のりが、足立のセリフと二つの図像の類似から浮かび上がる。ここで市川に隠れてこっそりハートに見えるチョコを食べる山田だったのが(あるいは、山田だからこそ)、数ヶ月を隔てていま市川に勘違いでもいいと踏み出すようにまる(あるいは、踏み出せる)。

こう考えると、私たちも、足立には感謝した方がよろしい。サンキュー。

 

(私の読みも勘違いかもしれないが市川と山田に励まされてえいと踏み出してみるのである。)

 

(2022/08/19。8/21改訂。本テキストは研究です(営利目的でない)。引用は桜井のりお『僕の心のヤバいやつ』(秋田書店2018-)、文中で必要上同作の画像の一部引用をする場合はkindle版による)。ここでの画像の他媒体への転載を禁じます

 

続き ↓

rinraku.hatenablog.jp

2021年、おもしろかったまんが十選

1,三島芳治『児玉まりあ文学集成』(リイド社

2年連続俺1位。3巻刊行するもおもしろさは衰えず。この本が5億部売れていないのが不思議と言わざるを得ない。

「言葉は人の心に効くわ/人の心にしか効かないけど/猫の心にも通用しないし石ころも動かせない/現実の威力を持たない/人間の心を動かすためだけの単なる信号/高度なコードよ」

正面から『古今和歌集』「仮名序」に喧嘩を売っている。最高じゃないですか。

rinraku.hatenablog.jp

to-ti.in

2,長田悠幸、町田一八『SHIORI EXPERIENCE』(スクウェア・エニックス

音楽まんがの金字塔。えっ、すばる先生が? 燃えるほかないじゃないですか。

magazine.jp.square-enix.com

3,よしながふみ『大奥』(白泉社

今年コミックス完結ということで。よくこれを描ききってくれたと感謝するほかありません。個人的にグッとくる忘れがたいエピソードは、

・おみつ(加納久通)が恫喝される場面(あの、女に対して声を荒げることを強さの示威としている男を対象化してみせているあたりから、男女を逆転させたことの意味の一端がじわじわわかってくるあたりが本当に好き。おみつは清濁併せ持つ切れ者の腹心だが、といって全て計算づくで荒げさせているのではなくて、荒げられることが苦手、でもそれはそれとして、というのが絶妙にいいのだ。女の権力者が男の権力者とは違う権力の在り方を持っていることをきちんと見せているところにSFとしての強度があるように思う)

家斉編(そもそも手に汗握るサスペンスとして秀逸のうえに、青沼・源内編の失意が、そこで種まかれた人の思いが細い糸のように伏流していって結実してゆくのがグッッとくる)

阿部正弘のエピソードの全て

勝海舟西郷隆盛の江戸無血開城の会談(和宮!)

あたりですかね。

melody-web.com

4,速水螺旋人大砲とスタンプ』(講談社

これも今年コミックス完結。アーネチカの顛末に悲哀と無情を覚えつつでもああ描かれると彼女にはあの最後しかなかったようにも思える。

そして、何より軍閥(!)のくだりね。世界があそこで一気に転倒する驚嘆。

morning.kodansha.co.jp

5,服部昇大『邦画プレゼン女子高生 邦キチ! 映子さん』(集英社

初回から楽しみに読んでいるが、特に今年については、エヴァ回がネット上で盛り上がっておもしろかった。「考察がもう伝播してる! まさにエヴァ的だ!!」と作中で語られるが、その回を含めて、江波の恋の行方、ひいては邦キチと部長の関係に及んでネット民たちが考察を繰り広げているさまを見て、私は「考察がもう伝播してる! まさに邦キチ」とつぶやいたという。 

いろんな人が書いていたが、エヴァを語らずエヴァを語るという芸当がたいへんにすばらしい。

www.amazon.co.jp

6,野田サトルゴールデンカムイ』(集英社

27巻、ここにきてタイトル回収!

www.amazon.co.jp

7,田口囁一『ふたりエスケープ』(一迅社

フィクションの愉楽。コミックスで、ポッポのポテトに言及されていたけれど、あれは坂戸駅イトーヨーカドーだろうか。

www.ichijinsha.co.jp

8,くずしろ『笑顔のたえない職場です。』(講談社

7もそうですが、まんが家まんが、好きなんですよ。はーさんがよい。天才の描き方がたいへんによい。若木民喜『16bitセンセーション』なんかもそうだけれども、天才の描き方を知っている作者の作品は本当に信頼が置ける。

yanmaga.jp

9,ビュー『レッツゴー怪奇組』(小学館

「はーっ」が流行ってほしい。腹抱えて笑う。言葉の置き方が良い。

www.shogakukan.co.jp

10,小林まこと青春少年マガジン1978~1983』(講談社

2014年刊だけど、今年読んだ本ということで。「あのころ回顧まんが家まんが」、つまりは「まんが道」まんがは、『アオイホノオ』あたりから隆盛を誇っている。そしてそれらが、それぞれの「テラさんの末路」をどう描くかに、私の興味の一つはある。そういうことを全く描かない作品も多いが(生存者バイアスに無自覚か、あるいは割り切っておもしろく演出する方向に決め込んでいるか)、正面から、あるいはさりげなく描く作品もまた多い。そのなかでもこの作品は考えさせられる作品。さすが小林まことと言わざるを得ません。

80年代少年まんがの周辺は業界そのものが本当に狂気じみている。細野不二彦も自伝めいた作品を描いているらしいのでそちらも楽しみ。

kc.kodansha.co.jp

参考:

rinraku.hatenablog.jp

『こち亀』野郎!―『こち亀』追跡200キロ:36~40巻

36巻

ムッシュ・塩浦
階建てバスの成功の半分は、この人の天才によるところが大きい。

「ニーハオ ボンジュール わたしなんでも作るメルシー ぜひたべにきてねグラッチェ」([ノガミブルース]p13-4)

どっからこんな逸材を見つけてくるのだろう…。
両さん
イデアを求められる両さん、というパターンがのちに固定化されるが、おそらくその初発が、[ノガミブルース]。
 発明やアイデアネタの素地は、数巻前からあるにはあったが、実際に両さんその人が他からアイデアを求められるのはここが初めてのよう。

巻は、なんといっても連作[両さんの長崎旅行]があることでわたくしたちに記憶される巻である。

「それが給料日前なんでオケラなんだよ
あっ あれ? ポケットに金が入ってた!?」
([両さんの長崎旅行(1)])

ということで(モデルガンを6丁買ってしまったのと同じミスである)、長崎までの珍道中が描かれる。アメリカ研修以来の長編だが、こちらの方が味わいがある。
 とりわけおそらくは人気が高いであろうエピソードは、勝手に親戚と思わせて老夫婦のところに上がりこんでしまい、強引に一泊しつつも、その老夫婦にはじつはバレている、という(3)のエピソード。
 この話の、さりげなくいいところは、最後に本田にこのおじいさんが言うとおり、最初は感情を表に表さなかった夫婦が次第に笑顔になっていく過程が描かれているところです。

 両さんに関していえば、[署長の息子]で、絡んできたチンピラとのやりとり、

「おまえ地元か?」「だったらどうだというんだ」
「それじゃなおさらゆるせねえ!」「うわっ」
(p59-9)

も記憶に残るところ。

視庁からの手配書によれば、
・まゆげが太い
・目つきが悪い
・角がり
・Tシャツ
・声がでかい、目立つ。
・名所などにあらわれる。
・一見ヤクザ風実は警察官
■梅田
阪府警の刑事。両さんとの大阪と東京のけなしあいをするために登場。「治安の良さも大阪が日本一ですよ 警察官の信頼は天下一品」「人が死んでも2年ぐらい発見されない東京の治安には負けますわ はは」(p131)が秀逸。
 警視庁の警察官たちには東京の地名をあてられる傾向があるのだが、ここも大阪の刑事が「梅田」、長崎の婦警は「島原」って、じつに安易でよろしい。

■部長と両さん
はり、長崎旅行編のなかでのやりとりがすばらしい。

・アップが続く、長崎がどこかをめぐって繰り広げられる息を詰めるような緊張感あふれる心理戦。

・なんだかんだいって、真顔で餞別をやっていることもさりながら、「見聞を広めたい」という両さんが有給をほしいと言ったとき、「そういうことなら」という感じであっさりと有給をあげる部長。
 こういう、わかるところはわかる上司像、ってのを基本的に持っていることが、ギャグまんがの凡百の「怒鳴り系キャラクター」とは一線を画すところかと思われる。少し堅物だけど上質の常識人、ってのは、常識を持っている作者にしか書けません。このことは、前期『派出所』の特質として、少なからず強めに主張してもいいことのように思います。動静を有効に処理するのがギャグの基本だとたぶん多くのギャグ作品はわかっているはずなのだけど、その「静」を描いたつもりで描けてない場合ってのはあります。その「静」を描くときもっとも必要なのが、上質の常識と、それを裏打ちする<教養>なのです。
 とにかく、金と時間のホントの使い方を知っている、いい上司だ。まあ両さんの方にしてみれば方便なんだけども。

■中川・麗子・本田
さん行方不明の報に、全く動じないでむしろお祝いを開こうとする部長も部長だが(p180-4)、さらに心配する本田に、中川と麗子は生活はできているはずだと推測しているのも(p181-4)、部長ほどではないにせよわかってらっしゃる。部長 > 中川・麗子 > 本田 の構成。


●その他ノート:
談であるが、私は『奇面組』の大ファンだったので、この巻末コメントが新沢基栄氏であり、かつ「もうダメ! もう思い残すことはない! あっぱれ!!」というコメントがいかにも新沢テイストで、うれしい。


箴言
「外車ディーラーからはローンということばはでなかった 外車を買う人種にはローンなどタブーなのだろうか」(p28)

「ちょっと! ひと箱250円だよ! 全部で750円!」「昔は100円だったじゃないか!」
「それは5年前の話だろ! 両さん」「その100円は5年前に作られた物だから当時の値段で買えるはずだ」
(p55)
 こういうのは「値切る」とは言わない。

「会社に勤めてコツコツ働くより一攫千金の芸能界に入って男の子に騒がれミニスカートで人前で歌うなんて地味で清純な女の子じゃないとできない仕事だ!」 (p84)
 普遍の箴言である。

「おまけにエンジンは2400シーシーにボアアップしてるし」 (p145)
 このコマの何がおもしろいかはめいめいで考えてくれたまえ。

「ばか者! わけてもらったんじゃないか合法的に!」 (p146)

ガンマひとこけ10万円4回半こければ新車が買えてしまうのだよ 警視庁 (p190)



37巻

■中川
巻一話め、[ニュー中川!]で、「デビュー以来ずっと同じ服装でしたからね 7年もたつと流行も変わってきますよ/そこで現代風にマイナーチェンジしたんですよ」(p10-4)と、イメージチェンジが図られている。髪型も長髪ではない。
 このイメージチェンジは次巻で元に戻される。次巻参照。

[ ュー中川!]でも、マジボケが光る。

「中川! わしのは!? わしにもくれ!」「え?」
「もちろん!ですよ まかせてください ピッタリなのがあります」「へへへやった!」
「ケンタッキー火打石式ピストルです」
「こんなもので銃撃戦ができるか」「先輩は渋めが好きだといってたから」
「わしは古美術商じゃねえぞ もっと最新式のやつをよこせ!」「はいはいそれじゃリボルバーの中から
明治二十六年に作られた二十六年式回転式弾装拳銃はどうでしょう」
 (p13-1)

このノリは、『Mr.Clice(ミスター・クリス)』に変奏されている。

「こっちもそれなりの銃を用意してあるんだろうな」「もちろん」
「おまえの国の三八式歩兵銃を用意した」「こら!!」
「いまのはギャグだ わしのコレクションをみせたかったのでな」「硫黄島を攻めにいくんじゃないんだぞ!」
アメリカ製ファルコンⅡパチンコ! 玉100発つき」「そういうつまらんギャグばかりしてると日本へかえるぞおれは!」
(『Mr.Clice』1巻(1989。初出1985)、p25)
■部長
巻も、「子どもと変わらんからな 4歳児と同様だ」(p29-6)、「ところで両津はどうした…死んだか?」(p107-5)など随所にセリフが光るが、両さんとのからみでいうなら[結婚の条件]を挙げておこう。
 麗子が断りたい見合いを両さんに女装させ破談に持ち込もうとするこの話、とうぜん断ろうとする両さんに金を見せ、両さんの態度がコロッと変わるのはお約束だが、500円札というところが泣かせる。
 耳の穴に隠した宝石を見つけるのも、知り尽くしている所業でありましょう。

さんが高尾山の松茸騒動を治めに派遣される[秋深し…]、両さんはヘリから落とされてそのあと忘れ去られるが、それが報道されたテレビを見た部長、

「そうか 両津のやつ 番人として山においてきたんだ!」(p169-3)

そんなこともあったなあ、という感じの反応。というか、このあいまいなテレビ報道から一発でそれが両さんであると見抜くのもどうかと思う。
 さらに言えば、その両さんを捜しにいって両さん発見、そのときの部長のセリフ、

「おっ両津いたか! 心配してたぞ」(p170-4)

いや、心配してなかったと思う。
両さん
もちゃ会社の社長の製品を売り込みに回る両さん([転職!?])。
 『派出所』(とくに中期)は、下町の中小企業への優しい眼を持っている。

●その他ノート:
30万のラジコンヘリが打ち落とされて、部長から代わりにプレゼントされたおもちゃのヘリに両さん
「これではまるでビックワンガムのおまけだ!」(p23-5)
ビッグワンガムってまだあるんですかね?

今の医療不信を先取りしたのが[人間顔じゃない]。
「50c.c.のバイク買えちまう値段じゃねえか! こんな薬のどこが15万もするんだ」ポリボリ
「保険がききますので……38円でいいです」コト「極端すぎるぞおい!」(汗)
(p31-2)
顔を一切見せずにあくまで冷静な受付嬢。この3コマめが秀抜。
 ちなみにこの病院の外貌は異様なまでの折衷建築であるのだが、なかでも「THE BYOIN」(p29-7)というおバカな電飾が異彩を放つ。だがそれだけに終わらない。両さんが行って「車からアキカンをすてる、電車内でタバコを吸うなど極悪非道な」「最強悪犯人、前科85犯」、「悪山殺五郎」(p37-5)と間違われる銭湯・山歯湯の看板は、「THE SENTO」(p38-3)なのであった。

同じく[人間顔じゃない]、p32-5~33-1まで、三コマも用いて御都合主義を自己ツッコミする過剰さがよい。「本物の交番勤務とは全然ちがうじゃねえか 話にあわせて労働時間が異なるな!」


箴言
「一億兆円現金で持ってこないと泣くぞ!…と叫んでまして」「うーむまるでタラちゃんだな」 (p17)
 ところで、このタラちゃんはアニメ版。長谷川町子版のタラちゃんは、もっと傍目からシニカルさを醸し出しており、アニメ版のようなキャラづけはありえない。というか、まんが版とアニメ版の決定的な違いは、アニメ版タラちゃんはその感情や行動に同化することは容易だが、まんが版タラちゃんは大人の読者たるわたくしたちにとって、徹底的にその心情が読めないところに存在意義が持たされている。アニメのタラちゃんは、決して原作のタラちゃんが体現している「おそるべき子どもたち」の代表ではない。

「たべ物の入口を調べるには出口を調べる! アインシュタインの左手の法則だよ」「はあ」(p30)

「これを徳川家康の"左手の法則"といい顔が右むけばちょんまげも右むくという理論です」
 左手の法則が本当に好きだな。

フェアレディZです」
「どういうデッサン力してるの? あんた」「狂ってますかね?
こっちがホンダのZです」
「ほとんど同じじゃないの?」「いやリヤウインドウの形が少しょうちがっていて……」「ここもだめなムードだな」
(p186)


38巻

■麗子の犬
出所で飼われているあの犬をさしおいて登場する、この室内犬([たまらんワン!])は、「動物ってのは自然に身を守るようにできてんだよ/それを女がバカみたいにあまやかすから野性味がなくなっちまうんだよ」(p14-1)という理念の表明のために召還されてきたものと思しい。そしてこの犬は、たくましく成長する。麗子はこの成長してしまった犬をどうするのだろうか…。

「エビ天?


べー
たい」
(p16-2)

 ところで、ジェスチャーをする犬、といって、わたくしにまず思い浮かぶのは、わたくしの世代の「ジャンプ文化受容」においては、まずまちがいなく『奇面組』のラッシーなのですが(たぶん)、今回調べてみると、意外な事実が。[たまらんワン!]は初出1983年51号なのですが、ラッシーのジェスチャーの一番おもしろい回と時期的にものすごく近接している。

「「一」!?/「道化」ね!
「のれん」!「ジュワッ」!?
「はくジョー」!?「で」!
「め」「死」
「モーロク」「ニッ」
「たべさせて」「クレーン」!?」
(『ハイスクール!奇面組』7巻(1984)、「お散歩ラッシー」p64)

「一堂家の連中は薄情でめしもろくに食べさせてくれん」であるが(このジェスチャーは、豪くんには180度級に誤解されるのだが、抱腹絶倒のその誤解は、読んでない方は読んでのお楽しみ。ちなみにわたくしは豪くんの誤解するセリフもそらで言えます。もっともジェスチャーの解釈の誤解は、すでに『三年』のスキー編などでも用いられてはいる)、この回の初出が1983年47号であった。
 そうか、この時期の『派出所』は、『奇面組』が乗りに乗ってるあの時ぐらいか。

■部長
事院でテキストにもなったとも噂される(?)、[両さんのジンジロゲ]。
 「なるほど歩合制だったのか……」「ふうやったやった!」(p34-1)と、完全に歩合制と理解してしまっている両さん、説得できたと信じてやまない部長、どっちの勘違いの可能性も危惧している客観的な立場の麗子と中川、の三者の絶妙。
 さらにいざボーナス期になっても、「本当はおまえのボーナスは八百四十万円」以下、【汗】もなにも付されず、完全に両さんを手玉にとっている部長。この冷静さがいい。
 こっからの3ページの部長、両さんとはあまりに対比的な、あまりに普通のテンションが、むちゃくちゃ笑える。そしてきわめつけは出ていった両さんと【汗】が付されていちおう心配はしている中川・麗子に対して、完全に背中を見せるのみで「かまわん放っておけ」の一コマ。たまらない。
■中川
巻でイメチェンした中川だったが、この巻では元の服装にいつのまにか戻っている([マイベストカー])。その理由は謎。カラーにあわせたのか。わたくしは、このアメリカンスタイルの中川はかっこいいと思っているので、もとの長髪にもどったのは残念だった。

●その他ノート:
ンタクロースに扮装した人たちが12月24日に一斉に集う「全国サンタクロース仮装大会」(([両さんのホワイトクリスマス])であるが、はたしていったい、何のためにこの大会が開かれていたのか、いまだに疑問である。
箴言
「同じころこのBMWも上半分ヤスリで粉にされて……」「う~~む ねちっこさ以外にねばり強さもかねそなえているな」(p56)
 この回ではじめてデボネアを知る人もきっと多い。いまでもたまに走っているようではあります。

「公務員のバイトは禁止されてるのでしょう!」「いや大丈夫です 私は警察官の特待生なので認められております!」(p89)

「となりの車に「止まれ」とおどされた時おすスイッチ」(p169)



39巻

両さん
さんたらい回し編」として、わたくしたちに特別な意味を持って記憶せられる一巻。その原因は「地下発掘事件」「船の大暴れ事件」「葛飾署爆発」(p120)。一話完結かと思っていたらつながってた。

菓子屋の店番を頼まれる[路地裏物語]、ブリキのおもちゃを探して回っている二人組に対し、「あいつらみたいのが下町のおもちゃ屋荒らすんだからな」(p33-6)と批判的。
 別の話では両さんも同様の行為をするし、そもそも下町おもちゃネタをやってもいるので、『派出所』自体が、「下町のおもちゃ屋荒らす」作品ととらえるような立場もあるかもしれない。ここでの両さんのセリフは、そういう見方をされることに対して、荒らす側ではなく、守る立場であることを示そうとするものかとも思える。まあ、 「おもちゃなんて直せば何年も使えるんだ」(p39)という一方で、プレミアのつくおもちゃやまんがは別ルートでかけひき上手に売り抜ける、という二面性を見せてもいるのだけれど。
 なお、この回は、立派な「子ども向け消費者教育」の役割を果たす回でもある。「ガキとはだまされるために存在するものだ」。ほんとに小中学生各氏はこの言葉を覚えておいたほうがよろしい。

ころで、35巻の「■両さん」の項でも触れたが、両さんの眼を描く下の線が、上向きの弧になっているのが、この回の最後のページなどにも特徴的な例としてわかる。
 で、目の描写についてもう少し言えば、上下二本の線で目の輪郭を描くだけでなく、右目のばあい一筆で「C」というかたちに輪郭を描き、黒丸で黒目を入れる、という目が頻出するようになる。くわえて、「 ∩ ∩ 」眼の両さんもかなり頻出(この回では例えばp21-6)。
 これだけでなく、ほおの部分に、上下3、4本の線(ドラえもんのひげの短いもののような)が付されてくるのも特徴だ。いささか丸っこい顔、かわいらしさが少し与えられた目やほお。30巻代後半は、絵柄の変化がわりと容易に看取される巻々であると思われる。
■部長
んといっても、富樫義博幽遊白書』(集英社)でも引用されたことでも有名(そうか?)な、この一言だろう。

「両津へのみやげはわしの笑顔で十分だ!」([桃太郎ポリス]p170)

悪気があったり冗談めいた口調ではない。彼は本気だ。
 放出した両さんにおそらくは心底嬉しく思っていながら、しかし気になってしまう。といって結局両さんとぶつかる。

「わしはひとりの人間としておまえに制裁を加える!」([銀座の春]p152)

でもなんだかんだで馬を逃がす主因であるにもかかわらず知らんぷりを決め込むあたり、なかなかの悪党だ。[3/3パーティ]で見せた立派な態度はどこ行ったのだという疑問をそこはかとなく抱かせながら、わたくしはこの二度にわたりごまかす部長がかなり気に入っていたりもする。
■寺井とインチキ不動産屋
ンチキ不動産屋の名前が「羽生」であると判明。
寺井家捜し編の二回目であり、パターン化の兆しを見せている。寺井は家捜しで疲れ果て、かつての肥満体ではなく、痩せ細ってしまっている([もしも我が家が…])。
 『派出所』を語るとき、彼をこの「羽生」という名前で呼ぶ本やサイトが多いが、わたくしとしてはどうしても「羽生」という名前より、「インチキ不動産屋」という呼称がなじむ。
■犬
つかしの犬が、p111で登場([魔の給料日])。これ以降の登場は確認されていない。

箴言
「まるで青島幸男のいじわる婆さんじゃないか」(p31)
 なつかしいなあ、火曜ドラマスペシャル。

「よしなかなか活気がでてきたぞ!/活気のある駄菓子屋ってのも珍しいな」(p32)
 一人でつっこんでるのがなぜかおかしいのだが…。

「開かぬならこのまま通ろう勝鬨橋 (p97)

「本人は本物の警官だといっていますが警視庁ではまったくみしらぬ男で「警官にあこがれた変質者でしょう」といっています」 (p101)
 警視庁のみごとな措置。

めいさいしょう
年金代1,500
サービス税2,500
テーブルチャージ5,000
ボトル代15,00
 (p110)
 ちなみに両さんが明細書を「めいさいしょう」と認識していることも知れる。「警察官」を「軽殺管」と書いていたよりはマシといえるが。
 なおこの「完璧なまでの偽装工作」(by両さん)が見破られたあと、必死に泣きつく両さんに、全く動揺せず淡々と金をとっていく三人の描写がすばらしい。

「なんたる自堕落な生活 非番の時こそ勉強せねばいかんぞ! ローマ字を習うとかかきとりをするとか!」 (p134)

「今日はなん年のなん月なん日だ」「昭和59年4月1日です」
「うーむそうか まだ昭和43年の夏だと思ってたが…」
 (p164)
 この人、さいはて署がつぶれたあと、まともに異動できたんだろうか…。


40巻

■部長
の巻で部長と両さんのやりとりといえば、部長の家で寝泊まりする[寄宿生活!?]でありましょう。
 部長の表情がいいのだ。

「だれか草むしりをしてくれるとよいのだがな こういう場合はすすんでやる人がいるはずだが約一名 たとえばタダメシをくったりしてる男が……」
「わかりましたよ!やりゃいいんでしょ!」「おやすまんね 自発的にやってくれるとは…」
(p107-4)

 部長の表情には、どうも両さんを相手に楽しんでいる心理ってのがどこかにじみでているように感じられるのです。
 また、別の観点から思うのは、ここから数年たったあとの両さんは、こういう目にあったとき、復讐をするんじゃないかな、ということである。でもここでは物語は淡々と過ぎていく。いや、もちろんこの時期でも、部長宅で復讐しようとする両さんがないわけではないのだけれど、この回の、イヤミをいわれながらも淡々と過ぎていく展開も、この時期の部長と両さんとの関係にあっては、べつだんムリのないものなのである。
 ところで、部長の奥さんは、一貫して両さんのよき理解者である(両さんを締め出す回もあるが、そのときは部長もいっしょにしめだしている)。

川との関係は、ごく初期を除いては、人情派の上司と有能な部下といったところだが、両さんを尾行する[ブラック・リスト]では、

「中川よろこべ浅いぞ!」(p131)

と、意外にムチャゆう部長が楽しい。中川のふりまわされっぷりが、いつも両さんにされている様子に、けっこう似る瞬間だからだ。

■石頭課長
度目の登場([オバサン族])。

「人が話してるのに聞かぬとはなんだ てめえ! ひと思いに楽にしてやるか!? おう!」「ひい! すすみません! ごめんなさい」
「なめやがって若造が! では話を元にもどそう
交通安全の基本その1 すぐカッとなる短気ではいけません」
(p13)

ベタな展開だとわかっていても笑ってしまうのは、後ろ姿と丁寧な言葉づかい。

●その他ノート:
山兄弟というネーミングのモデルが鳥山明の「アシスタントの松山くん」であることがわからなくては、少なくともこの時期の『ジャンプ』読みとはいいがたい。それはさておき、マニアなキャラのフィギィアが珍重される世界が当たり前になっていく現在だが、その紹介としてはさきがけに位置するのがこの回、[改造人形コンテスト]ではないか。
 「そんなもん日本中で50人くらいしかしらないよ!」「その50人がたのしめればいいんですよこういう物は…」(p54)という会話は、現代のわたくしたちの姿である(というともっともらしい)。ところでp51-1の大西巨人のプラモなんて誰が買うんだ。

 そういった意味でいえば、[アニメ戦国時代!?]に登場する、アニメファンも、まさに「オタク」に「オタク」という名の与えられる前夜を示している。
 とはいえこの回、ビルから出てくるアニメーターをあててしまう両さんが、アニメについてまったく無知というのはいささかムリがあるのではないか。

巻では、インチョキ堂の店主、東大卒の法条など、のちにもチョイ役として登場するキャラクターははじめて見える巻でもある。

箴言
「赤信号も一時停止もふみこえてただひたすら我が道をゆく! その名も高きオバサン族だ!」
「これか…現代の王蟲というのは……」
(p21)
真顔でボケないように。おもしろいじゃないですか。

「おまえに囲碁を教えてやる」「いや! あれは…マーブルチョコみたいでつい口の中に入れてしまうので……」(p39)
気持ちはとてもわかる。
 それにしても、まさか囲碁がこんなに―それもこともあろうに『ジャンプ』が発火点となって―子どもたちのなかでブームになろうとは、夢想だにできなかったろう。

「先輩は小学校卒でありながら巡査長という地位まで出世するという木下藤吉郎のような人間と……」「完全にバカにしてるな」(p103)

「すいません全日本アニメ同好会の者ですが!」「いた!あの人は演出の木沢さんだ あの人は原画の山沢さん! あの人は小川さん……」
「きみたち見学は中止してるんだって!」「機関紙「アニメ命」のインタビューを!」「あの人は山沢さんであの人は…」「日本のアニメ史は東映動画における…」
(p87)

「とぼけるなっ 八万円貸してくれとたのんだろ!」「とんでもない 猫のハチマンくんが子どもを産んだという話をしてたんです」(p125)

「そして「火よう日には戦車にひかれるので注意しろ」って!」(p161)




(2002/08/14。2021/09/22再録、一部割愛。)