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『僕ヤバ』が70万部売れているなら、三島芳治『児玉まりあ文学集成』は7億部売れてもおかしくない

 むろん『僕ヤバ』も素晴らしい作品です。

 

 三島芳治『児玉まりあ文学集成』(リイド社)を読んでひっくり返った。

 私はその存在をまったく知らなかったので(手塚治虫文化賞ノミネート作品になっていたらしい。すばらしい)、twitterでの評判はどうなのだろうと検索してみると、ハマった人たちの多くが「5話まで読んで」と勧めているのに接した。笑った。わかる。ものすごくわかる。ただ、5話はわかりやすく震えられる一節があるからそう述べているのだろうけれども、全ての回がこの頭でっかちになりそうになるところをさらりに抑制して仕上げる筆致でキュートに言葉と世界の成り立ちと破壊と再構成が描かれているわけで、その全てにこそ震えるのである。

 twitterでの言及との絡みでもう一つ言うと、お勧めする文言に「言葉遊びがおもしろい」とあるのをいくつか見たけれど、たしかにものすごーく遠くからながめれば究極的には遊びといえるかもしれないが、私の感覚でいえば、「言葉遊び」など全編のどこにもないのではないか、と思う。

 比喩の話は佐藤信夫『レトリック感覚』、アルファベットの話は鴻上尚史朝日のような夕日をつれて』、ぞいの話は、なんだっけな、『役割語の謎』とかでなくてもっと、もっと根源的なところで響き合う作品があったはずだが、赤塚不二夫だったかな、などといろいろ、頭のなかのさび付いた過去に読んだ作品群のネットワークが突然光り輝いて、もう一度読み返して『児玉まりあ文学集成』と自分の頭のなかでぶつかりあわせて楽しみたくなる。

 似た肌触りでやはり優れた水準の作品もいくつかあるし、自分のまんが読み体験のなかでも周期的に天才や傑作は表れてきたのだけれど、この作品が他を絶してよいその要素としては、世界が言葉でできていることとラブコメとを気負いなく両立させている点と、主役二人の世界が、孤立・屹立しすぎておらず、脇役たちの世界もそこそこ狂っていることと絶妙なバランスで描かれている点を挙げてよいように思う。

 

 そうだ。引用の織物であることも時折自覚的に強調している叙述もあって楽しいが(登場人物の名づけにもたぶん謂われがあるのだろうけれどちょっとわからない。赤や白をたくさん読んでいる人にはわかるのかも。私は主に緑と黄を読む人間だが、児玉まりあにはとりあえず緑を許可してくれてサンキューと言いたい)、妹登場(=妹創出)の回、おそらく『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』を想起させるような台詞があるが(5話はもちろん『ハルヒ』であることは私でも知っているが、この作品、ラノベリテラシーも必要なのか…?)、「えり」という妹の存在への疑義と写真でいえば、むしろこの回は、若木民喜神のみぞ知るセカイ』最終二話の数千年後の時を経て組み替えられた世界、換骨奪胎なのではないかとも、思ったのであった。

 

 それにしても『児玉まりあ文学集成』という表題がいい。

 笛木くんとそれを経由する読者にとって児玉まりあが示す世界の全てが「児玉まりあ文学集成」なのだけれど、視点をかえれば、児玉まりあの「文学」によって構築されていく笛木くんの存在こそ「児玉まりあ文学集成」そのものなのだ、といえるように思う。稀代の傑作だ。

いまのところ、レゴの話が最高に好きです(第十二話 マリアストラクチャー)。笛木君はちょいちょい「たらし」っぽい振る舞いをするのが面白いが、ここではそれが全開。「同意とみてよろしいですな?」って! そして、レゴの合体を狭い意味ではセックスの寓意と読むのは難しくないが、セックスとみても全人的なコミュニーケーションとみても、それは、時間を置けば、あるいは、端から見れば、滑稽だし「アホらしい」形状の営為にほかならない。だが当人たちの、その瞬間においては、奇跡的に成立する一回的でかけがえのない美しい営為なのであろう。

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