"Logue"Nation

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『GS美神』私注:「私を月まで連れてって!!」編 25巻(1~9)、26巻(「心の旅!!」)【再録】

01 26 1
「おはよう横島くん!」
 いうまでもなく『スパイ大作戦』の名セリフ、「おはようフェルプスくん」より。声は滝口順平

05 99 4
「人間から手に入れた技術も取り入れているようだ。」
 「魔族の中に我々の科学技術に興味を持ってるヤツがいてね。」(24巻p8-3)という茂流田のセリフが伏線。メドーサ(とその黒幕)が人造モンスターにこだわっているのはこれまで何度か語られてきており、それらはこのヒドラのため(少なくとも重要な目的の一つ)であったことが知れる。

08 151 3
「がんばって美神さん…!/あなただけが頼りなのよ…!」
 これまで、美神を初めとして、本人さえもそれほど真剣に捉えていなかった横島の潜在能力を、見つけ出しまた引き出してきたのが、この小竜姫にほかならなかった。その小竜姫がこのセリフを言う意味を考えると、横島を信じていないのではなくて、この状況では文字どおり横島のことを眼中には入れていなかった。それが、ほかならぬ横島の機転と活躍によって、結果的に地球が救われることになる。そういう段階を踏むためのこの小竜姫のコマと考えられましょう。

09 173 4
「俺はただ…守りたくて…」
 23巻p140-5参照。

10 9 4
「それでは家賃がいつまでもエンドレスじゃよ!?/これは陰謀じゃよ─!!」
 ながいけん神聖モテモテ王国』。こんなところでファーザーに出会えるとは。

10 13 2
「脳に異常はないから、元に戻る可能性はあるんだけど─」
 都合のいい記憶喪失も、少年まんがの王道。とくにここに関しては、もうオチが見えてる。そしていまオチが見えてると言ったことが、この回の内容をけなしているわけでもないこともまたいうまでもない。しかし、横島をシリアスなままではぜったい終わらせないな。

10 19 4
「私─横島さんは横島さんだから好きなんだもん…!/バカでもスケベでも─やっぱり元の横島さんの方が…」
 せっかく「恋人」になったのにそれより選ぶものがある。それはともかく次のページ、「はっ」じゃねー。と心の中でツッコんだ人は少なくない。


(2000/03/21、03/23改訂、03/24三訂。03/08/17新訂。20/11/20再録、語句修正

『GS美神』私注:「バッド・ガールズ!!」編(24巻、25巻)【再録】

あるいは、おキヌ登校編。おキヌたちがトーナメントものをやるよ、という一編である。

05 118 2
「いやそーじゃなくて、動きが…/ケガでもしたかな?」
 「気づく」横島。参照、[サバイバルの館!!]23巻p179-1。

07 155 1
「…ったく!!/幽霊だったときはスケベってなんだかよくわかんなかったけど…!/男の子って、みんなああなのかしら!?」
 生身になって、いいところも見えてくれば、見なくてもよかったことももちろん見えてくる。

 生き返ったおキヌが、いままで持ち得なかった<身体>を持ったことは前編に示されたところであった。幽霊の象徴=「実体としての足がない」ことが、「足をくじく」ことで否定されたわけである。そして、<身体>と<精神>とは単純に二項対立できるものではないという価値観に拠っていよう、<身体>の獲得は、<精神>にもそれ相応の変容を求める。
 おキヌはマスコットキャラではなくなる。端的にいえば、おキヌもトイレも行く。<男>にとって都合のいい、自分たちを侵さない、作品のなかの言葉でいうならば「アニマ」なキャラクターから、このあたりで脱皮していく可能性を見せているのである(もちろん、生き返ったあとのおキヌも一般的な見方からいえばついにマスコットキャラを脱し得ていないが)。このコマのセリフにおキヌによる横島の「スケベ」の「発見」を見たとしても、それによっておキヌが横島をキライになったとは誰も読まないだろう。二人の関係の新しいステージへと向かう可能性が、この二編([サバイバル~]、[バッド~])には配置されていよう。

 なお、この編の各回のトビラ絵は、ほとんどおキヌ(しかも「生きたおキヌ」)が飾っているわけだけれど、横島とおキヌのツーショット(!)がわざわざこの回のトビラであることは、単なるサービスじゃないのであって、必然性ははっきりとあるのだ。

07 166 5
こう見える。「ああっ!?ケーベツのまなざし!?やめて…!!許して─!!」
 おおざっぱに言えば、やましい心があるから「こう見える」。
 でも、おキヌの胸中(前のコマ)がある意味わかってても、横島はそっちの方向へはわざと解釈しないで、「こう見え」続けるようにふるまっていく(「のぞこうとした→彼女は怒っている」と思いこもうとしつづける)にちがいないのだ。
 「ここでおキヌちゃんにまで殴られたら生きる希望が─!!」(27巻p91-2)ということばもそうだけれど、横島にとっておキヌは、他の女性たちとは(美神とは違う意味で)特別である。


(2000/03/21。03/23改訂、01/11/21二訂。03/08/17新訂。20/11/19再録、語句修正)

『GS美神』私注:「サバイバルの館!!」編 23巻(1~4)、24巻(5、6)【再録】

あるいは、おキヌ横島接近編。おキヌ「再生」後の美神チームを描く一編である。
□キーワード:「足」をくじくおキヌ,庇護者としての横島,三位一体。

 

01 113 1
「1990年代。文明はあらゆる土地に広がっていた。」
 おキヌが復帰したこともあって、このまんががどういう物語なのかを、人物紹介をかねて改めて語り直す。長期連載では、こういう語り直しの回がたまにある。それは、新しい読者のための紹介という意味あいも大きいが、ここの場合、やはりおキヌが戻ってきたことと切り離すべきではないだろう。これまでのGS世界の復習に見えるけれども、

 かつてと違うこと=おキヌが「生きた人間」であること、

によって、これまでの物語世界とどう同じでどう違うか、さらにどういう方向性を持っていくのかが、さりげなく示されている点は注意される。

 

01 129 4 
「おそらく、ある程度ヒーリングもできるだろう。」

 さりげないようだが、やや唐突。

 

01 130 2
「我が社が世界にさきがけて開発した心霊兵器──」
 あらゆる作品で触れられる一大テーマ、「科学と倫理」(科学と自然の「折り合い」。または「分をわきまえず暴走する科学」)のバリエーションである。
 参考、「朝は寝床でカタルシス。/必ず公害のせいで妖怪が住みにくくなったので、社会派妖怪がまあ現れてみた。」(ながいけん神聖モテモテ王国』5巻、小学館、1999(初出1998))

 

02 134 2
「なん発も使えないんでしょ!?」「あ…あと2コくらい…かな?」
 「文珠」は(いちおう)なんでもできるアイテムだからこそ、個数の制限がネックとして語られなければならない。『ドラゴンボール』の仙豆みたいなものだ。

 

02 136 2
「あの三人──ひとりひとりの霊的戦闘力が高すぎる。」
 ここに限らず、横島の評価はつねに他人から正しく評価される。

 

02 137 4
「こーなったらペシャンコにされる前に一発──」
 伝統儀式みたいなもの。

 

02 140 5
「美神さんのことはともかくおキヌちゃんだけは俺が守らねば…!!」
 [スタンド・バイ・ミー!!]の「おキヌちゃんは俺が──!!」(p89-3)というセリフを踏まえて読んでいい。「──」の部分がはっきりとここで示されたわけです。
 [スリーピング・ビューティー!!]までは、そもそもが幽霊だったのだから、「死=別れ(死別)」というふつうの構図のなかにおキヌはおかれていなかった。あるいは、ともかく死にようがなかったわけで、横島たちはおキヌとの別れを考えようもなかった。それが[スリビュ]では、「再生=別れ」という特異な形で、いったんおキヌと横島たちとは別れを告げることになるわけだが、それはさておき、再登場後は、おキヌも生身なのだから「死=別れ(死別)」の構図のなかに置かれることになる。読者にも頭を切り替えるよう、改めて強調されている。
 おキヌ自身の自覚としても、その次ページに「私…二人の足でまといにはならないって決めたのに…」「幽霊じゃない私はお荷物ですよね──」とある。ということは、横島のGSとしての成長といっしょに、おキヌのGSとしての成長もこれからの物語の一つのテーマになるだろうことが予感される。しかしながらそれは次編[バッド・ガールズ!!]ぐらいにとどまってあまり発展せず、以降の物語では、おキヌの成長を強調して物語の時間を進めることは、ある意味放棄されている。それは、おキヌを成長させてしまうことが三者の関係をよりのっぴきならないものにしてしまうからでありましょう。

 さて、横島にとっては、「美神=守ってもらう(すがる)対象」だが(とはいえ、いざというときは「戦友」「パートナー」だけれど。また、あくまで横島がそう思っているだけであって、じっさいは美神もまた、横島に守られている。文珠の「護」=護る、が象徴的)、「おキヌ=守る対象」になったことになる。逆に言えば、【誰かを守れる力をいざというとき持つ者】として、横島が語られる。次項で詳述。

 

02 143 1
じ~ん
 この「じ~ん」は、横島の微妙な照れまでをわかっていて、だからこそそこに優しさを感じ、感動しているもの。
 それにしても横島はかっこよすぎないか、とさえ思わせます。【ふだんはおちゃらけているけどもいざとなるとあんがい頼りになる男の子】、または【危機にこそ人の本質が見える】という少年まんがの一つのキャラパターンを着実に踏んでいるわけである。もっとも、予想どおりギャグに回収されるわけだけども。
 ただ、今言ったような「人の本質」として一方では読んでいいのだけど、もう一方で、おキヌの不在中におキヌの知らない横島の成長があったのであって、横島の「成長」という面からこの場面を読んでもいい。

 また、実はこちらの方をここでは強調しておきたいのだが、思い返せば、そもそも「足をくじく」こと自体が、おキヌが生身であることをまず読者に象徴的に訴えていたはずなのだ。なんとなれば、一般に幽霊には足がないからだ。もちろん、幽霊おキヌの足は描かれてはいたけれど、それが実体的なものであったとはいいがたい。

 これまでのおキヌの横島への好意は、大体は横島の庇護者としての眼からのものだった。それがここでは、おキヌは生身であるがゆえにケガをし、横島の介抱を受ける。つまり、見守る視線が「横島←おキヌ」だったのが「横島→おキヌ」となったのである。見守る視線が逆転しうるということ。そしておおげさに言えば、ここでのおキヌは、横島のやさしさをこれまでとは全く違う角度から新発見した。幽霊をやっているときからおキヌが横島に好意を抱き続けていることはいうまでもないけれど、その内実において一大転換をここで迎えたことには、最大限注意してよいのだ。この「じ~ん」はそういう「じ~ん」なのではないでしょうか。
 とはいえ、「横島→おキヌ」の視線もまたしっかり残っている。その究極が27巻p91-3です。さりげないけれど、「横島にとっておキヌとはどういう存在なのか」を究極に映し出す一コマ。

 

02 143 2
「…大好き!」
 世が世ならこれは告白である。面と向かっては言えない、でも口から出てしまう瞬発的な想いが、目を【斜線】隠すことで逆に心の内面を示す手法で描き出される。ちなみに口元も微妙にいいのだが、もうひとつ、「コツン」という書き文字がこのコマの隠れたアクセントであろう。p73-4の「しかも今は生身っ!!」というセリフはあの文脈ではギャグだったけれども、この「コツン」で瞬間的に「生身」であることを今度は横島にとつぜんに(感情に意識が追いつかないくらいとつぜんに)実感させる。
 以上、「生身」にこだわってきた。その視点からいうと、次編のおキヌのセリフ「…ったく!!/幽霊だったときはスケベってなんだかよくわかんなかったけど…!/男の子って、みんなああなのかしら!?」(24巻p154-1)も、実は見逃せない。

 

02 143 3
「お…おいしい…!!これはおいしい…!!」
 そういうキャラであり続けなければいけない。「はーん」はいうまでもなく久米田康治より。

 

02 144 2
「「こーなったらもー」!?「で」「いこう」!?」
 例えば他の女性キャラにとつぜん抱きついてはりとばされるような怒られ方とは、一ひねりも二ひねりもちがう。
 「えっ!?私が3号なんですか?」(29巻p17)と同軌だと思う。

 

02 146 2
「一階から順に上がってきてくれたまえ。」
 非常によくあるパターンで、少し思い浮かべるだけでもこれを取り入れているまんがや映画は膨大である。ムラサキ曹長はいかにも鳥山明らしいナイスなキャラでした。
 ゲームだって、「スパルタンX」(任天堂)とか「ドンキーコング」とか、初期からしてそうだった。
 参考、「なるほど 立場は逆になるが「死亡遊戯」のパターンだな」(新沢基栄『ハイスクール!!奇面組』9巻(集英社、1985(初出1984))p28)。

 

02 147 3
「この方がてっとり早いわよね」
 上述のパターンを覆すあたりがこのまんがの身上。

 

03 161 3
「効くかどーかわからんが…」
 もともと横島がやろうとしていたことは、冷静に考えるとかなり人倫にもとることなので、こういうエクスキューズがあると思われる。

 

04 178 1
「やっておしまい!!」
 このセリフを「タイムボカン」シリーズのドロンジョと切り離して考える70年代生まれはいないのではないかと思わせるほど、私たちの原風景となっていることば。わたくしを含めた多くの子どもたちに、悪役こそが主役なのだと、子どもなりに思わせる番組であった。

 

04 179 1
「!!」
 横島がGSとしての潜在能力を秘めていることは、「気」に気がつくか気がつかないかで示される。[カモナ・マイ・ヘルハウス!!]などでは気に気づく美神・唐巣神父・ピート・おキヌに対置されるかたちで横島は気づかない(p134-2~4)。気づく横島は、[誰がために鐘はなる!!](「今、結界に小さな穴ができませんでしたか?」10巻p153)が初発。29巻p126-3も参照のこと。

 

06 33 3
「横島さん神通棍を─!!/私の足に一本…!!」
 「その3」での横島の機転と優しさが、あそこではギャグに回収されたけれど、ここで「図らずも」功を奏すことになる。伏線の張り方としてうまいし、三者一体になって物事を解決するという『美神』世界の理想型が守られるべくしてきちんと守られる。
 また、あまり気の利いた言い方ではないが「情けは人のためならず」(本来の意味での。)的な倫理が、やっぱり抜きがたく『美神』の世界を覆っているわけだ。メインカルチャーサブカルチャーの圧倒的に該博な知識を武器にして、シリアス型の少年まんがの文法をいかにずらすかに心血を注ぐようにみえるこのまんがも、基本形はきわめて少年まんがの倫理をきちんと生きている。

 

06 38 2
「魔物は決して人間の天敵ってわけじゃないわ。/必要なら闘うけど─時には協力もするし人間と対等なのよ。一方的にもてあそんでいいはずがないわ。」
 わざわざ引くまでもないが、この編のテーマの一つ。


(2000/03/20。04/28三訂、01/11/21四訂。03/08/17新訂。20/11/18再録、語句修正。引用は椎名高志『GS美神 極楽大作戦』(小学館<少年サンデーコミックス>、1992-99)、文中で同作の画像の引用をする場合はkindle版による。)

『GS美神』私注:「スタンド・バイ・ミー!!」編(23巻(1~5))【再録】

あるいは、おキヌ「再生」編。
□キーワード:類同コマによるオーバーラップとその乗り越え,生/死,1巻・20巻との対応。

01 33 2
「きゃ…!!」ドンッ「のわっ…!?」/「大丈夫ですかっ!? おケガは…!?」「てーなっ!! どこ見て歩いて──」
 すでに別に指摘されているところだが*1、1巻第1話で横島に体当たりして出会うコマ、
「えいっ!!」ドンッ「大丈夫ですかっ!? おケガはっ!? 私ったらドジで…」(p12-3)
と対応している。

 

01 39 1
「おキヌちゃんはまだ幽体が肉体と完全に重なりきってないの!」
 容れ物が肉体で、本来そこに入っているのが「魂(幽体)」らしい。「霊」と言っているのは大体、成仏できなかった死霊を指すようで、場合によってそれ自体で意思を持ちうる。というように、いちおう考えられる。

 

03 74 4
「状況をわきまえてくださいっ!!」「おまえがゆうなーっ!!」
 さりげなく横島がおキヌをかばう。

 

04 82 5
「わっしょいわっしょい」
 警官たちが「わっしょいわっしょい」と車を持ち上げている、ってのは、たぶん『ルパン三世カリオストロの城』が元ネタ。

 

04 83 3
「あ…悪霊の数がまた増える…!! 文珠の結界ももう保たんぞ…!!」
 文珠は必ずしも完全ではなく、それよりも強い力を持つものにはかなわないことが提示される。

 

04 87 4
「守ってくれて嬉しかった…! でも…この霊たちの辛さがわかるから──/もう…」

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 絵の構図も、誰かのために犠牲になろうとするということも、[スリーピング・ビューティー!!]20巻p137-3、

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を重ねなければ(オーバーラップさせなければ)、このコマは読めない。逆に言えば、[スタンド・バイ・ミー!!]のこのコマは、かつての[スリビュ]のコマを重ねて読むことを読者に要求している。

 [スリビュ]をオーバーラップさせてしまうのは読者だけではない。ほかならぬ[スリビュ]のコマでおキヌに想われた、横島も重ねてしまう。
 次ページ「「もーダメだー」は私のセリフじゃないんですけど…」で、おキヌがギャグ顔になっているのに、横島はシリアスなまま、という珍しいズレ( 逆のズレ──おキヌシリアス、横島ギャグ、なら他にいくらでもありえそうだけど。 )が起きてしまっているところにきわめて示唆的だが、横島の真剣さは、おキヌを自己犠牲に至らしめてしまったという[スリビュ]の過去を再び繰り返してしまいそうな予感を、横島なりに覚えるから、であろう( なお、「もう」というセリフそのものについては、早苗に憑依して言うセリフ、「どっちみち私は300年も昔の娘です。本当なら二人に会えるはずなんかなかった。/だから──もういいんです。」(20巻p44-1)にも対応していると思われる)。

 横島は、そんなことはありえてはいけないという表情と口調で、「あんな霊らのために死ぬなんてバカ考えるな!!」(p88-2)と言う。いっけん、おキヌの「この霊たちの辛さがわかるから」とは美しい。だが、それゆえに自分の死を軽んずることは、生を軽んずることと等しいはずである。だから、死霊たちの気持ちがわかるといいながら、結論として「この霊たちの辛さがわかるから」もう死んでもいい、となってしまうのは、まちがった道筋に迷い込んでしまっているのである。だが、それを引き戻すのが横島の真剣さだった。

 かつておキヌを犠牲にさせてしまった(もっとも結果的には犠牲にはならなかったけれど)記憶を持つ横島。彼がおキヌを諭すとき、そこには生への執着(エゴ)が露呈した。それをおキヌがどう捉えたかはわからない。だが、その横島が霊団に巻き込まれたとき、おキヌは「その人は私の大事な──」(p89-3)と言いかけてしまう。これは、「大事な」人がいる=おキヌ自身の生への執着、も露呈してしまった瞬間だったのだ。
 そういう、生きていくためには目をそらしてはならないエゴを自らも抱えていることが示されてこそ、彼女は「死霊使い」として<生>と<死>を司ることができていくのではないか。

 表現としての【オーバーラップ】。物語は、コマの構図・背景・状況をわざと重ねることで、おキヌをかつてと同じところに据え、しかし今、それを乗り越えさせる。それは、20巻の長きにわたって幽霊であった彼女が、再び<生>を与えられ歩きはじめるための<儀式>であった、と言い換えてもいい。この瞬間が、彼女の<再生>の瞬間だった。ついにここでおキヌは真に「生きる」ことを獲得するのだ。

 これ以後のおキヌは、ほかの誰にも背負えない主題、<生>と<死>を、一面で司るようになる。その終着が、最終巻の「地上より永遠に!!」であり、それは最終話「ネバーセイ、ネバーアゲイン!!」での美神・横島の会話によって照らし返されてもいる。

 

05 99 2
「やだなあ、おキヌちゃんをのぞいたりはしませんよ!」
 横島からストップをかけてしまう…。三角関係が今後も成り立つための新しいバランス装置その1、といえましょう。

 

05 99 3
「ま…まーまー。」
 21巻p7-1、「いつもならおキヌちゃんが「まーまー」ってとめてくれるのに──!!」が、ここでようやく回収されることになる。

 

05 100 1
「時々、幽霊だった頃のクセが出て失敗もしますが、」
 その失敗はすでにゆうきまさみ『究極超人あ~る』で小夜子がやった(「こないだまでのクセが出ちゃうのよね。」(「小夜子がきたの巻」7巻、p143-144))。

 

05 109 4
「い…いや、俺は…! 話せばわかる…!!」
 伊藤博文

 

05 111 4
「横島さん……」むにゃ/「……!!」
 酔いつぶれて横島に背負われるおキヌ。
 ここには、おキヌの横島への恋情が初めて明確に描かれた「海よりの使者!!」オチのコマ、肩に乗っかるおキヌ(1巻142-3)が思い起こされる。……というのはやや深読みか。
 でも、幽霊から「生身」になったことで、おキヌの横島への好意はどう帰結するのかが物語一編の興味として提示されているのはまちがいない。

 

05 112 2
「………/ま、いいか」
 バランス装置その2。
 「大人」である美神は、三角関係に対してはこう言って自分から引いてしまう性格があるが、「ま、いーか。」なんて言ってるからのっぴきならなくなるのがアシュ編である(33巻125-3)。


(2000/03/16、01/04/01四訂。03/08/17新訂。20/11/16再録、語句修正。引用は椎名高志『GS美神 極楽大作戦』(小学館<少年サンデーコミックス>、1992-99)、文中で同作の画像の引用をする場合はkindle版による。)

*1:哀別句巣氏「限りない優しさへの軌跡」(『紙の砦!!』4、1999・12)。<体当たり>=おキヌ、<頭突き>=美神、の考察は卓見。

『GS美神』私注:「デッド・ゾーン!!」編 22巻(1~9)、23巻(10)【再録】

あるいは、美神横島前世編。アシュタロスが初めて姿を表し、話の縦糸の一端が明らかになる一編。

 

01 39 1
平安京…!?大昔の京都だわ!!」
 中央を北へ延びる大きい道は言わすとしれた朱雀大路。これを挟んで東側からの視点であるから(ちょっと五重塔からの視点にしては高すぎるが)、美神たちが落ちたのは東寺の五重塔である(大路を挟んで左右対称に、西側には西寺・五重塔があった。こちらは現存せず)。
 平安京最南端の東寺五重塔の上から、北へ平安京、更に北の山々を望む。

02 42 1
西暦904年(延喜4年)。
 醍醐天皇の治世。高校日本史を選択すれば習うはずの「延喜天暦の治」の「延喜」であり、この治世は「聖代」と讃えられるけれども、この「聖代」とは、同時代よりむしろ少しあと、藤原氏専制の陰に容易に登用されることのなくなった文人・下級官僚などから、「昔はよかった」的に後づけされた思想であるというのが通説。醍醐聖代はその暗部に、賢臣・菅原道真を左遷し、謫死させてしまったという影を背負っている。この後、都では菅原道真の怨霊に貴族たちが恐怖するようになってゆく。

02 42 2
「道真が死んだのち全国で天災やえき病があいつぎ、」
 菅原道真に関しての、讒言→配流→死→怨霊→都人の恐懼、については、『大鏡』などを参照。醍醐天皇皇子保明親王の早逝、またその子皇太孫慶頼王の早逝も、道真の怨霊と結びつけられて理解されたとみえ、道真はその死後相当経ってから、右大臣復位の手続きがとられた。

 なお、このコマの邸宅の絵は、藤原氏累代の邸宅、東三条殿が基となっているだろう。
 東三条殿は「寝殿造を考える最も重要な邸宅」。「東三条殿に西の対がないのは、『枕草子』でも知られる「千貫泉」が湧いていたからである。」(秋山虔・小町谷照彦編『源氏物語図典』東京:小学館、1997、24ページ)。なるほどたしかにこのコマを見ると、西の対がなく草木が植えてあるのがわかる。

02 45 5
「この当時呪術は国家が厳重に管理していて…」
 国家宗教としての仏教や陰陽道と、そうでない民間のものとの微妙な関係は、平安文学のなかでもしばしば出てくる。

02 50 2
「とが…なくて死す…と…」
 壁に高島が書いているように、「いろは」四十七文字を七文字ずつ改行すると、末尾の文字は「咎なくて死す」(罪もないのに死ぬ)となる。
 年末になるとおなじみの「忠臣蔵」は、歌舞伎や浄瑠璃ではもともと『仮名手本忠臣蔵』という題だけれど、この「仮名手本」とは、赤穂「四十七」士に平仮名のいろは「四十七」文字をかけたことに加えて、この「咎なくて死す」をウラに潜ませた題。

03 74 3
「肉体だけじゃ困るんだよなっ!? 愛だよ愛!! わかる!?」
 <少年まんが>の「倫理」。性描写のあるなしよりなにより、主人公格はまずこの「倫理」を踏み違えてはいけないらしい。

04 93 2
平安京は有史以来最も霊的に計算された魔都」
 東南西北にそれぞれ青龍・朱雀・白虎・玄武を象徴する地形を持つ土地をむりやり探して、そこに桓武天皇の794年に都市を建設した。それが平安京、現在の京都市
 とはいえ、それが実際の生活空間として活動し始めると、治世者たちの初めの意図から外れて、もともと湿地に近かった南西部はさびれて、一方で北東や北が栄えていくことになる(『池亭記』982?)。これを気の利いた言い方で言い換えれば、「人為的につくり出された都城が、ほんとうに生きものとして活動しはじめたことを物語っている。」(林屋辰三郎『京都』岩波新書、1962)ということになる。
 鬼門である北東(うしとら)には比叡山延暦寺を置き、都の守護としたこともよく知られる。

05 99 1
「紙の人形をうまく変幻させた式神
 六道家式神とはまたちがったものとして扱われている。また、当時の一般的な(?)「人形」の用いられ方とその意味は、27巻[私の人形は良い人形!!]p97-1での説明がちょうどいい。

05 108 4
「(安心してるとゆーかくつろいでるとゆーか…/相棒が多少たよりになってバカで元気であけすけで…それがどーしたっていうんだ?)」
 このメフィストの感慨は、じつは「あけすけ」という言葉がコードになって、「自分に正直であけすけで、その分誤解されたり傷ついたりしてて、/でも、そんな人だから、そばにいて安らげるっていうか……」([清く貧しく美しく!!]18巻p10)
という小鳩のセリフと対応するもの(安らぎ/安心)として、読むことができる。
 小鳩のセリフを美神は黙殺するけれど、美神は横島のそういう良さをごく自然に享受していることが、ここに導き出される。

05 118 3
「!?/よくわからんがメフィストの「気」が増えたのはこういうことか……!!」
 バックには、『伊勢物語』初段で引用されていることでご存じ、「陸奥のしのぶもぢ摺り誰ゆゑに乱れそめにし我ならなくに」(河原左大臣 古今集)、とある。
 しのぶ摺り云々の修辞を除けば、歌意は「誰のせいで乱れはじめてしまったのか。私のせいじゃないよ(あなたのせいだよ)。」となる。
 この「乱れ」は心の惑乱を指すが、道真は場の混乱に置き換えて詠んでいると思しい。すなわち、眼の前でドタバタしてるけど、これは私のせいでドタバタになってるんじゃないよ──と、道真は河原左大臣源融の歌を口ずさんでいるわけである。

06 124 3
「時間移動する気かッ!!」
 投扇という、扇を投げて標的を落とし、『源氏物語』五十四帖の名前がつけられたそれぞれの決まり手ごとの点数を競うという、風雅な遊びがある。
 ただし、このコマとは逆で、扇の要の方を先にして投げる。

07 133 1
「諸君に悪さをなした道真の怨霊は私の分身…神になる際、捨てた恨みつらみの怨念なのです!」
 そりゃ『ドラゴンボール』だ。

07 139 1
清水寺…!? 場所がズレてる!?」「大丈夫なの!? 場所がズレたってことは時間も─」
 場所と時間の両方を超えられるタイムマシンと、時間しか超えられないタイムマシンの二種類があって、そのズレが大冒険することになる理由となるのは藤子不二雄のび太の恐竜』。

08 149 1
「鉄塔と夕日」は、元ネタが指摘されているが、それはさておき、もう少し先へ進んだところで、あるイメージを孕みながら物語で大きな位置を占めることになる。

10 16 2
「後に、平安京安倍晴明という稀代の天才陰陽師が生まれる。」
 安倍晴明は大ブームを迎えているので特に語るに及ぶまい。京都御所の西、晴明を祀る晴明神社は、行ってみると実際はさしたる神社ではないけれども、屋根瓦まで五芒星がかたどられている。
 陰陽家安倍氏の末裔として、阿倍泰成の名が、のちにタマモ登場にまつわってみえる(36巻p78-5)。

10 19 3
「首を切られてから何にもおぼえてないんスよ…!!」
 このセリフは物語の展開上、横島の口から言わせて確認しておかなければならないところ。
 横島の不在とともに、わりとはっきりと美神の横島への想いが示唆される編だけれど、それを横島は知らないことが、ここで押さえられる。

10 22 1
ポロッ
「ど…どうしたんスか!? どしたんスかっ!?」「…?/あれ…どうしたんだろ。でも…
なんか…悪い気分じゃないのよね。」
 美神と横島の前世からの因縁が明らかにされ、美神がそれを知ることになり、しかし心情までは前世から受け継いでいるわけではない。けれども、どこか心の奥底で前世の記憶を抱えていることは仄めかされる。
 注意されるのは、おキヌの不在のあいだに、二人の因縁にまつわる話が展開されていること。横島が因縁を知る(前世の記憶を思い出す)のはもう少しあとだが、おキヌは知らない。横島と美神の、自分たち自身さえあずかり知らなかった因縁が強調されることで、三人のパワーバランスはこれまでとはややちがう段階へ進むことになる。そう思う私には、ここの左ページのおキヌの表情の向けられる先が、コミックスだけ見るかぎり、右ページの美神と横島に対してではないのか、と勘ぐって読みたくなるのである。


(2000/03/16、01/02/06五訂。03/08/17新訂。20/11/15再録、一部削除、語句訂正。引用は椎名高志『GS美神 極楽大作戦』(小学館<少年サンデーコミックス>、1992-99)、文中で同作の画像の引用をする場合はkindle版による。

『GS美神』私注:「今、そこにある危機」編(21巻、22巻)【再録】

椎名高志『GS(ゴーストスイーパー)美神 極楽大作戦!!』に注釈を付し、わたくしの読みを提示する試み。そこにいるあなたの<読み>とぶつかって、何かが生まれますように。

話-P-齣
01-09-4
「おケガはありませんか!?」
 わざと事故を起こして、美神たちと接触をはかるワルキューレ。 ワルキューレに付されている【鼻の上の斜線】と【汗】とは、この場合「焦り」を示す。どちらも「本人が意識して出すものではない(むしろ本人の意識としては出したくないもの)」という前提がある記号である、といえる。ここでのワルキューレはそこまで完全に「春桐」を演じていることになりましょう(美神と横島の視線のないところでも気を抜いていない→p12-3)。
 p13-3なども同様。こちらの【鼻の上の斜線】と【汗】とは「照れ」であるけれども。
 とはいえ、彼女が何かしらの意図があって近づいたことは、p8-2(片目隠し+陰+斜め構図)やp16-1(片目隠し+陰)で読者に示されている。


01-10-4
「春桐」
 「バルキリー」。Valkyrie。つまりは「ワルキューレ」。英語でのポールはフランス語ではピエール、という類。


01-16-4
「やがて燃えあがるオフィスラブ!!」
 オフィスラブといえば書類をバサバサ。というのが、なんか定番のイメージとしてあるらしい。参照、「父帰る!!」6巻p74。


01-18-2
「通信鬼!!」
 のち「続・仁義なき戦い!!」編でも登場。
 「冥界とのチャンネル」というが、『極楽』全編を通して、異界との「チャンネル」のルールはいまひとつ明らかではなかったりもする。


01-18-3
チェックメイトキング2、こちらホワイトロック」

 TVシリーズ『コンバット』。
 『こち亀』などにもこのフレーズは手を変え品を変え散見される。


02-29-5
「この場にいていいのは戦士のみ 失せろ民間人!」
 「今、そこにある危機!!」編のキーワード。横島成長譚、あるいは『極楽』のなかでも、一つのターニングポイントとなる言葉でありましょう。


02-30-1
「しかし…俺だって美神さんの──!!」
 横島の力は、美神と横島のこれまでの「歴史」において、きわめて微妙なかたちをとりながら発現してきた。結果的には美神が事件を解決しているので、いっけん横島が役に立っていないように見えるが、実は横島なしには解決しなかったというほどのはたらきを、何度も、意外にも(と横島自身思っているだろう)果たしてきている。そして、この「歴史」をいちばん見てきたのは誰かといえば、それはおキヌ以外にありえない。おキヌは、情けない・使えない横島像と、けれども危機において美神を支えてきた横島像の両面に対してのよき理解者として在ったのである。 だが、おキヌの退場のあと、入れ替わるように登場したワルキューレは、前者の横島像しか見ないのであって、横島は「問題外の実力」(p22-3)と一面的に裁断されてしまう。
 横島自身は「何の能もない助手+ギャグキャラ」という自己イメージを持ち、またそれを疑うこともほとんどないし、そのイメージを<他人>から与えられることに対しても、そのこと自体には反発したりしないだろう。けれども、美神との関わりが捨象されてしまうことに対してはどうか。何も知らない<他人>の一面的な視線によって、二人のこれまでの「歴史」の微妙な綾が捨て去られてしまうこと。このコマのセリフは、実力を過小評価されたことへの無意識のうちの反発とともに、これまでの美神との「歴史」が捨て去られてしまっていることへの反発もあるにちがいないのだ。

 かようにワルキューレ無理解過小評価を受けた横島に、物語はそれを乗り越える足がかりとして、直後に二つの補完材料を与える。一つは、横島を過大評価(じっさいは適正評価)していた存在・雪之丞の登場。そしてもう一つは、横島を理解する存在・おキヌが夢に現れること。

 図式的に捉えるならば、雪之丞は横島の実力(フィジカルな面)を補完し、おキヌは横島と美神とのつながり(メンタルな面)を補完する。これらに支えられながら、ワルキューレによって欠損された自己を回復するのが、この編全体の<構造>であろう。


02-30-2
「ぐ…ぐが…」

 「高いところから落ちると死ぬ」というリアリティは、この作品ではそれほどない。
 ギャグ/シリアス往還系(いま名づけた)のまんがでは、生き死に(例えば高いところから落ちるなど)をめぐるリアリティの問題を、ギャグ/シリアスの両極間のどこで線引きして置くかがけっこう重要であろう(これを“スペランカー的問題”と呼称したい)。
 『極楽』の場合は「このまんがで誰が死ぬんだ!?」(13巻p167-5)というセリフからもわかるように、よほどシリアスが極まらないかぎりは死なない。それはそれでいい。問題は、線引きがあいまいだと、ギャグ/シリアスの往還という形をとるおもしろさを、いたづらに壊してしまいかねない、というところにあるのである。区切りがあいまいだと、シリアス、ギャグ、どちらの魅力も半減させてしまう。
 『極楽』における、生き死に、リアリティ、ギャグ/シリアス、をめぐる問題は、いうまでもなくこの後のアシュタロス編に集中しますが、今は措く。でも先取りして少し言ってしまえば、アシュ編は、
1、ルシオラだけが死ななければならない理由が、希薄、恣意的。
2、ルシオラの死をギャグにできないことと物語がギャグを目指すこととの決定的齟齬。
という二点を指摘することができる。後述を参照されたい。


02-33-5
「雪之丞!?」
 たぶん雪之丞の眼は初登場時は鳥山明のパロディ。なお、かわいさ・幼さを主に示す【頬の下の斜線】が雪之丞に付けられてキャラとしての性格づけがやや変わる。


02-37-2
「生きてるってすばらしいです! どんなことでもきっとできるんですもの!」
 比喩的に言えば「横島を上から見下ろすおキヌちゃん」の最後。ここでの予言?を承ける23巻を待って、そのあとの二人の関係は「見下ろす」ものではなくなる。


02-37-3
「まだ行かないで──」
 これが単に「行かないで」ではなくて、「まだ…」なのは、横島じしんが「三人いっしょで安住」から脱して、自分と向き合って成長しはじめなければならないことを、一面でわかっているから。ループの時間が横島の中でついにリニアに動きだす。自覚的に。


02-38-4
「俺も…/一緒に行く!」
 横島の決意。ただ、「一緒に」というところからわかるように、雪之丞という<同伴者>に導かれるかたちをとっている。<同伴者>なしに、ほんとうに自ら決断しなければならない状況が描かれるのは、もう少し、あとのことである。


03-43-1
「悲惨!!時給255円!?」
 参考、「時給255円!! 横島の給料ははっきりいって労働基準法違反である!!/今の日本にこんな給料で働くバカがいるとは!!」(7巻p26-1。見るたびに無条件に笑える1コマ。)


04-66-5
歓喜
 当時の『少年サンデー』連載陣の文脈だと、『らんま1/2』の登場人物シャンプーの口ぐせ。
 そもそも、額や掛け軸に変な(おかしな)文字を書くことじたいが高橋留美子の発想で、そのあたりまでも射程に入れたパロディと読んでいい。


04-71-1
「そうでなきゃ横島クンまで私からいなくなるなんて──」
 「まで」:当たり前だが、こういうことばの端々にも、「三人で基本形」が当たり前、という意識が根強い。


07-120-4
 「考えてみりゃあの女はてめー独りで…てめー独りのためだけに十分生きてるぞ、おキヌちゃん!!」
 【同伴し語りかける幻】はまんがやアニメが獲得した一つのパターン。
 だいたいにおいてこの【幻】は助言者として機能するのだが、このコマでは【幻】に対してのツッコむ。パターンをしっかりとズラして裏切る、その落差がよろしい。


07-121-1
「絵」という絵本。


07-122-1
 「西条だろーが誰だろーが……!!」
 西条→遅れてきた面堂終太郎。


07-123-2
「大丈夫っスよ!/そんな顔しなくても…/(ちゃんと美神さんのところに──)」
 文珠の獲得。
 けれど、それは横島の成長によるだけでなく、美神をパートナーとして守る、という思いが最終的なきっかけとなっているのが、きっちり描かれていること、注意されよう。
 この点は、身を守る本能とおそらくは不可分に発生した、サイキック・ソーサーや栄光の手とは異なる点である、といえる。
 しかしながらそれを言うならば、横島の最後の飛躍的成長は、美神との関わりによるものではなく、ルシオラとの関わりが決定的要因になって出来した、という点にまで言及しなければならない。


08-145-3
「僕らの一族はキリスト教に駆逐されるまではヨーロッパでは神の地位にいたからね。」
 土俗で信仰されていた神が、ある有力集団に支配されていく過程でその統一勢力の神話では例えば悪魔として扱われていき、支配される根拠となるというような基本構図。日本でもその例は枚挙にいとまなく、例えば「土蜘蛛」など。
 参考、「時間性としてさかのぼっていくと、どっかにほんとうは接目があるはずなんですけど、接目が消されている」。「その収斂の仕方は、本来は天皇制に固有なものではないはずなのですけれども、それを固有なものであるようにしているのは、法国家あるいは法権力としての天皇制国家というものが、法の接目をうまく包括しているというところによるとおもいます。」(「宗教としての天皇制」『語りの海吉本隆明』中公文庫、1995)。つなぎ目をうまく隠蔽して自分たちのルーツの歴史・神話をでっちあげることができた集団だったからこそ、単に戦争に勝つだけではない、確固たる勢力を形作ることができ、今にその命脈を保つことすらできる。キリスト教もまた。


10-170-1
 「霊力を凝縮しキーワードで一定の特性を持たせて解凍する技…!」
 漢字であるから可能であるし、その中国渡来の漢字を、文字がなかった日本語に、「おおこれは便利」と音訓あれこれいじって組み入れちゃったところに生じたズレのおかしさと柔軟性が、この先にも文珠にまつわって用いられる。 もちろんこの手のちょっとした遊びをまんがですぐに楽しみたければ、まずは藤子不二雄を読めばいい。


10-191-3
「そいつは私のパートナーよ!断りもなしに殺させないわ!」
 「パートナー」も少年まんがの王道を行くキーワード。
 ただ、この人の場合、「断りもなしに」の方が問題かもしれません。


11-6-2
「どっちみちこれ以上…/私のことで誰かに何かしてもらうってのは気に入らないのよ!!」
 この人にぴったりのセリフで、こういうセリフがこのキャラクターの魅力ともいえるし、そしてしかしすぐ自ら捉え直すことになる(p10-6→p16-3→p17-1,4)流れのなかにあるわけでもある(「パートナーとしての存在に気づく」という美神側のテーマ)。
 ただし、このセリフが向けられた先は、ここでは横島のことを指すよりワルキューレのことを指す方に比重がかかっていると読むほうがおもしろい。21巻p151-6でも美神は横島よりワルキューレの方を先に想起していた。つまり美神は、横島を、現実的な戦いの参加者としては、頭数のうちに入れていないわけである。この前提があって、しかしその横島の気づかなかった力にこそ実は大きく助けられていく、という段階を踏んでこそ、美神の「横島=パートナー」認識は実感的なものとして立ち現れるはずだ。


11-13-4
 「美神さんを援護するっ!!/美神さんを援護!! たのむッ!!」カッ「フレー!!フレー!! ねーちゃーん!!」「応援じゃねー!! 援護だ!! 援護!!」「ああっせっかく出たのにっ!?」
 もちろん21巻p172で念を込めていない文珠を投げたのが伏線となっている。 また、文珠が「複数使う」ことができるものであることも提示されたことになる。
 「援」の文珠で出てきたシャドウは、過去の、そして今でももちろん消えたわけではない愛すべき横島であり、「護」の文珠は、引き出された潜在能力の喩と言い換えてもいい。情けなさと隠された潜在能力とが同居しているという横島の本質が、この「援護」のエピソードにはからずも表れていることになる。それは上述のように、横島の二つの側面そのものなのである。 それはそれとして、この場面、ギャクもシリアスもその転換もとてもいい(p15とかp17とか)。少年まんがはこうでなければ。


(2000/03/15。03/08/17新訂。2020/1108一部削除して再録。引用は椎名高志『GS美神 極楽大作戦』(小学館<少年サンデーコミックス>、1992-99)、文中で同作の画像の引用をする場合はkindle版による。

付記:22巻p33に「ギャグ/シリアス往還系(いま名づけた)のまんがでは、生き死に(例えば高いところから落ちるなど)をめぐるリアリティの問題を、ギャグ/シリアスの両極間のどこで線引きして置くかがけっこう重要であろう(これを“スペランカー的問題”と呼称したい)。」と注した「スペランカー的問題」だが、このあと、「リアリティライン」という言い方が広まり、定着した(タマフルの映画評で聴いたのが最初だが、それ以前にはこのような言い方はなかったように思う)。

横島、ルシオラ、「長いお別れ」 ―チャンドラー『長いお別れ』から、『GS美神』「エピローグ:長いお別れ」へ―

 チャンドラー『長いお別れ』(清水俊二訳)から一節を。

 「さよなら、マイオラノス君。友だちになれてうれしかったぜ──わずかのあいだだったがね。」

 「さよなら」

 彼は向こうをむき、部屋を横ぎって出ていった。……しかし、彼は戻ってこなかった。私が彼の姿を見たのはこのときが最後だった。

レイモンド・チャンドラー『長いお別れ』(清水俊二訳:ハヤカワ文庫、1976(初出1954))

   「魔族には生まれかわりは別れじゃないのよ」とルシオラは言う。そうなのかもしれない。しかし、親子としての転生・邂逅がのちにあったとしても、いや、親子として転生・邂逅することしかできないならばなおさら、二人の<恋>は、決定的な「長いお別れ」(THE LONG GOODBYE)にほかならないであろう。「長いお別れ」とは──じつに皮肉なことばを『GS美神』は<引用>したものだ。

 チャンドラー『長いお別れ』で、マーロウとマイオラノスは二度と逢うことはない。ときには、にがい、乾いた別れをしなければならないときもあって、マーロウはまさにそういう「お別れ」を選んだのだ。けれど、横島は?

 

 マイオラノスはその「長いお別れ」を、(マーロウがその言い方を素直に受け取ったかどうかはわからないが)、「宿命」と呼んだ。二人はにがく別れるしかなかった。

 一方、ルシオラの死も、「仕方なかった」(P32)と美神によって語られるように、「デッドゾーン!!」編での高島の言葉(22巻P177)にならうとすれば、「運命」と呼ぶことができる。少なくとも、美神はそれを「運命」としたのである。

 だが、横島はその「運命」にあらがおうとする。自分が死なせたという思いからの自責、それも、何よりも自分を本当に好きになってくれた初めての相手。「何かあるはずだ…!! 何かテが…!!」(P138)とあるように、どんな手段にすがっても、という思いであることが描かれる。ところが、いみじくも美神が思いついた、ルシオラを消滅させない唯一の手段──横島の子に転生させること──は、ルシオラとの<恋>を断念しなければならないことであった。「子」は、愛しあう相手がいないかぎり生まれないのだから(それは少年まんがでは絶対の【倫理】。意地悪いこといえば、愛してもいない相手に子を生ませてその子を恋愛の対象とすることだって、考えられないわけじゃないが──そんなこと少年誌ではできないだろう)、子への転生を認めることは<恋>をあきらめると同じことである。それは「恋は実らなかったけど」(P147)というルシオラのセリフで改めて確かめられていく。

 だから横島とルシオラは、マーロウが選び取ったような、<二度と逢うことない「お別れ」>になるわけではなさそうだけれども、マーロウとは違う意味で、にがい別れを告げなければならない。ルシオラが仮に転生しても、そこでは「横島とルシオラの<恋>」は転生しないのだから。<恋>の転生は、そのさらに先の時空を待たなければならない。

 

 「長いお別れ」とは、にがい、皮肉な題だ。

 

 ルシオラは「ありがとう。」といった。が、ふたたび『長いお別れ』の一節を思い起こせば、ほんとうは「さよなら」をいわなければならなかったのではないか。いや、ルシオラに背負わせてはいけない。横島は「さよなら」を言わなければならなかったのではないか。マーロウとマイオラノスのように。

 けれど横島は「さよなら」を言えなかった。それは「人の業」という言い回しで表されるようなことなのだろう。美神が思いついた唯一の手段は、遺伝子治療や臓器移植のような、倫理ぎりぎりの、まさに「神の領域」に人が口出しをすることにほかならないが、横島はそれをぎりぎりのところで受け入れざるをえなかったようだ。受け入れたことを物語ははっきり描いていないが、どう読んでも横島はその方法を受け入れたとしか読めない。そして、それもやはり「人の業」なのだ。

 

 とはいえ、では、物語としての『GS美神』が、愛する妻との間にかつて愛した女が娘として転生するような、そこからの物語を許容するかといえば、それは許さないだろう。事実、39巻の連載終了段階まででは許されていない。物語の世界観からいえば、しかたがない。

 それはそれとして、ぼくにいわせれば、その妻に選ばれ、子を産む役割を与えられる女性に、どうしようもない葛藤と、しかしそれを乗り越えられる寛容さと愛情となにものかが持ち合わされていなければ、この話は「ハッピーエンド」(P146)には決してならない。

 といって、しかしべつに美神だけがその資格を持っているというわけでもない。そこで「右手」を包み込む(P139)おキヌの描写

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が、象徴的なものとして注目されてくるだろう。「左手」ではない。ルシオラを包み込む横島の「右手」

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を包み込むのである。「とにかくここから上がりましょう…!?」(27巻P91)という稀代の名場面

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から感じ取られる、「横島にとっての「おキヌちゃん」とは何か」ということを思いあわせてもいい。おキヌは、「包み込める」のだ。

 一方で、P145のおキヌの表情

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からは、単なる「包み込む」だけのオールOKの単純なキャラではない、葛藤も抱えるであろう「人としての奥行き」をも感じさせる。だからこそ、いい。そもそもおキヌは、いろんなキャラたちが、そして何より物語が、美神─横島ラインをあたかも必然的な結論のように収束させてしまうなかで、さりげなく、それに回収されない可能性をみずから示している。ひとつは、「えっ!? 私が3号なんですか?」(29巻P17)であり、また、「横島さんフケツーッ!!」(38巻P130)もそうであろう。うまい言い方にならないが、おキヌは、美神─横島ラインよりさきに、自分─横島の結びつきを夢想、さらにいえば妄想している。そのへんのおキヌの機微を物語はよく描ききっていることを読みとっていい。P145の表情は、横島の子を産むことを(なかば無意識のうちに)夢想しているからこそ複雑な表情なのである。

 前世からの「運命」は、美神─横島ラインにとっては「切り札」であるし、それをルシオラも認めているようだけれども、なに、横島は、もうすでにルシオラの転生という、「「運命」へのあらがい」を示して歩き始めたじゃないか。おキヌ─横島ラインが「運命」に裏づけられていなくても、それがなんだっていうのだ。

 そう読んだところで、やはり『GS美神』では横島とルシオラの<恋>にはもう出会えない。先に言ったように、まず物語がそれを許さないのだろう。出会いたければ、またコミックスを読み返すしかないのだけれど、だが、せめてもの慰みをぼくたちは与えられてもいい。

 ここまで、いくつかの例外を除いて、「作家」「作者」または「椎名高志」という言葉では論じないようにしてきたが、ここであえていえば、まだ見ぬ新たな椎名作品に、せめて横島とルシオラの<恋>の転生をぼくたちがのぞむことは、許されるだろう。そこには横島のような人物、ルシオラのような人物がそのままにいる必要はない。ただ、あの<恋>が息づいていれば、それでいい。

 (2000/04/10、07/05改訂。2020/11/6再録、文体を一部訂した。引用は椎名高志『GS美神 極楽大作戦』(小学館<少年サンデーコミックス>、1992-99)、文中で同作の画像の引用をする場合はkindle版による。

 

後記:まんがの「読み」を、「作者の意図」に還元するのではない形で表すやり方はないかと考えて、遙か昔、ホームページ文化隆盛のころに、試みのつもりでwebサイトにアップしていたもの(若書きにもほどがある…)。これが、傍目には研究とも批評とも二次創作とも言い切れないテキストになった(当人としては研究のつもりである)。そののち、無料ホームページの時代が終わり、ブログ文化、さらにSNS全盛となって、プロバイダも撤退してしまってあれだけあった自作HPがことごとく消え、このテキストも自動的に消えてしまっていたが、最近読んだ、町田粥『マキとマミ』(KADOKAWAになぜか勝手に励まされて、ブログに移して再録できないかとあれこれ試みて、ようやく再録できた。このテキストに言及してくれるネット上の記述にごくたまに出会ったりすることもあり、愛着もあるのです。

 ここから膨大に書き連ねた偏執狂的な読みの記録、「『GS美神』私注」も、いま読み返してみたら、一周回って思っていた以上によく書けているように思えてきたので、無理のないペースでゆるゆると再録してみたい。

 それにしても、やっぱり『美神』はおもしろい。『椎名百貨店』もだ。『絶チル』も購入が途中で停まっていたけれど改めて読み進めようと思いはじめています。