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『神のみぞ知るセカイ』私注4:最終二話、地上の恋について

(以下、同作のネタバレが大いに含まれます。同作の通読後に御覧ください)

 

4.最終二話、地上の恋について

 若木民喜神のみぞ知るセカイ』最終二話(26巻)について、いくつかのコマを取り上げて読みを提示してみたい。

 

 

26-197-5

「桂木えり!?」

 「えり」という名につながる「エリー」というあだ名で呼び始めたのはちひろである(02-081-3)。エルシィは「大好き」な「この世界」(26-178-1)に、桂馬の許可をもっていることを決める。

 このあと、エルシィは「にーさまは、 ゲームを終わらせに行きました!!」(26-201-3)というが、物語上の明示はないながらエルシィは、その相手がちひろであることを知っている。エルシィは、桂馬とちひろに与えられた世界で生きることを決める、と読みたい。

 

26-206-1 

 「お前が好きだ。」

 「好き」という語をめぐるやりとりはすでに述べてきたが、改めて述べれば、このセリフは17-179-3での「桂木は…私のこと好き…?」という問いへの直接の答えとなっている。

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(16-159-6、16-166-1、17-179-3)

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24-107-1、26-206-1 )

 扉を少し開いて述べているのはもちろん寓意的な表現であろう。一度偽った本当の思いを打ち明ける。

 

26-217-3

「はい!!」ドサ 「お前から没収したゲーム機だ。返してやる!!」「おわ――」

 二階堂が桂馬にゲーム機を返す。「あ、いーかげん没収したPFP返せ!! 忘れていないぞ!!」(14-125-2)というやりとりの直接の回収であるが、第一話以来、ドクロウが依頼人にして仕掛け人として桂馬にタスクを課し、のみならず事態が深刻化して息抜きとしてのゲームすらできなくなっていたことを思えば、事態が終息したあとに二階堂がゲームを返すのはきわめて象徴的である。つまり、桂馬の桂馬なりの日常への復帰が、このコマによって示される。

 

26-227-1

f:id:rinraku:20210101190915j:plain(26-227-1)

 朝の桂馬の告白(扉を少し開ける)に、いったん驚いたあと「死ねば?」(かつて、告白されたあとにここまでのことを言ったヒロインがいただろうか…。だが、翻弄されつづけたちひろを思うならば、そこまでのことを言う資格はある)と述べてドアを閉めたちひろが、夕方に現れる。歩を進めるために時間が必要だったことが示されている。

 そして、欄干に右親指を乗せていること。最初のちひろ攻略は、あかね丸でなされた。また、女神編での歩美とちひろとの三角関係の展開で、メルクリウスが出現するに至る歩美の大立ち回りの場面は、ライトアップされたあかね丸でやはりなされた。このとき、ちひろは欄干の手前でそこに立ち入っていない。その後、歩美に助言するためにあかね丸に乗るが、女神を見ることができない自分の疎外と特別でないことを痛感する。

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(19-147-3,19-153-3)

  そうしたちひろが、あかね丸に乗るのではなく、境界としての欄干に手を触れつつも、その手前の地上の側で、告白してきた桂馬とのやりとりの続きを始めようとするのは、これが攻略としてのそれではないこと(むろんちひろには攻略の記憶はないけれども)を表すのみならず、ちひろと桂馬のこの恋が地上の恋であることを表すもの、と読み取りたい。

 それと、もう一つ読みのレイヤーを重ねよう。欄干に添えたのが右親指であることには、ちひろの作った歌(「初めて恋をした記憶」)をめぐるやりとりが呼び起こされてくるのではないか。

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(14-019-3,4/26-227-1)

この歌が、曲も詞もちひろの桂馬への思いをかたどるものであり、桂馬が好きだといい、だが結果的に失恋をかみしめることになり、一方で桂馬がちひろを翻弄したことを悔やみ涙することになるものとなってしまったことはすでにみた。この曲が形をなしていく途中の二つの場面、ちひろが桂馬を隣に楽器店で試し弾きしたときも(14-019-3,4)、桂馬の家で聞かせてみせたときも(16-158-1)、ちひろは右親指のダウンストロークで弦をかきならしている。もちろん、ステージで演奏したときに重要な役目を果たす二つのピックをめぐるやりとりも(ピックは爪の代用である)ここに重なり合わされる。ちひろは現れた。一度苦く終わったちひろの桂馬への恋の端緒の記憶が、ここに再び現前する。

(16-158-1は厳密には親指ダウンストロークといいきれない。さらにステージでピックで弾いたのは完成したバージョンのはずで、だとすると、曲冒頭の着想をコードだけ親指で鳴らして桂馬に聞かせた楽器店でのやりとり―実は自分が恋をしていたことに気づきその恋が形をなし始める本当の初めのころの記憶―をとくに呼び起こさせるものと読むのもよいかもしれない)

 

26-228-2

「…その箱、なに?」「なんでもいーだろ。」

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 この1コマはとても重要なコマに思われる。夕方の光景をバックに、二階堂から返されたゲームを桂馬が抱えているということは、ドクロウから桂馬が与えられた非日常が終わったことを表している。しかしそれだけでなく、この告白が、日常としてのゲームとともにあるということは、このあとのちひろと生きる桂馬の生活が、ゲームを遊ぶこととともにありつづけることを予感させるものでもある、といえないだろうか。

 ややもすると、この物語は、ゲームという「非日常」の「非-人間的」な世界になじんだ主人公が、他者とのやりとりのなかで人間的日常を回復する物語、として受け取られかねない構成をもっている。けれども、<他者との関わり>に踏み出すという桂馬の変容は、ゲームを捨てることでなされるような通俗的なそれとはデザインされていないのではないか。ゲームはゲームで手にしながら、それと同時に他者との関わりがなされていく、そういうこれからの生活が、この一コマに含意されていると読みたい。

 

26-229-1

「何も考えていない。/だから…ボクもどーなるかわからん!!」

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 人知を駆使し、因果を読み抜いて「攻略」という行動をしてきた桂馬が、ちひろとの関わりにおいて、それを捨てて、「ボクもどーなるかわからん!!」と表明する。「ボクも」とある。神から人の側に降りる瞬間を表すセリフ。

 「攻略」に翻弄されてきたちひろは、告白された朝から、それなりの受け止める時間と、このセリフによって、告白と向かい合うことができる。照れもあるが、その心理の動きが、二人の目が互いに逸らされるかたちで表現される。

 

26-230-3

「茶でも、飲みに行かん?」

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 他人と二人でお茶を飲む、ということをかつての桂馬がしえただろうか。桂馬が会食・共食をする場面は、攻略上の演技を除いては、家での食卓ぐらいしか描かれてきてない。店で(<家>の外で・社会で)、共にお茶をすることを持ちかけるちひろ。そしてそれは果たされるであろう。これまでの桂馬の対人のコミュニケーションのあり方に変容をもたらされたことが示されているセリフであるといえる。*1

 甲板でなく欄干の手前で、返されたゲームの箱を持ちながら、正面で向き合い、二人でお茶を飲みに行くことを予感させて(これを引きの絵で描く!)、桂馬の物語は閉じる。

 桂馬とちひろの物語の美しい総収。

 

26-236-1

「桂木さんも天理も…いえ…みんなが… 考え、悩み、まだ見ぬ道を歩んでいくのです。」

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  桂馬とちひろの物語が終わり、両者が退場したあとに天理とディアナの対話がある。そのあとに、エルシィが、第一話登場場面をなぞるように空を見上げて手をかざす。第1節でも述べたことは繰り返さないが、第一話と最終話との序跋の対応―構図の対応について私に解釈を付せば、ドクロウの命令の履行・従属(従属といっても暗いものではないが)を表すものから、まぶしい未来に目を向けるかのような所作へと、反復しつつ意味が更新される表現だと言えるだろう。

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(01-007-2/26-237-1)

そして、ここから先の物語はどういうふうにも変わっていくだろうことが示されている。そういった余地を残しながら物語は閉じる。

 その最後のページに付される「―神のみぞ知るセカイ・完―」というキャプション。ただ作品名を挙げたのではもちろん無く、この表題は、私たちに認識の更新を要求する。いうまでもなく、その表題の物語冒頭の意味(神=桂馬のみが知り得て、他の攻略されるヒロインたちはそれに気づかない世界)から、その示す内実が変容している(誰も知りえない(=「神のみぞ知る」)未来へと歩む物語へ)という仕掛けに気づくからであるが、その極から極へのどんでん返しだけでなく、展開とともに、「桂馬しか知り得ない」ことがどういう意味を持ってきたか、そこに意味の変化のグラデーションがあったことに思いを馳せてよい。

 こうしてこの物語は、未来への展望と世界の更新を示しながら閉じる。物語上、解決していない問題は、地獄世界に関しては多いように読み取られるが、地上の人の恋の話は、ここで終わるのであろう。

(了)

 

付記:ちひろと桂馬を軸において、読みを提示してきたが、考えを進めるにつれ、歩美をどう考えたらよいのか、振られるにしても歩美に救いはあるのか、という問題が想定外に頭をもたげてきた。実のところ、歩美は、陸上に秀でていることと、女神がいるということ以外には、構成上はかなりの部分でちひろと交換可能な存在である(他のヒロインはそうではない。)(ちなみに女神がいる点でちひろと位相差があるように思えるが、ちひろ自身も攻略によって変容がもたらされたのは事実であり、その位相差はそれほど大きくないとも解せる)。これは物語内の論理に基づく限り、結局は、桂馬が歩美ではなくちひろが好きだから、と理解するほかない。地上の恋の物語という大きなテーマに殉した側面もあるように思うが、振られる側の残酷はそれなりに描かれているといえる。それが十分に描かれたかは考える余地があるが、それも無い物ねだりであろう。

 

(2021/01/05。本テキストは研究です(営利目的でない)。引用は若木民喜神のみぞ知るセカイ』(小学館少年サンデーコミックス>、2008-14)、文中で必要上同作の画像の一部引用をする場合はkindle版による)。ここでの画像の他媒体への転載を禁じます

 

■私にギャルゲーのリテラシーが全くないこともあり、思わぬ読み落としや誤読もありそうだけれども、いったんここで終わりとしたい。なお、これは表現に基づいて読みを立ち上げる試みであり、「作者」の「意図」を読みに反映させることはできるかぎり排していることをお断りしておきたい。

参考:

『神のみぞ知るセカイ』私注1: 誰エンドになる物語か―ヒロインについて

『神のみぞ知るセカイ』私注2:女神編、恋の感情を操って現実世界を救うことの悲壮について

『神のみぞ知るセカイ』私注3:過去編、「現在」と「過去」の交錯と反復について

*1:共食をめぐる文学等メディアにおける表現については膨大な研究史や批評史があるが、ライトなところでは福田里香『ゴロツキはいつも食卓を襲う』(太田出版、2012)が簡便。なお、過去にゆうきまさみ『じゃじゃ馬グルーミンUP!』(小学館)の食事やお茶の場面について前身のサイトにまとめたことがあり、いずれここで再録したい(「『じゃじゃ馬グルーミン★UP!』、お茶の時間。―ゆうきまさみをお茶から読む。」2000)。