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『神のみぞ知るセカイ』私注1: 誰エンドになる物語か―ヒロインについて

 若木民喜神のみぞ知るセカイ』(小学館、2008~14)についての読解を提起したい。私はリアルタイムで追っていた読者ではなく、アニメも経由していないので、連載や放映と伴走した読者の熱狂とはまた違うのだろうとは初めに述べておきたい。

 

(以下、同作のネタバレが大いに含まれます。同作の通読後に御覧ください)

  1.  誰エンドになる物語か―ヒロインについて

 「ギャルゲー」を対象化して筋立て上の根幹とする本作について、最終的に「誰エンド」になるかは物語上の興味として読むときの推進力となっている。

 物語の始発当初は、誰エンドとするかは決められていなかったか、ある程度ゆるやかに定めていて展開に委ねる見通しだったか、ではなかったかと思う(作者はどうコメントしているかは未見。作者の意図にまつわるコメントはここでは棚上げしておく)。ただ、物語構成上あるいは物語展開上の必然性という観点からは、

ちひろ

・エルシィ

・天理

・歩美

の四人に絞られていくと考えられる*1

 エルシィは、物語を始める存在であり、構成上特権的な立場を持つ。ただ、何度か恋の対象になりそうな回はありながらも、恋人としてではない形で決着がつけられる。これは、エルシィが何を求めている存在なのか、ということを考えると、(やや強引ではあるが)収まるべきところに収まった終わり方であろう。エルシィが求めるようになっていくのはそこに「いる」ことの許容であった。「恋をする」という「する」で語られるカテゴリーでなく「いる」(である)で語られるカテゴリーである「家族」(妹)という存在に決着するのは最良の形である。恋のカテゴリーにおいてちひろはエルシィに優越するが、一方でエルシィはちひろに優越する絶対的な一点をもつ。

f:id:rinraku:20210102144034j:plain(26巻-182ページ-1コマめ)

 物語全編を通して、桂馬は対人の状況で笑うことはない。特に、女神編以降、桂馬の行動は孤独で辛く、悲壮感が漂うものとして描かれていく。その末に、ついにここで桂馬はエルシィを相手に笑みを浮かべる。そのことを思うとこの1コマの破壊力はとても大きい。エルシィは桂馬が全編で唯一笑みを見せる相手なのである。これはエルシィの存在の許容であるのと同時に、エルシィがもたらした「現実の生」を桂馬が受け入れたコマでもあると読める。ちひろとの恋は「ふつうの恋」なので、物語の後にちひろと別れることだって別に普通にありえてもよい(あまり考えない発想だと思うが、私はそういう終わり方だとも読める結末だと思っている)。エルシィはちひろとは別位相の、「いる」ことに関わる位置を得ることになる。

 ところで、エルシィは物語を始める存在と述べたが、それと同時に物語を閉じる存在でもある。物語全編は、桂馬とちひろで終わらず、天理を挟んで(後述)、エルシィで終わる。物語を始めた者が物語を収める、序跋の対応がここには指摘でき(01-007-2と26-237-1、エルシィはほうきを片手に手をかざす。そして手をかざす行為の意味が始めと終わりで変容する。ほうきは前者では空を向いていたのが、後者では地に足を付けている。反復と差異。)*2、その収まりは良い。

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 この物語は、エルシィがもたらした非日常(ただし桂馬は非日常と見られがちなゲームが日常であるという逆転にこの作品の面白さがあるのは言うまでもない)という触媒のなかで桂馬が変容・成長する物語なのであって、エルシィと桂馬の恋物語ではないのである。言ってみれば、エルシィは(帰らない)ドラえもんなのであって、ラムではない。

 

 歩美は、初回のヒロインで、かつ「歩く」という語を名前に持つ点で特権的な位置をもつが、これも後で述べるが、「秀でた能力を持たない普通の相手との恋」という大きなテーマの前に殉じることになる。ただ、歩美エンドに方向転換する弁も持たせられ続けてはいたように見受けられる。

 

 そして天理は、主人公が世界を「選択肢」=所与の人知により救おうとするのに対置される、(近鉄の駅名というモチーフを超えて)「天の理」という名前を持ち、主人公に気づきをもたらす存在としてやはり特権性を持つといえる。しかし、それは、恋の相手に選ばれるという形で果たされるのでなく、どうなるか知り得ない(=「神のみぞ知る」)生への歩み、というメッセージ性を担うかたちで終わる。物語全編が、桂馬とちひろで閉じられず、二人の退場の後に天理にページが割かれる(!)のは、特に過去編の展開が彼女無しに成立しえないという重さをもちながらも桂馬と結び付けられなかったことへの、贖罪のような数ページであったろうと見て取れないだろうか。

 

 さて、ちひろである。どこでちひろエンドが定まったかはわからないが、他のヒロインたちとは異なって、早い段階から、ちひろに関わる桂馬の内話が読者にわからないように表現されている点で、他のヒロインとは一線を画す存在であることは示されていた。 

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(04-040-2,04-041-5,16-169-5)

 

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(17-188-1,24-090-5)

基本的に桂馬の行動と心理に沿って展開する物語において、桂馬のちひろへの思念は折々「(…)」と表現されて読者に隠され、そこに含意があるものと示唆される。なお、歩美に関しても「(…)」が付される箇所があるが(09-073)、これはちひろに付されること(09-076)と照応する表現になっている点でやはりちひろに関する表現である。

 ここから考えれば、ちひろ攻略回以降において、構成上はちひろエンドしかありえない。文化祭でちひろとの関係がビターエンドとして終わり、違う物語へと展開する可能性もなくはなかったが、その後の過去編の展開にあっても、天理を語っているようでも、桂馬の言動はちひろの感情を左右させ傷つけたことを抱え続けるつらさが不即不離に語られ、ちひろエンドへのベクトルは持ちつづけていく(直接には「好き」という語をめぐる問題も推進力となっていく。「桂木は…私のこと好き…?」(17-179-3)→「(ボクはあの時…あんなこと言うつもりじゃなかったんだ………)」(19-220-2)→「……だよ…」(24-107-2)→「お前が好きだ。」(26-205-1)という「好き」という語の対応も桂馬とちひろのみである(こう考えると桂馬の真情からの告白の台詞は「好きだ。」以外にありえないのである)。ただし厳密には歩美も「好き」だと言われている。そして、「好き」について更に述べれば、エルシィは何と言っているかというと「私、この世界が……/大好きです!!」(26-178-1)と「いる」べき世界への愛を述べるのである。よくできている)。

 ただ、実のところ、物語の中でちひろが契機となって桂馬の認識が変容する箇所はそれほど多くない。そこに展開上の必然性がやや弱いように読み取る読者もいそうである。「こ、これは攻略じゃないぞ」(04-43。なお先に引用した24-090-5のコマは天理が対象なのではなくて、このちひろとのやりとりを反復している点でちひろに属する思念である)のあたりも、物語内に強い契機を持たないままちひろが特別な存在であることが示唆されているようでもある。何なら「理由がある→好きになる」というような、近代的な因果観に基づく恋愛観に対するアンチテーゼの意味合いも潜まされているようにも受け取られる(「気がついたらもう、/好きになってたのさ」17-177-2)。これは「出来事の発生→好きになる理由の出現→好きになる」という形の物語の型を好む向きの読者には、乗りにくい展開ではなかろうか。とはいえ、展開上の必然性がないわけではもちろんなく、「似たもの同士」(体育祭に顕著)であるだけでなく、「何かに秀でているわけではない人間が、理不尽な世界だが真剣に主人公として生きる(ことを説いた相手から、時を経て逆にそれを問い返されて新たな認識を得る)」という展開を持ち、私はそれで十分だと思うが、ちひろエンドが、先のような、構成やテーマ、理念ありきのものとも感じられかねないところが、脇を支えるサブヒロインたちが魅力的でかつ展開上の積み上げが豊かであるだけに、エンドとしては弱いという感想を抱かせることになっているとはいえそうである。

 だが、そうした桂馬との関係性に目を向けて批評的に述べてみても、やはり19巻p214,215の見開きの圧倒的な力に触れてしまえば、仮にビターエンドになったとしても(ならなかったが)、ちひろはヒロインとしての強度をしっかりもっており、ちひろエンドはおよそ必然的に提起されてきていると言うほかないだろう。

 ちなみに、エルシィは最終二話で「えり」という名を選んだが、「えり」という名につながる「エリー」というあだ名で呼び始めたのはちひろである。名づけとはその世界での誕生や存在を保証するものである。エルシィは「ゲームを終わらせに行きました!!」(26-201-3)というが、その相手がちひろであることを間違いなく直感しているはずである。エルシィは桂馬に妹になる許しを得、ちひろから与えられたあだ名に由来する名を名乗る。世界の平仄があうように物語は決着していく。

 

 やや前のめりになってしまったが、こうした全体像を提示したうえで、「女神編」の表現世界について、「過去編」の表現世界について、最終二話について、あと余裕があれば付編として栞と二階堂について、稿を改めて詳述したい。(続く)

 (2021/01/02。本テキストは研究です(営利目的でない)。引用は若木民喜神のみぞ知るセカイ』(小学館少年サンデーコミックス>、2008-14)、文中で必要上同作の画像の一部引用をする場合はkindle版による)。ここでの画像の他媒体への転載を禁じます

参考:

『神のみぞ知るセカイ』私注2:女神編、恋の感情を操って現実世界を救うことの悲壮について

『神のみぞ知るセカイ』私注3:過去編、「現在」と「過去」の交錯と反復について

『神のみぞ知るセカイ』私注4:最終二話、地上の恋について

*1:もちろん連載まんがにおいて構成上や展開上の必然性を超えて別の相手との結末になることもいくらでもある。例えば、古味直志ニセコイ』は展開上は小野寺エンド、筒井大志ぼくたちは勉強ができない』は構成上は古橋エンドとなるのが妥当だったと私には考えられる。だがそうではない結末になった。

*2:序跋の対応も十分にできずに終わる連載作品が大多数なのであって、序跋が対応して終わるというのは、成功した連載作品の特権であろう。