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『神のみぞ知るセカイ』私注3:過去編、「現在」と「過去」の交錯と反復について

(以下、同作のネタバレが大いに含まれます。同作の通読後に御覧ください)

3.過去編、「現在」と「過去」の交錯と反復について

 解決したように見えた女神編のあと、桂馬が理由がわからないままに過去に戻ることになる。理由と、すべきことがわかりはじめるにつれて、物語は再びヒリヒリするような悲壮感のなかで進んでいく*1。 

 この過去編は、展開は過去改変モノの亜種であるが(因果関係の「因」を変えるのではなく、「果」にあわせて「因」をつくる)、その理屈は私にはちょっとわからないところもあるので横に置いておき、ここでは、過去に行った桂馬の物語と、女神編以前の現在の物語とが、キャラクターたちの言動や表現において緊密に関わりながら物語が構築されていく様相に着目して、いくつかの場面をたどってみたい。 

 24-090-5

「あれは天理の攻略じゃない!! そんなんで好きになるか!!」「じゃ、じゃ――違います――」/「(…… ……)」

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 これは、天理に好意を持たれたことに気づいて揺らいでいるのではなく、攻略という意図的な営為を超えて(自分のコントロール外の要因で)他から好意を持たれる、という点が、かつてちひろになされたことと同じであることと重なることに思いが至って揺らいでいる、と読むべきところであろう。

ちひろについては、そもそも桂馬は、

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と、攻略というカテゴリーに置きたくない思いも示されていた。そしてそのあと、世界を救うために攻略の対象として考えなければならないことと、それと無関係に好意を持ち、また好意を持たれていたこととの間で迷い、結果的に傷つき、傷つけたのであった。その経緯が去来するので、

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という心境を見せることになる。そしてその直後に、幼いちひろに遭遇する。

 

24-107-1

「……だよ…」

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 文化祭で「桂木は…私のこと好き…?」(17-179-3)と問われたときの本当に答えたかった答えを、攻略しなければならないゆえに偽ったのだったが(「好きな訳、ないだろ。」17-180-1)、いまここでつぶやく。

 

24-108-5

「(にーさまはすごいなあ、なんでもわかってるんだ……)」

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 桂馬のことを無謬だと疑わないエルシィ。それだけに桂馬の苦衷と孤絶(「(もう…先に進むのはイヤだ……)」24-112)が際立つという作劇。

 

24-170-3

「ボクには他人の気持ちはわからない。/だから、お前の言うことは100%信じる!!」

 この天理に対するセリフは、女神編の歩美を相手につぶやくセリフを反復する。

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(24-170-3、17-128-1)

 だが、その後のセリフは、かつての「ゲームのやり方」(攻略)だけに依るというものでなく、天理の助けを借りるというものであった。ここに桂馬の変容が示される。これはこのあとの「ボクがただ生きていることが、どれだけの意志で支えられていたか…」(25-125-1)ともつながる。

 

25-105-4

「お兄ちゃんは本当の戦いを知らない。でもそれは幸せなこと……」

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前節でも述べたが、正しい戦後少年まんが。

 

26-130-1

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 5人の女神の宿主にすべきヒロインたちにテープを巻きに行ったあと、最後に、歩美にテープを巻く。その直後、かつらをとった桂馬は、ちひろと歩美の二人が並んでいるのを見る。2コマめ、桂馬から等距離にちひろと歩美が並んで描かれ、歩美の首にテープはあり、ちひろの首にテープはない。この二人のどちらに女神がいるのかをつきとめるために労力を費やしつらさと苦しさを抱えてきたのに、実はそれを用意したのは自分だった、自分でなければならなかった、そしてこの行為によって世界は救われるがあの苦しかった現在という過去が現実のものにならなければならなくなる、という皮肉な展開とそれへの去来する思いが、この2コマと、何か言いたげだが言わないで去る次の2コマで、余すこと無く表現される。

 

26-155-2

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 天理=ディアナが、戻ってきた桂馬を一番に掴んで助ける。その権利はある。

 

26-182-1

「まあ、勝手にしろ!」

 全編で唯一、演技やゲーム中でない状況で笑みをうかべる桂馬。演技としての「笑う」桂馬は、天理が指摘する形ですでに物語のなかで対象化されていた。その桂馬がついに「笑う」こと。その相手がエルシィであることは、エルシィの特権的な位置を示す(ちひろにすら物語内では笑みは向けていない。結末までそれを通すのは、ちひろを傷つけたからでもあるのだろう)。そして、エルシィによってもたらされたこの「現実」を、桂馬が最終的に受容することも意味するといえる。(第1節も参照)

 そしてこのページの3、4コマでついに、長く26巻分を規制してきた1巻第1話の<難題>(首に輪がかけられる)が解消される。

 

(続く)

 

 (2021/01/04。2022/01/02字句修正。本テキストは研究です(営利目的でない)。引用は若木民喜神のみぞ知るセカイ』(小学館少年サンデーコミックス>、2008-14)、文中で必要上同作の画像の一部引用をする場合はkindle版による)。ここでの画像の他媒体への転載を禁じます

参考:

『神のみぞ知るセカイ』私注1: 誰エンドになる物語か―ヒロインについて

『神のみぞ知るセカイ』私注2:女神編、恋の感情を操って現実世界を救うことの悲壮について

『神のみぞ知るセカイ』私注4:最終二話、地上の恋について

*1:同作をきちんと読む以前、たまたまアニメ一期のオープニングだけ目にしたことがあって、四つ打ちで始まりながらも最後にチェンバロやコーラスを混ぜて教会音楽調の悲壮感を持たせたような曲だったことに、このまんがはたしかコメディだったはずで(その時はそう認識していた)、ずいぶん大仰だ、ギャップをねらっているのかしら、と感じたことがあったが、むしろそうしたアニメオープニングのトーンにまんがが引きずられていったのか。あるいはコメディに見えてその骨格をつきつめればシリアスにならざるをえないことを見通した作曲だったのかもしれない。