劇場版『冴えない彼女の育てかたFine』(2019)の、一番のクライマックスの場面で流れる挿入歌「ULTIMATE♭」を起点に考えたことを記したい。(以下ネタバレあり)
テレビシリーズ『冴えない彼女の育てかた』3話の「M♭」、2期8話の「ETERNAL♭」、2期最終話の「GLISTENING♭」と、倫也と加藤との関係が進展する局面で、安野希世乃の歌う挿入歌が流れてきた。特に「GLISTENING♭」は「M♭」のメロディをゆったりしたテンポに変えて変奏させた曲で、桜の季節の坂道でのやりとりという場面の反復とあいまって、かつてと今との加藤の心境の変化、倫也との向き合い方の変容をよく表していた。
今回の劇場版の、クライマックスといえる場面で流れる挿入歌「ULTIMATE♭」は、もちろんこの流れの中にあるものである。栁舘周平作編曲のこの曲は、キスシーンにさしかかる場面に配されて、ここぞというタイミングの
この場面で間奏にさしかかる。この間奏のストリングスの旋律が、「M♭」「GLISTENING♭」(作曲は奥井康介)のサビのフレーズを3拍子に変奏したものであることにテレビシリーズから見てきた視聴者は気づくだろう。安野希世乃が歌っているからと言うだけではないかたちで、視聴者にこれまでの物語を呼び起こしてくる。
そのストリングスの横を走り抜けるようにピアノが脇を固めてこのフレーズが終わったあと、低音は1小節ずつ音を上げていって、倫也の緊張と昂揚を観る側に喚起させていく。ここには「坂道を一歩一歩登る足跡がいつか輝くなら」という「GLISTENING♭」の歌詞と響き合うような、坂を登ってゆくイメージが潜まされてもいようか。これを倫也だと見るなら、想像をたくましくさせて、16分音符のピアノを加藤の先行して走って坂を登るさまととって対比させてみるのも許されるかもしれない(下掲、左は加藤、右は倫也)。
(2期11話)
そして、「ねえ、企画書になかったよ」と歌われて間奏による高まりがいったん落ち着いたあと、さらに音楽は再び盛り上がっていき、「心の絶縁体/外すのにずいぶんかかったね」という作詞稲葉エミのパンチラインがサビとしてもたらされる(「絶縁体」という語の選択は、「ETERNAL♭」の「夢の置き場所のパスワード」「後悔の詰まったゴミ箱は…空にしておこう」にも通じる絶妙さがある。倫也は絶縁体を扱う類いのオタクでは無いと思うがまあよいのだ)。
この歌い上げられるサビの昂揚が、二人のやりとりの一番最良の瞬間に重ねられる。こちらが恥ずかしくなってしまう展開だけれども、それをしっかりアニメとして総合的に実現されていることは記録しておきたい。なお、安野のビブラート(「ヒロインがい「い」心の絶縁た「い」」の二回の「i」)で歌い上げられる部分が、「フラット」とされてきたはずの加藤の感情の高まりを脇からよく表現している。このことは後述する2期8話も同様で、その反復・発展的な表現だともいえる。
さらに、この稲葉エミの読み込み力と表現力によってなされる歌詞が、これまでの物語を呼び起こしながら新たな意味づけを施していることにも着目したい。歌詞にあっても、シリーズの集大成としてのこの場面を挿入歌というアプローチから支えることを成し遂げている。
一つには、歌詞に、おそらくはテレビシリーズのOP曲やED曲、挿入歌のタイトルが散りばめられているだろうということ。冒頭「君が足りなかった、36度5分」とは、挿入歌タイトル「365色パレット」からであろう。この数字遊びは、2期8話の「2:14」が2月14日を連想させるという趣向
(2期8話)
との響き合いと読むと面白い(ちなみに2期8話のこの直前、「私もしーらない。」の足をバタバタさせるところで思わず声が弾んでしまうという加藤の描写、
いままで英梨々と倫也、詩羽と倫也の関係に一歩引いてきた加藤が、すでに8話中盤から行動は浮き立っていたながらまだフラットを崩さなかったのに、ついにここに至って声にその浮き立ちが出てしまうという心理が、とても細やかな演技・演出・絵・動きによって表現されている。ここでの加藤の声の弾みのためにここに至るまでの全ての加藤のフラットなトーンがあったのではないかと言ってもよいぐらいだ。ちょうどここに「ETERNAL♭」(作曲は大畑拓哉)の、ついにビブラートを効かせて歌い上げられる箇所があわせられている。そして「おやすみ」からのED曲、そこで示されるキャストが二人だけで、
本当にこの二人の対話だけで一話が作られていたのだという衝撃と痛快さを覚えさせられる)。
また、作中省略されているが歌詞カードによると「風」・「星座」とあり、これはOP「ステラブリーズ」(星+風)からか。さらに2番Bメロ「妄想・幻想・執着」の「妄想」は、EDを歌う妄想キャリブレーションからだろう。1番の「雨・風・太陽・酸素」の「風」が(ステラ)「ブリーズ」であるとすれば、同じBメロに配置させてOP・EDの照応を示しているのかもしれない。
そして、サビでの「黒歴史も白昼夢も蒼かった日々の笑い話」。最後の「蒼かった日々」は「青春プロローグ」ともかかるかと思うけれど、「黒」「白」「蒼」の色の対比は1期ED「カラフル。」を想起させる。
こうしたこととともにもう一つ、これまでの物語の作中のキーフレーズをきちんと取り込んでいること。「もうなんだかなあ、だよね」は、加藤が倫也に巻き込まれていて発せられた最初の頃(2話ラストが典型的*1)と、そんな相手に恋愛感情をもってしまった自分にむけての発話とも受け取られる現在のそれとで意味や対象が変容しているはずで、そういう物語内の時間と人物を象徴するセリフの直後に、先に触れた間奏の「坂道を一歩一歩登る足跡がいつか輝くなら」を思わせるフレーズが変奏で配される。「タイミングだけ間違えている」と劇中加藤が言う、その場面の音と歌詞と演出のタイミングは完璧であるという妙を見て取っていい。
さらにいえば、間奏で呼び起こされる「M♭」の流れる3話は全編「企画書」の話であり、「GLISTENING♭」の2期最終話では、加藤の口から「企画書」の一節が言及されていた。何なら「ETERNAL♭」の2期8話も企画書の話だった*2。そういう物語内の時間を呼び起こすフレーズのあとに「ねえ企画書になかったよ」と、その企図を超える新しい時間を紡いでゆくことが提起される。これは加藤の心情を歌う歌であるが、大きく言えば『冴えカノ』は倫也の企図や型を超える物語であるともみなせるわけで*3、そのこともよく言い当てている。
そしてもう一つメタにレベルを上げれば、おそらくは加藤恵というラノベ・アニメヒロインは、当初の企画意図からどんどん逸脱していったはずで(ある意味で「冴えない彼女」というコンセプトが加藤恵の意図を超えた成長によって破綻していく様相を私たちは見せられているのかもしれない。作者側も御そうとしても御しきれないことに接して御しきれないままにその自律的成長に委ねたフシさえ看取される)、そこまで読み取れる歌詞だと考えても楽しい。
物語の大団円と達成が、挿入歌の側からも支えられるという幸福なあり方をここに私達は観ることができるはずである。
(2021/05/09。本テキストは研究にあたります。引用は丸戸史明・深崎暮人・KADOKAWA ファンタジア文庫・映画も冴えない製作委員会『冴えない彼女の育てかたFine』およびテレビシリーズにより、文中で必要上同作の画像の一部引用をする場合amazonプライム版、およびdアニメストア版による)。ここでの画像の他媒体への転載を禁じます))
(付記)「ULTIMATE♭」の音源は現在単体では購入できない。これはとても残念。
*1:2話といえば、2話と2期8話との対比もおもしろい。
と、
とのシンメトリー。斜め上から見下ろして腕を伸ばす構図は心理的関係の喩としてはたらくが、これが2話と2期8話では逆転して「倫也を圧倒する加藤」に転じるというおもしろさ。
*2:8話は7話後半を承けるが、7話最後が作品タイトル回収であるとともに、それが「冴えない彼女の育てかた」を「saenai_kanojono_sodatekata」とキーボードを打っているそのとおりの音でなされる気持ちよさも忘れがたい。
*3:これはこれで伝統的な物語の型のバリエーションではあり、「マイ・フェア・レディ」や『痴人の愛』などがすぐに思い当たるが、一方で、ギャルゲーや「育成」もの(?)の流れでも見ないとあまり生産性はないかもしれない。