"Logue"Nation

ローグネーション。言葉と図像を手がかりにまんがを「私」が「読む」自由研究サイト。自費持ち出しで非営利。引用画像の無断転載を禁じます。

ラブひな雑考

ジャンプ+やマガポケの類いをいくつかまとめて見ると、針に糸を通すようによくもまあこんな微細な違いを見つけてそれをテコにお話を立ち上げるなあ、と、驚きと呆れとが交錯する。もちろんその中にも珠はあるのだけど、いわゆるハーレムものを複数本読むと、「恋敵」が本当に要請されなくなってきたな、と思う。

 恋愛ものに実は恋敵は要らないのではないか。これを思い切ってまんがの世界で戦略とした人の一人はまちがいなく赤松健だと思うのだけど、このことについて日記風に書いたことがある。いま見直したら2002年だ…。ちょっと偏頗な見方なのは自覚しているけれども、時代の証言ではある。当時の自分のノリの今読み直すとキツい部分を一部削除して再録しておきたい。
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●ここんとこ、あれこれしんどいことが多くて、一時間ちょっとほど、まんが喫茶で息抜きをすることがたまにある。
●で、ここ数回、まんが喫茶で読みついでいるのは『ラブひな』だ。
●じつは、『ラブひな』をまともに(つまり、人物設定・世界設定を知ったうえで)読むのは、これがはじめてなのでした。
●もう少し付け加えておけば、いま書こうと思っている原稿に「萌え」についてのコメントを交えたいと思っておりまして、ゲームは一切やらないわたくしとしては、せめて「萌え」まんがのスタンダード(と見受けられる)『ラブひな』ぐらい、読んでおかねば、という動機が、あるにはある。
●分析的・構成的にいろいろ感じたことは、今ここでは簡単にはまとめられないが(でもその大体は、「C-WWW」の「What's new!」によりクリアな形でほとんど触れ尽くされているのをいま確認してしまいました)、そういう見方を排し、単純な展開の読み手として、とりわけとてもいいなあ、と思ったのは、
・瀬田と再会した成瀬川は面と向かえず逃げ出すが、走りながら瀬田のかっこよさを思い浮かべて顔がにやけてしまうところ
・最終回まぎわの山手線の用い方
の二点。
●にやけてしまうってのは、それは憧れ(や過去の恋)の対象ではあっても、現在形の恋愛対象として捉えていない、ってことを示している、っていう読みでいいですかね。でその一方に、それをわかることができず二人をくっつけようとする景太郎を置く、っていう妙。
●心理のくいちがいを読者にもたらす表現、ってのは、ついついこれまでのまんが史のなかでのパターンに頼ってしまいがちなのだけど、こういうのは、ぼくは初めて読んだのでした。
●山手線は、表現じたいがまずとてもよかった。それから、乗り過ごすっていう展開じたいは簡単に予想できるものだったんだけど、そのベタな展開をやり通したところが、『ラブひな』の結局はすごいところと言えるのではないでしょうか。
●山手線(ループ)ってのは二重、三重に、比喩的なものとしても機能してるのですけども。(02/08/27)
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●前回より続かせてみよう。『ラブひな』は、作者自身随所で述べているらしいが、とにかく計算され尽くされた作品である。いくつか関係する言説をネット上で拾ってみたが、作者じしん、それを明らかにするのを楽しんでいるフシさえある(開き直りもあるのだろうけれど)。
●何しろ自分と対置するのが「芸術家」肌のまんが家だ。いっそすがすがしいじゃないですか 。
●この開き直りがあるから、オレはこのまんがが読めるんだな、たぶん。打算しつくしているのだけど、それを明かすことに対しては打算がないのだ。(というと何かを言い得た気もするが、何も言ってない気もする。)それは作者の言説によるのではなく、すでに作品から感じ取っていたことだった。
●さて、計算され尽くされているだけに、このまんがには「萌え」のカタログ的な要素があります。昨日紹介したfukazawaさんに、「少年誌でのラブコメマンガのリファレンス的な作品」と言われているのは、とっても妥当な表現だと思う。
●で、ふとドキっとしたのは、この世界を読み進めていくと、いわゆる「萌え」的な把握ほどではないにせよ、自分の好みがどこにあるのか、自分がどういうシチュエーションをラブコメとして好むのかが、浮き彫りになってきてしまうことがわかった瞬間でありました。
●ちょっと高みに立った言い方をわざとしてますが、でもそう感じたのだから仕方がない。ではわたくしの好みとはどこにあったのか。
●「カタログ的要素」を持った作品はたぶんここ十年、とりわけゲームの世界でこれでもかこれでもかというぐらい出ているはずなのですが、たぶんおれはそれらの世界には入っていけないと思う(あくまで私の好みの問題)。『ラブひな』が予想に反してスッと私のなかに入ってきたのは、上述したとおり、ある種の放埓さによるところが大きいと思います。(02/08/28)
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●前回から続く。『ラブひな』を読むことで自己確認したのは、結局のところ、表層的ないわゆる「オタク」系ガジェットには、わたくしにとって、読むうえでグッとくる「記号」として全く機能しないな、ということでした。
●だからたぶんぼくは『ラブひな』の「正しい」読者じゃないのだろう。
●その一方で、どんなに伝統的パターンを踏んでるのがわかってても、主人公・ヒロイン・ヒロインと仲のいい恋のライバル(『ラブひな』の場合、{景太郎・成瀬川・むつみ}…と言うべきところだが実は{景太郎・成瀬川・素子}。)という状況のもとに「実行」される、一定の水準はクリアした「ラブ」と「コメ」が、そこにあるのなら、わりかしすんなり満足してしまうんだなあ、ということもわかった。イヤってほどわかった。ふだん小難しいことを言っているように受け取られがちであるが、じつのところわたくしはお手軽なのだということがわかった。
●やっぱり「正しい」読者なのかもしれません。
●ただ、『ラブひな』の場合、「伝統的パターン」の「踏」み方が問題なのであって、しかしわたくしがそれを受容したのは前回述べたとおりです。
●まんが自由研究サイトをやっているからには、この「カタログ」を、切り分けていきたい欲求にかられもしている。いや、キャラの要素(属性)を切り分けていく欲求はあんまりないのだけど(別に、ぴょんと立った「アンテナ」にも、「猫耳」コスプレにも、剣道にも、メイド服にも、それが何を狙ってるのは全然わからないのです)、ラブコメそのものの要素を切り分けていく欲求をいだかされたのでした。言い換えれば、「成瀬川」なり「素子」なりの、キャラに与えられている属性を分析するのではなく、「成瀬川―景太郎」なり「素子―景太郎」なりの、ラブコメのシチュエーションを分析したい、ってことになりますか。時間さえあればですが。(02/08/30)

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●「あんまりだああ」と泣きわめく素子の元ネタはエシディシでOK?
●と、検索とかするとうんざりするほどよく見かける「オタク」系日記のふりをしつつ(ホントはフォントを大きくしたりするともっとそれらしくなるけど)、心底今更極まりない『ラブひな』の話題は、今日でやめます。
●でも、いろんな意味で語り甲斐のある作品だ。「史」視点をもったまんが「研究」が世上に少なからず出回ってますが、昭和中期をこねこねやるより、よほど『ラブひな』を現代という「史」視点から切り取るほうが、個人的にはおもしろいと思うのです。
●さて、この世界には、景太郎とひなた荘の女の子たち以外の、彼ら彼女らを相対化する決定的な「他者」が登場しません。
●だいたい、景太郎の存在を根底から揺るがす<男>が登場しない。景太郎は決して相対化されないのです。成瀬川と景太郎の関係にあっては、まず瀬田がその役割を果たすはずなのですが、景太郎と瀬田は物語が進むにつれ一致していきます。いや、一致は相対化を呼び起こさないのかと言ったら、じつは一致が差異を引き起こして登場人物の関係を複雑に練り上げていくことを超絶的レベルで追及する物語はすでに1000年前から有り得るのですが、『ラブひな』では、一致と差異は決して登場人物を傷つけないんですな。
●東大に入る成瀬川は、とうぜん東大の<男>と接するはずなのに、モブキャラ以外の東大生はけっして登場しないし。
●で、このことは、普段のわたくしのまんがの読み方では間違いなく「欠陥」なのですが、すでに述べたように、この作品はそのあたり、確信犯でやっているところが作品内ならも作品外からも感じ取られるので、手を振り上げても振り上げた手のやり場に困ってしまうのです。
●前述の最終巻の山手線を回る場面、リアリティを持たせるなら乗客はたくさんいるはずなのに、乗客はまばらであり、途中からは全く描かれなくなり、最後には車掌からも起こされずに車庫へ行ってしまう、というのも、かなり象徴的だ。もっと言えば、この車掌が起こしにこないことを成瀬川がツッコんでることまで含めて、象徴的と言っていいはずです。ユートピアという「ウソ」を、「ホント」らしく飾ることなく、「ウソ」を「ウソ」と自覚してそれを隠さないのです。
●世に「ユートピア」まんが多しと言えども(ゆうきまさみももちろんその典型)、ここまで「他者」のいない世界を描くには躊躇してしまうはずなのだ。わたくしたちが「社会」に生きるかぎり「他者」との出会いによる相対化は避けられないことだからだ。けれど、徹底して「社会」や「他者」を描かないことを押し切って、そのことによるヒットを初めから狙い、なおかつ当たってしまうというのは、もうすでにわたくしたちの世界ってのは、どこか何か堰が切られてしまってるのかもしれません。
●もちろんこの反動はそのうちやってくるはずですけどね。つうか、ぼくの見立てでは(いや、もう誰か言ってるかなとも思うけど)、『ラブひな』は、「他者/自分(ATフィールド)」をめぐる小難しさがいきなり受けた『エヴァ』後に、その反動を見据えるという計算のもとに行われた可能性大です。だから『ラブひな』後とは、『エヴァ』的なものの反動の反動かもしれません。(02/08/31)

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後記、

最後、なんでも『エヴァ』につなげたがるのもこの当時ありがちな仕草だと赤面せざるをえない(今でもやっているけれど)。それはそれとして、「萌え」の対象を、静的な属性(記号)とするのではなく、より動的な状況(話型)とするものとして見るべきだという文中の主張は、当時もうすでになっていたのを私が見誤っていたのかもしれないし、この20年間でその事態が(こちらの予想を上回る展開で)どんどん先鋭化していったといえるかもしれない。