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映画『HUGっと!プリキュア ふたりはプリキュア オールスターズメモリーズ』の終盤の展開、または、続きものは2番めが大事

プリキュア15周年の映画、『HUGっと!プリキュア_ふたりはプリキュア オールスターズメモリーズ』(2018)について。(ネタバレあり)

 

 

 

 終盤近くの、キュアエールの所に皆で駆け寄る場面は、プリキュア15周年ということに関しての最大の見せ場であろう。ただ、これがメドレーになって続いていくだろうことを予測できた初見の観客は、それほど多くは無かっただろうとも思われる。

 多くの物事においてそうであるように、トップバッターの創意は大切だけれどもそれを2番目がどう受けるか(2番目をどう受けさせるか)が、その「続きもの」の方向性とクオリティを決める。この映画の場合、トップバッターは『HUGっと』組、2番目が前作『プリキュアアラモード』組である。以下、同映画より画像を引用する(amazon primeから引用した)。

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 この入りは、丁寧で、感情を揺さぶる巧みさがある。

 先にも書いたが、そもそも、キュアエールのもとへ皆が走り始める描写で、『HUGっと』組にカメラがあたり、『HUGっと』のOPのオーケストラ調アレンジのBGMになっていても、初見の観客のなかでこのあと歴代OPのメドレーになることを予想できる人はそれほど多くないだろう(ちなみに『HUGっと』パートの、えみるとルールーが背中合わせで戦う描写、

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敵に取り囲まれて背中合わせになって戦う、その互いの信頼ゆえの一瞬の笑み、というバディものの王道をしっかりとやる女児向けアニメよ…)。その『HUGっと』のOPが一通り終わったあと、『プリキュアアラモード』のOPのイントロにつながる。

 この、『プリキュアアラモード』OPのイントロに当たる部分の編曲は、主旋律は原曲とほぼ変わらないが、ベース音が(たぶん)B→C#→D(→→→E)と3音が段階的に上がったものに変えられている。原曲は違う。原曲の低音は1音が長く響かされている(幕開けのワクワク感を出すもの、といえようか)。これが、今回の編曲では、三段階に低音が上がっていくことで、「ホイップ、ステップ、ジャンプ」を表すように組み替えられているということができるはずである。

 一音のBに、ほぼ同時になるように(やや遅れる)あわせて「ホイップ」という声と足がインサートされる。

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そして、→C#→D、と音が上がり、そこから少しだけ遅れる「ステップ、ジャンプ」という台詞を先取りする。ここでおそらく観客は、あっ!と思わされるのである(なお、3つの音と「ホイップ・ステップ・ジャンプ」のセリフが全く同時だったとしたら、それはそれでダサい。ちょっと遅れるからいい。加えて、直前に青→黄色→と来て、その場にいないはずの赤(ピンク)の足に行く一瞬のミスリードを誘う演出も一役買っている)。その、あっ!の通りに、そこから、キュアアラモードOPの1番が最高のアレンジメントで展開していく。ホイップ・ステップ・ジャンプという言葉で、「キュアアラモード」の物語の全体を、そのかつての視聴者たち(前シリーズなので一義的には女児や女児たちの兄姉)の前に引き込んでくるのではないか。

 音と台詞によってもたらされる昂揚と気づき。物語全体の引き込み。この低音3音のアレンジは、たぶんそういうことなのではないかと思うのである。

 

 プリキュアのOPメドレー的展開といえば、いうまでもなく先蹤があって、『映画プリキュアオールスターズDX3』(2011)の、

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を持ち出すのは難しくない。『DX3』は、編曲でなくてテレビ版OPを抜粋してつなげていくのだが(『DX1』でのオールスター演出の「発見」を、より洗練したものともいうこともできる)、初代が敵を倒して直線的に落ちていくところで音が切れ、同じく落ちているのだけれど爆発の煙が晴れるところにこちらは回りながら落ちてきてフォームチェンジする2代目組の映像につなげられ、テンポ感が切れることなく一呼吸おいてスプラッシュスターのOPイントロが流れて、と、やはり昂揚感がもたらされるのである。ここで歴代がつなげられていくことが視聴者に示されて流れがつくられれば、あとは、『プリキュア5』組が縦の動きをドリームが一瞬引き受けつつ横からのアングルに転じさせて(暗めのバックに5色に光る腕の光がかっこいい。5人とも足の動きが違うのもよい、とくにレモネード)、それ以降は自由自在、融通無碍の展開が可能になるのだ。

15周年の映画は、これを超えなければいけなかったのではないか。

そしてそれは15周年にふさわしく、成功したように思う。

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 (ちなみにいま画像を引用して改めて思うが、私は頑迷固陋で、プリキュアは泥と汗にまみれてこそのプリキュアだと思っているので、格闘している最中にリーダーが余裕で笑い続けている代には違和感がある(格闘の後に笑って進むのは気にならないけれど…)。プリキュアは戦わざるをえない状況があるから戦うのであって、それが必死でないことがあるかね、と思ってしまうのである。プリキュアには全く詳しくないのだが、そこの閾があいまいになったのはスマイル以降だとぼんやりと思っているので、メドレーがスマイルとスイートの間でいったん切れるのは、半分で箸休めしてミデンの側を描くという演出以上に、何か自分にとっては必然的な切れ方であるように感じられてしまうのであった。これは僻目である…)

(ちなみにちなみに、この「2番目をどう描くか」問題は、アクロバティックに『ふたりはプリキュア』放映のあとの『スプラッシュ☆スター』問題につなげることも考えたが、この『S☆S』問題については触れている著作やインタビューもあるのでいまは触れない。私たちの多くは、『プリキュア5』以降の展開を知っているところから逆算的に『S☆S』の是非を論じがちだけれども、何もないところから引き継ぐことを創出しなければいけなかった『S☆S』の悪戦苦闘はたいへんおもしろい問題をもっている。)

(偉そうに書いたがちゃんとプリキュアを観ている人間ではないので的外れなことを書いていたら謝るぞ。すみません)