"Logue"Nation

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『こち亀』野郎!―『こち亀』追跡200キロ:31~35巻

31巻

両さん
チンコの天才の片鱗が見える([全日本パチプロ大会!])。
 パチンコの才能は、数ある両さんの才能のなかでもちょっと特異なところに位置しているように思われる。この回にしてもそうだけれど、自分でこの才能を誇示したり、この才能をもとに調子に乗って悪事をたくらんだりは、しないのである。
 この回ではまず主婦の代わりに打ち、リベートを貰うところから始めて、ついには車を獲るに至るまで玉を増やしていくわけだが、そのこと自体に別に熱狂したりせず、パチンコという行為じたいはとても淡々とストイックに行っているのがわかる(大会に出て浮かれているのも、あくまでテレビに出ているからであろう)。
 そのことが逆になにかおそろしい。これは何なのだろうか。パチンコはギャンブルではあってもあまりにシンプルだからか。それとも両さんにとってはパチンコは神聖にして侵すべからざるものなのか。

は天下の……]では、岡本元三郎氏の遺産200億を受け継いだ両さんが金を使いまくるけれども、これも200億という数字に実感が湧かないこともあるだろうが、蕩尽じたいに熱狂するというより、故岡本画伯の遺言を果たす心意気に応えたという意味あいの方が、どうも強い(p108)。
 この二つの回は、単なる金の亡者とばかりはいえない両さんの位相を表していよう。

さんの新卒編が[思い出写真]。20巻の子ども時代編からずいぶん間が空いており、このあとに比べると、両さんの思い出話の頻度はそれほどではなかったことがわかる。
■中川・麗子
れ合いなしの中川・麗子の驚きのおもしろさは、このあたりでもまだまだ健在。

「先輩でも新人のころあったのか?」「あたり前じゃない ボウフラみたいに突然わいてきたとでも思っていたの?」([思い出写真]p159-3)

二人の表情の真摯さを見よ!
■麗子
さんへの憧れはすでに物語のなかに描かれていた(25巻「■麗子」の項、参照)。[夏便り…]も、両さんと麗子の微妙な関係をささやかに語る一編。

「中川と話しあったんだ… わしたちのせいで婚期をのがしたら…悪いからその…」
「そう…… ありがとう
いきそびれたら両ちゃんのところにでもいこうかしら」「変なこというな ばかっ!」
(p125-1)

麗子の表情に関しては、個人的にはこの二ページが全編のなかではベスト。ちょっと少女まんが顔が入ってはいるけれども。
 やっぱりこの二人にはこのくらいの距離がちょうどいい。

 登場時からこのあたりの時期までの麗子をめぐっては、麗子が年齢的に成長するキャラクターであったこととも関連しようが、婚期について触れられる場面が多い。
■御所河原組長
度目の登場([バイク時代!])。初めて姓名が明らかになる。
 「御所河原組長集」05・06を参照のこと。明らかに小学校のようなヤクザの事務所がキュート。
■部長
力行使の一例。
「そのかわりおまえのほしがっていた500円玉をやる いいな!」「やだよ今さらそんな物ゴミ同様」
「いうことをきかんか! いう通りにしろ!」(グイ)「ふ…ふあい(汗)」
([金は天下の…]p115-6)

箴言
「これはガソリンじゃありませんよ 太陽電池システムで動いてるんです」「地中じゃ太陽なんかないぞ!」
「それがこのシェルターの欠点なんですがね」「何考えてるんだこの男…」
 (p38)
 この回では、球形のシェルターがボーリング場に激突(p32-1)のあと、ストライクのランプが光るコマ(p32-2)の間(ま)が見所。

「23万8326個……
どれでも好きなの持っていってください」「決めたこの車」
(p73)

「すごい! 車の流れをピタリと止めたぞ」「まるでモーゼのようだ」 (p88)
 どうでもいい生マジメなセリフがなぜか笑える。

「ちゃんと16点式安全ベルトをしめなさい」 (p91)

「とどめに!!
ママレモンをくらえ!」「ぎゃあ──っ」
 (p144)



32巻

両さん
ナキスト両さん

「金をよくみろ 日本銀行券とかいてあるだろ すなわちこれは馬券と入場券となんらかわりない
ある日突然無効となったらただの紙だ だからこそ使えるうちに思いきり使うのだ! わかるか!」
「根本的に考え方が屈折してるようね」「アナーキーだからな先輩は…」
 ([コピー社会]p66-3)

 実際のところ、両さんの言っていることはたぶん本当で、国や地域によっては「ある日突然無効になる」なんて日常のところもある。使用する社会においてそれが物品と一定の比率で交換可能であるという合意・了解があって初めて貨幣は貨幣たりうるのであって、合意・了解がなければ、「藝コマのスカシ入り・妙に丈夫な紙切れ」に過ぎないのであった。
 でも日本のアナーキストって、日本銀行券を馬券や入場券と一緒くたにしてしまうハイセンスはなかったと思う。あくまでイメージでだけど。

 ちなみに、貨幣と社会との関係を的確に評した文章が、

「貴様、目の前をすべっていくキノコを喰ったら巨大化して火を吹いたというヨタ話を真にうけて、キノコを追ったまま谷底に消えていった事があるか?」(『神聖モテモテ王国』6、小学館、1999)

なのであるが、余談であった。

てる両さん
 令嬢との一日だけの交流([もてる条件])。一日だけだが、高級じゃなくてもあったかく楽しい交流のなかで、両さんの飾らないよさ・価値が確認される。

 令嬢に麗子の代行としての意味もある一話だろう。
 ただ、麗子では物語上表現できないのは、両さんも令嬢も、夕方になったらさよならを言うことを、レストランを出た瞬間から、言わずともそれぞれわかっているというかっこよさでありましょう。
■部長
 「物のはずみとはいえ…両津と同じ行動してたとはなさけない…」(p100)と言うとおり、両さんと大人げなく張り合う部長([熱戦!!学園祭])。
 ざらめ糖に火薬を入れて、なおかつ後ろ姿を見せて完全にすっとぼけている(p99-2)のは、クレープにニセのゴキブリを入れる以上の卑劣っぷりである。
 「日本の少年まんがで後ろ姿が最も素晴らしいキャラクター第一位」は大原部長だと思うのですがいかが。
■御所河原組長
度目の登場([仲良し旅行])。
 「御所河原組長集」07~08を参照のこと。

●その他ノート:
聞オチの最初か。[悪魔がやってきた!]。
 前述したが(16巻「■両さん」の項)、この回も、そもそも両さんは基本的には悪くない話のパターン。


箴言
「ちがいますよ S.ONY 私の兄 進お兄さんが作った製品ですよ その名もウークマン
困るんですよね そのように大手会社とまちがわれては…」「ややこしくしてるのはそっちだろうが!!」
「するとこのラジカセはSANYOじゃなくてS.ANYOですか?」「さよう! 私のイトコの安世左々子さんが作った品です」
「このテレビもH.TACHさんが作ったのか」「いえそれはHI・TACHというメーカー名です」
 (p72)
 誰だよ安世左々子って。

「鳥だ! ロケットだ! いや!! バッテリーをとりかえてもとりかえてもすぐあがる コスモスポーツL10Bです!」(p176)
 ♪強きを助け弱きをくじく。


33巻

■作者
イデアがないことをネタにするのが[漫画家残酷物語]。作者がキャラとして登場する初めての回。
 ゴルゴ31はよく10年以上も続いてるなあ おそろしくなるよ…/作者自身ゴルゴ31のように機械化してるのかもしれんなァ」と言っているが(p6-2)、今となっては(いや、たぶん当時においても)、この作者は言われる側に回っている。
 作者が登場してネタが尽きたのをひたすらいうのは鳥山明Dr.スランプ』あたりのお得意。
両さん
 画家残酷物語]で、好き勝手なまんがを描く両さん
 このまんがで描かれる両さん<感心な自分>像は、その微妙な歪みっぷりといけしゃあしゃあっぷりゆえに、特筆に値しよう。

日課として仏像を彫る

「先輩の日ごろの行動に心を打たれた総監が今日から署長になってくれといっています」「なんと! やはり人間努力だな」

この<感心な自分>像が、小学生レベルであるところが最高である。
 このセンスは例えば、[旅立ちの日](39巻p134-2)で、本田に「ローマ字を習うとかかきとりをするとか」と諭すセリフなどにも存分に表れています。

 科980犯のスリのじいさんの面倒を部長に押しつけられる[お達者で!]では、署長は部長に、「大原くん 両津が見張りで大丈夫かね? ふたりで悪い事するんじゃないか?」(p28-5)といって心配しているが、部長の「毒をもって毒を制す 大丈夫ですよ署長」という答えのとおり、両さんはじいさんがスってしまった商品を律儀に買い直しにいったりする。妙なところできっちり守ることは守るのである。

 ーニングポイント]~[世の中大変だ!]は、ひさびさの、両さんが派出所を飛び出す回。本当のホンキで飛び出してしまうのがめずらしく、この巻は個人的には、わりと読み返す頻度の巻です。
 最初に飛び出したあと、ボーナスの支給日が明日ということに気がついて派出所の前をウロウロする両さんは、『男はつらいよ』そのまま。

 菓子屋とおもちゃネタも見える([温故知新!?])。
 GIジョーなどについても詳しく触れられる。
 この回はアンティークおもちゃ(とその店)を俎上に載せる回の初発で、両さん自身はここでは「市場」価値をわからない、というのが落としどころになっている。こういう、両さんとおもちゃなどとの関係の変化については、30巻「■両さん」の項を参照のこと。
■部長
 長の両さん理解については何度か触れてきたが、

「とにかく両津には気をつけろよ サル以上の頭脳とネコの身軽さをもってるからな」([ポリス忍者!]p61-5)

という中川を諭す言葉にも表れている(このオチのコマ、麗子は両さんに気づいているんですね。読み返して今気づきました)。なにげに両さんの頭脳を褒めてるようで褒めてるんだかなんだかわからなかったりするが。

 ころがそういう部長も、[ターニングポイント]では、「おまえたちはまだ両津を理解していない あいつは金のためならプライドもかなぐりすてる そんな男だ」(p70-6)と中川と麗子に言い、その予測どおり両さんは帰ってくるけれども、プラモづくりを頭ごなしに否定する余計な一言で、両さんがホンキで飛び出してしまったのは誤算だった。

●その他ノート:
 っと気になっていたことなのだけれども、ある時期のまんが作品には、「私」の漢字に、律儀に「わたくし」とフリガナを振ってある。
 『こち亀』で言えば、見たかぎりでは[漫画家残酷物語]、p9-1の両さんのセリフ、「これが私(わたくし)の仕事だからな」が最初ではないか。
 多くのまんが作品や雑誌を調査したわけではないのだが、
(1) ある時期までは難しい漢字以外にはフリガナを取り立てて振る必要はなかった。
(2) なんらかの苦情が多くなって(または自主規制的に)主な漢字にはフリガナを振るようになった。ところが杓子定規に常用漢字にしばられ、「私」をわたくしとは呼ばない実態であったのに関わらずフリガナとしては生真面目に「わたくし」と振っていた。
(3) だんだん常用漢字的規範が社会的に緩やかになってきて、実態にあわせて「わたし」と振るようになった。
という流れがあるのではないか。小学館系なんかは原則的に全ての漢字にずいぶん前からフリガナを振っていたが、やはり「わたくし」→「わたし」になった瞬間があるんだろうか。
 この問題は、まんがの(自主的な)社会への意識をさぐるのにも、いわゆる常用漢字的規範の緩和を考えるうえにも、けっこうおもしろい素材であるとずいぶん前から思っています。

 それはそれとして、この回は、同時期の売れ筋のまんががちゃかされていて好もしい。
「汗と涙の高校球児 清く正しく美しく聖人だけが集まったけがれをしらぬ青春のショー番組が終わりをつげました!」(p22-1)

箴言
「でえええいっ カムバックマイタコくん」(p55)
「忍法強引説得の術」(p50)
「忍法浮気心の術」(p51)
 忍術のインチキっぷりは、貸本マンガや映画を初めとした「忍術もの」へのパロディ的なオマージュだろう。
 『忍者武芸帳影丸伝』(p52)はたいへんにおもしろいまんがです。

「今日からうちの工場に新しくはいった両津さんだ
以前は大蔵省に勤められていたがわけあってやめたそうだ みんなよろしくな」「どうも 天下りでやってきた両津です」「変わった天下りをする人だな」
(p77)
 周りも少しは疑うべきである。

「うちは学生しかやとわないよ あんた学生!」「はい 東京大学図画工作部の8年生です」
「そんな学部あるのか?」「はい 紙飛行機の運動力学がクレヨンにおけるケロヨンとブイヨンの関係について調べたり……」
(p85)
 こっちは少しは疑ったみたい。

 この二つのやりとりは、『派出所』のなかでも十指に入る突き抜けた言語センスっぷりだと私などは思う。



34巻

両さん
段もわからなかった前巻から一巻分も置かず、ここでは早くも「おもちゃに関しては私はプロだ おもちゃ研究家としてその名は高い!」と、「おもちゃ研究家」を自称している([おもちゃ行進曲2]p8-5)。数話あと、[植木警視正の退職]では、「おもちゃ評論家」(p162)。
 このおもちゃ研究家は、部長が後ろにいるのに、児童用トランプが無税で一般用が有税であることを熱弁する姿が好もしい([お体大切に…!])。

の巻で特筆すべきは、部長の後をうけて、両さんが禁煙することであろう([煙はEなもの!?])。
 作者の発言、「それでもすいたいという人はカッコつけてふかさないでぜひ肺の中にのんでもらいたいゴクリと! そしてタバコを根元まですってもらいたい これで10年は命が縮む」(p50-4)にうむうむと頷いたものです。
■部長
さんより一話早く、[お体大切に…!]にて禁煙。ちなみにこの話、あいかわらず部長のツッコミがすごい。

「つい幼き日の郷愁と酢イカの香りに誘われ足が…」「今でも幼いだろうが こい!」(p28-3)

[煙はEなもの!?]では両さんの50キロで熱海まで走るという口約束を守らせたり。彼は本気だ。
■部長と署長
 底的に両さんを指導しようとしながら、両さんが手柄を立てるとコロッと態度をかえる。このタグイの上司は『こち亀』にかぎらずよく描かれはするところであるが、両さんの、圧倒的に不信感たっぷりの目つきが見どころ(p79)。
星逃田と雪之城
 ョイ役で[フジヤマ・キャノンボール]に登場。それでもしっかりオチをもっていくのは、おいしいキャラたちである。
 二階建てバスってのもおちょくっていてよい。雪之城は管見のかぎりではここが最後の登場。

●その他ノート:
 はEなもの!?]という題名のセンスって、──題名をつけるのが誰なのかは知らないし特定しようという気もないけど──何なのだろう。今の子が「縁は異なもの」ってフレーズを使うだろうか。こういう妙にインテリ度の高いサブタイトルは初期に非常に多い。

 ちなみにこの回、たばこ屋のばあさんが両さんの指名手配書を見るコマがあるが、この指名手配書の写真が目の前の両さんの表情とまったくいっしょなのが笑える(p51-5。写真が汗までかいてる)。このへんの呼吸の絶妙さは、やっぱり30巻台が頂点。
 同様のものとしては、中川が「昨日は東京のあちこちで不思議な現象がおきたらしいですね部長!」といいながら読んでいる新聞の見出しが、「作日は東京のあちこちで不思議な現象がおきたらしいですよ!」(33巻[時間よ止まれ!?]p118-5。原文ママ)だったり。

 バイ隊員・舞昆クン!!]、当時は家庭用コンピュータは、パソコンとはいわずマイコンと言ったことに注釈が必要な時代になってしまった。
箴言
「あっしは心入れかえ務所からでたら真人間になります」「昔も同じセリフをきいたが…そうかえらいぞ!
みろ昼間だというのに太陽も夕日になってしまった」
 (p78)
 「昔も同じセリフをきいたが」の距離感がいい。

「全員でプラモ屋いって店の人がみてぬ間に…その場で組み立ててしまうんです」
「どこが不良なんだよ」
「プラカラーで色までぬってしまうんですよ 完成品にしてしまうというおそろしさ」
(p126)

「ちなみに作者が中学生のころ新聞配達していてデン助の家と宇都宮雅代の家に夕刊を配っていたという伝説がある」「それも美談だ」(p172)



35巻

両さん
 柄の変化について。
 例えば[遊び大好き!]p8の4コマめや6コマめのように、両さんのくずし顔が描かれる際、【ほおの斜線】が、20巻台後半から顕著に見えはじめる(p9-6の目のクマを表す斜線はまた少し違うのだが)。
 また、同じくこの二コマには、目をふちどる下の線が、上向きの曲線になっているのが確認できる。この傾向もやはり20巻台後半からの現象であるかと思われる。にやけ顔を表現するために上向きの曲線で目が描かれることは最初期から見えるのだが、にやけ顔を表す以外で用いられるのは、20巻台後半からである(20巻台前半まではギリギリのところで上向きになるのをこらえている)。絵柄の面でも、20巻台後半は画期であった。

 ったいに、30巻台前半から遊びネタが堰を切ったように頻出しはじめていた。[遊び大好き!]では、「ずるい」「ひきょう」は敗者のたわごと! 遊びでも勝たねばならん! これが両津式遊び学だ!」という信念がいっそすがすがしい。

■本田
 さんの「なん度ふられてもこりないやつだなあ… いまに寅さんシリーズになっちまうぞ」([ジキルとハイド]p32-1)という言葉が全てを物語っている。
■部長
 長の両さん管理シリーズ第二弾、[マネーゲーム!?]。ほしいものを申告すればその分、金を出すという部長に、聖書代と阿弥陀如来代を請求する両さん両さんだが、部長のシビアさはその上を行く。

「部長これじゃ聖書も買えませんよ」「古本屋でさがせば買える!」
阿弥陀如来だって金ぱくのすばらしい物は20万くらい…」「おまえの得意なプラモで買えば安い!」
阿弥陀如来のプラモなんてタミヤからでてませんよ部長」
(p107-4)

 いったいにこの回の各キャラクターの表情は、逐一取り上げたいぐらい、最高に見応えがある。部長でいえば、上のやりとりのあと、本当に両さん「ちょっと仏像買ってきます」(p108-9)と行って出ていったあとの心底驚いている顔が一押し(p109-1)。
■御所河原組長
 度目の登場([青春のワーゲン])。「御所河原組長集」09~10を参照のこと。

●その他ノート:
 っていいとも!」を見る両さん([遊び大好き!]p7-6)。友達の友達はみな友達だ。世界に広げよう、友達の輪。
 ちゃんと電話が書き込まれているところが心憎い。そういえば、ゲストがプッシュホンでかけていたころ、ダイヤルを観客席から見えなくさせるための黒いプラスティックの覆うやつ、子機になった今でも、ゲストが自分でかけるケースのときにはたまに出るようで、妙に懐かしかったりする。

 スペシャルで発見されたといういわくつきの県、度井仲県。
「どこにあるんですか…その度井仲県ってのは?」「千葉と埼玉の間にある県だ 今年発見され今年から県として認可された新しい県だ」「秘境みたいなところですな…」([東京留学!?]p63-2)
 『こち亀』の空間感覚については17巻「◎」の項で前述。
 出来杉くんによれば、もはや地球上に秘境の新発見のみこみはないという。唯一、「ヘビー・スモーカーズ・フォレスト」を除いては。……というわけで、たぶん度井仲県もこれまでは「いつも雲がかかっていて衛星写真がとれな」かった(『のび太の大魔境』)のだと思われる。


箴言
「《ケンカの状況はどうですか?》」「《みた感じ40歳くらいの中年がふたりなぐりあってますねえ これはひどい
やめなさいきみたちこらっ 警官のいうことがきけんのかっ こいつ!
おっとチーです!ふたりとも血を流してたたかっております これはすごい手になりそうな気がしますね
ポンです ポンポンたたいてます ないてますねえじつに!
おっと!つもったもようです 無事終了しました!これで現場中継を終わりますNHK》」
(p47)

「いや! 中川くんのアダ名をハンサムくんにしようかと ははは」(p108)

「あくまで両津ではないというんだな」「もちろん! 両津さんは有給休暇でハワイへいってます」(p137)
一発でばれるウソの言語センスが冴え渡る30巻台。

「わかったよもう一万円足してやる」「よろしい」
ジェットエンジンをおまけにつけよう」「極端にかわるやつだな」
(p168)

「そこでぼくがもらいましょうといってもらってしまう! これぞ“あげる”“いらん”“もらう”の三段活用!」(p185)




(2001/11/10。2021/09/20再録、一部削除。)

『こち亀』野郎!―『こち亀』追跡200キロ:26~30巻

26巻

両さん
モチャ歴30数年 人は私を生きたGIジョーとかリカちゃんのお友だちわたるくんのかくし父親とよぶ……」([両さんの留学!?]p159)とあり、このころからおもちゃウンチクが見えてくる。
 <手先が器用+プラモ+おもちゃ>、の三位一体については、24巻「■両さん」の項を参照のこと。
■部長
当なんですか一億数千万の税金って!?」「はい」
「この男は金をためるなど不可能です 10万円ためるにも100年はかかります」「し…しかしそういわれても…」
「きっとなにかのまちがいです もう一度調べてください」「はあ……(汗)」
([スペシャル税!?]p152-2)という税務署の職員とのやりとりがある。
 いうまでもないことだが、部長は決して両さんのことを思いやって調べ直しを求めているのではない。「この男は金をためるなど不可能」という絶対的確信に導かれているがために、調べ直しを求めることをためらわないのであった。

日署長におまえをアメリカにいかせてくれとたのまれてきたよ」「アメリカ!?」
「なんでアメリカへ!? 戦争でも始めるんですかい!?」「その引き金にならんよう気をつけてほしいんだよ」

「それで夜行でいくんですか?」「なに!(ピク)」
「あ いや! その顔は否定ですなするとズバリ船! あこがれのハワイ航路かなんかで……」「飛行機でいくんだよアメリカの」
アメリカの…てえとB29で?」「戦争からはなれろおまえ」 
(p160~) と気が気でない部長だけれども、出発のまぎわ、「両津 くれぐれも気をつけていってこい」(p170)と声をかけているのは、両さんのそっけない返事にあわせてさりげないコマだが、心配している部長の姿がほの見えて、よい。
■御所河原組長
の巻ではまだ名は明らかにされていないが、とにかく初登場。この稀代のキャラクターについては、『御所河原組長集』にて別に示したので、よろしければご覧ください。

●その他ノート:
津式貯蓄法!?]は、数多い「両さん金儲け話」でも名作のうちに入るだろう。なにが名作かって、両さんが金を貯めているというだけで中川と麗子が真剣に驚いているのがいい。この驚き方には、ギャグまんがだからといったような、照れや甘えがない。
「金をためてるんだ 多少の犠牲はやむをえん」「えっ先輩が!!」「貯金を!」(p46)

「1800万円です」「1800万円!?」「☆」(p50)

「10日目の900万円ってどこからもってくる気かしら…」(p52)
とくにp52の麗子の表情は特筆すべきだろう。この顔には、決して【汗】が付されていたり【あきらめ顔】をしていたりしてはいけない。この顔でなければならない。

ンコ電車]は都電荒川線が主人公。のちにトローリーバスも取り上げられるようになる。こういう、東京が忘れてしまったものをすくいあげるのは『派出所』の得意技。ちなみに、轟の三つ子の息子はいうまでもなく『魔法使いサリー』より。
箴言
「128字か…… 小学校2年生なみだな……」 (p28)
 「警察官」と書けと言われて「軽殺管」と書き、名前を漢字で書けといわれたが「勘吉」が書けずとつぜん「両津一(はじめ)」に改名してしまう両さん
「今となってはあとのカーニバル…」 (p54)
 ほかに「ちりもつもればマウンテン」(p56)とも。


27巻

■佃名誉警視正
巻[新雪之城変化!?]にて早くも「しらない間にきえちまったぞ」と言われてしまう。

箴言
「ひとつきくが包装紙に新東京国際空港とかいてあるのはなぜだ?」「ちがいますよ 東京(トンキン)空港とかいてあるんです 北京(ペキン)のとなりの東京(トンキン)に帰り経由したのでそこでまとめて……」 (p92)
 一発でバレるウソ。

「ごくありふれた量産型のじいさんでしょ」 (p124)
 量産型という発想はもちろんガンダムなどによると思われる。

「キャプテンの弦左ェ門さん チームをつれてきましたよ! 始めましょう」「え!? なんだって!? 赤線はもうありませんよ」(p186)
 なにげに赤線ネタがたまに出る。両さんの地元・台東区千束も、巻が進むにつれあんまりおおっぴらには言われなくなるけれど、吉原であるし。

「つまりかれらはなぜ世間でおちこぼれとよばれているか 現代社会におけるパフォーマンスにエキストラクターでよって引っぱられエジェクターではじきだされる つまり排挟ですよ」「もう少しわかりやすくいってもらえますか?」(p191)


28巻

■島雪之城
回しか登場しない(のちに一回、星逃田と登場)。
 八頭身ヤサ男キャラの先蹤としては、いわずとしれた中川がいるが、キャサリンとの絡みもあわせて、雪之城は<少女まんが>テイストを前面に出すキャラクターであるところが中川と異なる。
 星逃田がコマやバックさえも劇画調に変えてしまう<劇画>テイストのキャラであったのを変奏して、コマやバックを<少女まんが>に変えてしまうキャラとして登場させたのが雪之城であった、と見取り図を描くこともできよう。
 これに対して両さんは全力で抵抗している。「この漫画は恋愛ゴッコ漫画じゃねえんだぞ」(p29)といい(注釈は「最近ふえた少女漫画もどきの身の毛もよだつ少年漫画。」とある)、また「おまえみたいのがあらわれるから少年漫画がメチャメチャになんだよ」(p30)とも。それから十五年余を隔てて、両さんその人が少女まんがのキャラクターにまでなってしまうことをこのときの両さんは夢にも思っただろうか。いやはや。

 前巻登場の佃警視正といい、雪之城といい、<あわよくば定着させようか的新キャラクター>模索の時期だったのかもしれない。

 ちなみにこの回、注釈が頻出しているのは、時期からいって田中康夫『なんとなくクリスタル』を受けているか。

両さん
ンコール雪之城]でTVゲームに興じる両さん「21世紀はすべてがコンピューターだ/だから先を読んでTVゲームのプロになる」「そこがよくわからないな……」(p47)。[両さんの商才!?]でも、又崎の持っていたプラモやレコードを、口八丁で売る。どうもこのあたりから商売人としての才覚が強調されていく感。下にも述べるが、28巻あたりは転換点か。

会いはドラマ!?]では部長によって、「もう30の後半だぞ」(p63)と言われている両さん。このあたり、お見合い話が少なくない。

●その他ノート:
雪之城変化!?]の冒頭は、なつかしキャラのその後について触れられている。なつかしいことそれ自体をギャグとしようとする、のちの星逃田の扱われ方とはやや異なり、この冒頭はうがった見方でいえば、初期『派出所』の清算のにおいがする。道を尋ねる新潟出のおじさんが後ろ姿しか見せていないそっけなさもその理由の一つ(じっさいには30巻[親子水入らず!?]でもう一度登場するが)。フータローたちが住み着いていたことは触れられなくなっていき、亀有公園はクリーンな場となっていく。
 [新雪之城変化!?]を『派出所』の数度の転換点の一つと見なしておいていいかもしれない。

ルゴ13』ばりの身のこなしが印象的な(p154-1)、[根暗世代]に登場する根暗な青年は、ほかの根暗キャラの回に比べ、ぶつかってきた女の子の自転車を壊してそのままで、その点において救いがない。『派出所』では、根暗な行為によって迷惑をかける根暗な人物が、その話のなかで性格改善されることはめったにないのだが(これは『派出所』における人間観を表していよう)、この青年は群を抜いている。
箴言
「ヒゲもそりなさい 私と似ていて不愉快だ」 (p84)

「それじゃぼく家に帰ってわら人形つくる作業があるのでさよなら」(p145)
 なんでこういう去り際のセリフがおもしろいんだろう…。



29巻

■本田
さんに巻き込まれる本田、のスキー編。不遇の本田像はこのころ確定するといえる。21巻「■本田」の項、参照。

 さて、本田の失恋話はすでに何回か見えていたが、本格的にそれを描いたのが、アメリカ研修編(27~28巻)で知り合ったサンディが訪れる[ハローグッバイ!]。
両さん
キの時分草ゾリや手作りのスキー板であそんでたからな」([山は友だち!?]p7-2)とあるが、そのコマの回想シーンの両さんの髪型は、のちに回想されるような坊主ではなく、坊ちゃん刈りのように見える。過去キャラの顔はこの時点ではまだ安定はしていないと思われる。

じくスキーの回で、遭難した女性二人と会って、「いや! 我われは救援隊だ もう心配ないぞ/迷子といったら相手がよけい不安になるだろ!」(p18)というように、さりげないが気を使っている両さん。【いざというとき頼りになる】両さん像であり、雪山遭難というのは、のちにも署長・部長と回にも引き継がれる。

子の春!]での「おまえだおまえ! ちょっとおりてこい!」(p154)という両さんも、無条件でいい。
両さんと両津家
ローグッバイ!]で両津母が初登場(p165-1)。
 物語上、その意義がすこぶる大きいものであることを指摘しておきたい。なぜなら、母と面と向かっては会わない(会えない)両さん、というのは、『派出所』20巻ぐらいまででは、両さんの<男としての在り方>(ダンディズム? 意地? 照れ?)を示すものとして意味づけられていたはずであったからである。「大人の男」にとっての「母」とはこういうふうに接するものだ、こういうふうにしか接し得ないものだ、という、ある種の理念型を、両さんは、また物語は、提示してきたはずだった。
 けれども、この回は、積み上げてきたそれらをあっさりと乗り越えてしまう。何のためらいも動揺もなく、両さんは実家を訪ね、母・よねも、「なんだ? 勘吉じゃないの? どうしたんだい突然……」(p165-1)と、せいぜい突然であることに驚く程度。もちろんそれは、長期化する物語にとっては悪いことではなく、『派出所』が両さんの実家も舞台の一つとしたことはこののちの作品空間をより広げることになるのだけれど、それは、<実家>に対する心理的隔たりを20巻以前が描いてきたことと引き替えに獲得したものであるといえるのである。
 やはり、28巻あたりを、『派出所』物語世界の転換点の一つと見なして、よさそうだ。
■麗子と部長
子が部長をどう呼ぶか。じつはこの点からも、20巻代後半転換点説を裏付ける特徴を見出すことができる。

部長娘さんを嫁いりさせてすっかりふけこんだようね」…「でも人すきずきで両ちゃんを魅力的だと思う人がいると思うわ」([心のこり…]22巻p120-3~)

「麗子くんすまないね料理手伝ってもらって…」「いいえいいんですよ」([サバイバル新年]23巻p90-2)

部長さんもうすぐ始まるわよ」…「だいじょうぶよ たった15分間ですもの 両ちゃん中心にうつすわけじゃないもの」([視聴率競争!]25巻p166-1~)

部長/この字なんてよむの?アラビアの象形文字みたいな字」([書は人なり]26巻p42-3)

部長は気まじめすぎるのよ たかがお馬ゲームじゃない」原文ママ。[惑惑中年!?]26巻p-97-4)

「おはようございます」…「部長さんこのごろきげんがいいですね」([両さん帰国す!]27巻p84-1~)

「メリークリスマス部長さん([わが青春の桜田門]28巻p18-4)

「楽しみですね部長さん([マナ板のゴキブリ]36巻p86-7)

部長の呼称が、「部長」から「部長さん」へ、揺れる時期も挟みつつ、変化してきていることがうかがえよう。
 これとともに、タメ口(常体)だったのが、しだいに丁寧語(敬体)に変化していっていくことも見て取られる。
 このことは、麗子の位置づけの変化をみごとに示すものであろう。登場初期は、上司にもタメ口の、有能だけど生意気、はすっぱ(死語?)な女の子キャラだったのが、そういう性格は一部(具体的には、対両さん)に残しつつも、優等生的なキャラへと変貌していっているのである。
 トラブルメーカーになる回も、今後ないわけでもないのだが、それらはむしろ「意外さ」とか「女が怒るとおそろしい」的なところに回収されるたぐいのものであって、麗子その人が率先して両さんと組んでトラブルメーカーとなるというようなあり方は失われていく。
 麗子が本当にキャラとして魅力的なのは、10巻代である、と個人的には思います。
■洋子
子再登場([洋子の春!])。「小さいころから両さんをみてて警察官にあこがれていたの……両さんって人間味があってとても素敵でしょう」(p156-5)といい、この回の冒頭が中川に「そんないいかげんだから見合い相手にきらわれてしまうんですよ」(p140-4)と言われているところとの平仄を考えるとき、両さんと洋子というカップリングへの進展が期待される。しかしながら、洋子はこのあと物語世界に登場することなく現在に至る。


●その他ノート:
ジャーネタ、不動産ネタ、戦車・車・飛行機のホビーネタ、と、のちに繰り返されていくパターンは、このあたりでかなり確立されてきているようである。

巻の[雪之城変化!?]にも、少年まんがの少女まんが化が皮肉られていたが、本田の失恋を描く[ハローグッバイ!]が、麗子の読んでいる「ついに少女まんがとの区別がつかなくなった」(p159-5)少年誌からスタートしていることに注意してみたい。
 こういうまんがに対して両さん「最後は結局ハーピーエンドじゃないか…」(p159-1。原文ママ)と言っているところは重視すべきだろう。少女まんが化する少年まんがのお手軽な恋愛へのアンチとして、本田は失恋すると読めるのである。
 「月は遠くでみるからきれいなんだよ…/わしなぞなん度アポロになったか数えきれん」(p191-3)という、両さんにしては唐突なセリフにも、反「お手軽な恋愛」的志向を見てとることができようか。
箴言
「今どき木炭バスなどと…すごいところだな」「初期のちばてつやの世界ですな」 (p29)
 <東京近郊の田舎>の描き方って、部長の家への道にしても、寺井の家にしても、えらく筆がすすんでいる感がある。

「なんだとてめえーっなめんなよ! オレのツッパリはハンパじゃねえぞ/足がよくツッパルからトクホンはってんだぜ どうしたくるかおい!/メリケンパンチをくらえ!」(p65)
 原宿にいるヘンなツッパリ。
 あっさり両さんに歩道橋からつるされて、「や…やめろおい じょうだんだろ! くそっ はなせ! いや……はなすな」。セリフとしてはこちらもよい。


30巻

■両津家
菓子屋とおもちゃネタが見える([両津コレクション!])。初期のおもちゃネタ、コレクターネタでは、往々にして両さんがその価値を知らないパターンが多い。
 両さんはコレクターやマニアとしての風貌を徐々に増していくけれども、多岐に渉る分野の、だいたいにおいては、じつは両さんは初めからマニアなのではないことが指摘できる。

マニアにやや引き気味に傍観者の回(両さんは聞き役。笑いどころは、価値がわからないところ。)
  ↓
マニアと同等に渡り合う回(中途半端な知識ながら価値がわかる。笑いどころは、色気を出して失敗してしまうところ。)
  ↓
マニアを相手に商売までできてしまうぐらい蒐集もし、また知識もありウンチクも垂れる回(主に聞き役は中川・麗子。大がかりに商売欲を出して大失敗という笑いどころか、または情報まんが的扱いで終わるか。)

という類型をたどる傾向がある。アンティークおもちゃもまた、両さんは最初からオーソリティだったわけではなかったのであった。

 付け加えれば、自転車を直して売ろうとする[リサイクリング!]とともに、商売人ぶりが随所に強調されはじめていく。「金のためなら…なんでもします……ははは……」(p93)が象徴的。

●その他ノート:
p46やP68など、構図に凝りはじめている。


箴言
「日本の最大排気量は230ccにすれば兄さんが乗るニイサンライダー」「ムチャいうなこいつは!」(p36)

「涙くんさようなら!」(p128)




(2001/10/09。02/07/24改訂、08/14二訂。2021/09/19再録)

『こち亀』野郎!―『こち亀』追跡200キロ:16~20巻

 

16巻
■部長
司・常識人としてのツッコミ役の位置は不動だが、両さんに対抗して見境をなくしていく部長、という位相がすでにみられる (たとえば「すごい!ジャンプしながら6回もひねりをいれたぞ!」[汗は金なり!?]p77) 。
 この<いざとなったときの部長の狂気>がもっともおもしろいのは、ヤクザに帽子をうたれ「このやろう!」と拳銃をうつ回だと思うのだが、それは後述。
■麗子
15巻から引き続いて、バイクを操る麗子がダイナミックな捕り物を見せる([女の意地!])。バイクや車、銃を自在に操りながらの大胆な行動力は、登場期から現在まで、麗子の基本形。
 ただし、こうした麗子に対して、物語は、──この回の本田の「女にしとくのはもったいないぜ」(p21)という評言に最もよく表れている (この後にも散見される)のだが──「男まさり」という位置づけをしている。初中期の麗子の行動力には、<男まさり>と<女のヒス>のどちらかの形容がなされる場合が多いのである。
 これはそのまま、『派出所』の女性観(≒ジェンダー)の偏向を示していよう。

有村塾!?]では、プールで両さん「そういう性質だからヨメのもらい手がないんだ このオッパイオバケめっ」と言われている(p59)。たしかに水着の麗子は胸が大きいのだが、節度があって好もしい。
 20巻「■麗子」の項を参照のこと。
両さん
畳半ライフ!?]を例にとれば──、
 いっけん常識人なのだけれど、どこかズレている行動をとるゲストキャラが登場。で、そのズレを埋めようと両さんが親切にするが ( また両さんは、その最初の段階では、そのズレに対してツッコミや批評・批判をしていることが多い。 ) 、両さんのフォローに問題があって ( または両さんたちが気づかないうちに偶然の事故があって ) 最終的にカタルシス的崩壊を迎える、というパターンとなっている。
 このパターンの話は少なくない。最後にアンカー(部長の場合が多い)からツッコミを入れられる(=批評される・怒られる・責任・弁償をせまられる・など)のは両さんだが、よく考えると両さんは当初は親切心や常識的判断からフォローをしはじめただけなのであり、読者としては両さんだけが責められるのはいまひとつ納得がいかない。
 のちに、この型のヴァリエーションとして、両さんが欲目を出してカタルシス的崩壊を迎えるというパターンも多くなるが、この元のパターンも根強く残るには残る。

 この<実は悪くないのにひどい目にあう>パターンが、読者側にサディズム的な笑いを喚起していることを否定はしないが、同時にそのウラには、多少なりとも、少しの善行が周囲に理解されないことそれ自体へのロマンチシズム(あるいはマゾヒズム?それとも殉教主義? いや、ダンディズムか)が確実にあるように思う。
■インチキ不動産屋
ちにも、寺井の「マイホーム」探しのたびに登場するザンス。でかい蝶ネクタイ、ひげにめがね、いかにもインチキな愛すべき風貌ザンス。

●その他ノート:
ラス会]は、警察官に何の因果かなってしまった両さんと、ヤクザになった幼なじみ・金太とが再会、という、のちの[浅草物語]にもテイストがひきつがれる佳作。最終コマの小ささなど、あまり感動させようと力が入りすぎていないところがむしろいい。
 今の稼業を思い直してクラス会に入るのをためらう金太を、こだわりなく店に入れようとする両さんには、やっぱりホッとさせられます。


箴言
「最近では“蚊取り風と火楽団”をよくきいてます」 (p33)
 もちろんEW&F(アース、ウィンド&ファイヤー)の超訳。「兜虫4人楽団」(ビートルズ)と「回る石楽団」(ストーンズ)が直訳ゆえにわかりやすいことの後にある、「蚊取り」(アース)のさりげないウソっぱちぶりがたまらなくステキ。
 この、「三段オチ的細かい芸」については、22巻でも触れておく。
「ひょっとしておまえホンダ安全運転普及本部の生徒か?」 (p126)
 真顔で言うのがいい。


17巻
星逃田
ちろんこの巻は、彼のためにあるといって過言ではない。
 個人的な話であるが、引越で『派出所』を段ボールのなかにしまってあった時期にも、17・18巻だけは本棚に出してあったのは、もちろん彼が載るゆえである。

 『ゴルゴ13』的劇画世界をとつぜんもたらす力に、この二巻の星逃田は満ちていた。
■中川
逃田登場にさいし、妙に真剣に相手をしている中川がいい。
 『派出所』世界における中川のおもしろさを発掘するのも『派出所』読みの楽しみなのだが、このあたりの、一方にギャグをおきながら他方に中川の妥協なき真剣さを対置しているおもしろさ ( p70-3を見よ! ) はその筆頭にあげられるだろう。
 「劇画刑事」星逃田は、劇画へのパロディとして登場するけれども、じつは『派出所』における元祖・「劇画刑事」とは、中川のことなのである。次作[劇画刑事・星逃田Ⅱ]では星と両さんがやはりおもしろいが、本作[劇画刑事・星逃田!]でのホントの見所は、わたくしに言わせれば、星のボケに真剣にボケをたたみこめる中川なのであった。

剣な中川>のおもしろさは、別の形であるが、[本官は金夢中!]の、「見合いの場合いはそのほかにもいろいろと原因が複雑で…」(p142)と両さんのことを必死でフォローしてるのに全然フォローになってないあたりにも見受けられる。

●その他ノート:
ア・チェンジ!?]、「団地族」への批評を含む。


箴言
「ぶちょう~ 千葉にィ~ ヨモギを~ とりにィ~ いってたのれおそくなりましては~~」 (p158)
  『派出所』のほほえましい千葉県観。部長の家の天文学的遠さとか。
 作品世界の地理感覚は、下町(23区北東部)がベースになっているので、千葉がバカにする対象となっているが、23区北西部や中央線以北の多摩地区を地理感覚のベースとする人たちにとっては、埼玉県や練馬・板橋がその対象にあたる(はず)。例えば、久米田康治かってに改蔵』の舞台・練馬区しがらみ町は、埼玉と練馬区の中間(グレーゾーン)に位置することが語られる。関東の地理感覚を持っていれば、これはもちろん笑うところなのである。
 『派出所』もいつのまにか、千葉県をバカにしなくなってしまった…。
 なお、さりげなく最後がそろばんの「ねがいましては~」を意識させているところ、芸が細かい。

「えーとハンドルのにぎり方は8時20分で…」 (p165)
 運転中、何かのはずみのこの握り方になるとき、いつもこのコマを思い出しませんか。


18巻
星逃田
メントのしようがない。17巻と18巻の星は、50巻までの御所河原組長と同じく、あらゆる評言を無効にしてしまう存在である。
両さん
画刑事・星逃田Ⅱ]、「だれがめでたしめでたしだっこらっ!」の圧倒的なカタルシス。何度読み返しても笑える…。
■本田
レも男だ!]は、このあと脈々と続く本田失恋話の初発。この女性は19巻[恋のマッド・マウス!?]でも登場する。

●その他ノート:
たりの本田!?]。のちの[追跡200キロ!]などにも脈々と引き継がれるが、基本的にカーチェイスをかっこよく表現することへの憧れに満ちている。
 「直線では260Zのほうが上だ!」(p80)の中川のかっこよさは『こち亀』中、随一。


箴言
「背景ばかりリアルではまるでゲゲゲの鬼太郎になってしまうので……」 (p15)
 『ジャンプ』誌上で写真のコマはちゃんと印刷で出たんだろうか…。なお、p16-3の構図づくりも涙を誘う。

大正製薬で「コンジョウ」なんて新薬だしてたのかなあ…」「だめだこの男…」 (p36)

「うさぎくんはゴール手前でひと休み! ウォークマンでイエロー・マジックをききながらねてしまいました。」 (p94)
 YMOを「イエロー・マジック」と呼んでいるあたりが時代を感じさせます。

「中川さんがんばって なせばなる なさねばならぬ ナセルはアラブの墓の下!」 (p156)
 ナセル大統領(1918-1970)。


19巻
■部長
下一同より]における【暗転】(p14)が、やけにリアリティがあってよい。
 この【暗転】、部長の絶句と驚愕は、部長と両さんのボケ・ツッコミ的関係が決して馴れ合いではないことを読者は知るからこそ、理解でき、それゆえに笑えるのである。

●その他ノート:
津大明神!?]。p146での部長と両さんのやりとり、
「通行中の車を止める警察官の行為にはどういう法的根拠がある? しってるだけいってみろ!」
「そ…それは…警職法道交法などの法律で警察官の気分で車を止める場合につき規定されています つまり憲法でいう国民の文化的生活が守られるようまた刑法の犯罪予防という…」
職務質問の法的根拠を200字以内でのべよ! さあいってみろ」
「そ…それは昭和31年改正法つまり…その司法職員の職務質問に関する法律により職質の3原則が定められていて…気に入らないやつ素直でないやつ…」
については、別で言及したので参照されたい。

箴言
「やっぱりトミーのレッドミサイルにしたほうがよかった…」 (p18)

「正式にはドナ丼とよびます」 (p39)
 どうしてこういうところにいっしょうけんめいなんだろう。


20巻
■麗子
夜中のパイロット!]は、麗子とパイロットの淡い交流を描く異質な作品。こういうのもあり、という『こち亀』の柔構造。

子の胸囲は90センチと知れる([鋼鉄の人!]p57)。このころ「巨乳」という言葉は発明されていないが、たしかに当初から基本設定として胸が大きいキャラではある。のちに麗子のバストは95センチに落ち着いて今に至るようだが、このころの感覚では90センチで十分に大きいことを表していたのであろう。時代による「巨乳」意識の変遷がここからうかがえる。

 なお、のちの設定と異なり、この時点での麗子はロシア語に堪能ではないようである(中川も)。これも設定の変更という観点において、それなりの意味を持つ。
両さん
夜中のパイロット!]に、「本官は不愉快だ!」というセリフがある(p7)。このあたりが一人称としての「本官」が使われる最後のころではないか。

となしくかえれというのがわからんのかこの!」(p16)。一般市民に銃を向けるのも、このころの両さんには珍しくない。
 ちなみに、ぼく個人の読者史としていうならば、子どものころは銃のリアリティがなく、銃のリアリティ(=人を殺すモノであるということ)が確立したあとにやっと、一般市民に平気で銃を向ける両さん、のおもしろさがわかったような気がする。
 んで、この両さんの面白さを踏まえると、その数倍、両さんに銃を向ける部長がおもしろくなるんですけどね。

●その他ノート:
キ大将!勘吉]は、両さんの少年時代ばなしの初期型。基本に在るのは、下町文化へのノスタルジーと、「ガキは元気で上等!」(p142)。

たちへ…!]、[親をよべ!]は、「最近の若い者」批判。とくにこの巻の終わりの数話は説教くさい。
 『こち亀』が10巻を超え、長期化(もちろん当時においては、十数巻でもう長期化と言っていいはずである)が見えてきたあたりから、すでにこのまんがは、教条性と情報性を身にまといはじめていたのであった。

(2001/08/23初版。10/09改訂、2002/07/21二訂。2021/09/18再録)




ラブひな雑考

ジャンプ+やマガポケの類いをいくつかまとめて見ると、針に糸を通すようによくもまあこんな微細な違いを見つけてそれをテコにお話を立ち上げるなあ、と、驚きと呆れとが交錯する。もちろんその中にも珠はあるのだけど、いわゆるハーレムものを複数本読むと、「恋敵」が本当に要請されなくなってきたな、と思う。

 恋愛ものに実は恋敵は要らないのではないか。これを思い切ってまんがの世界で戦略とした人の一人はまちがいなく赤松健だと思うのだけど、このことについて日記風に書いたことがある。いま見直したら2002年だ…。ちょっと偏頗な見方なのは自覚しているけれども、時代の証言ではある。当時の自分のノリの今読み直すとキツい部分を一部削除して再録しておきたい。
*******   
●ここんとこ、あれこれしんどいことが多くて、一時間ちょっとほど、まんが喫茶で息抜きをすることがたまにある。
●で、ここ数回、まんが喫茶で読みついでいるのは『ラブひな』だ。
●じつは、『ラブひな』をまともに(つまり、人物設定・世界設定を知ったうえで)読むのは、これがはじめてなのでした。
●もう少し付け加えておけば、いま書こうと思っている原稿に「萌え」についてのコメントを交えたいと思っておりまして、ゲームは一切やらないわたくしとしては、せめて「萌え」まんがのスタンダード(と見受けられる)『ラブひな』ぐらい、読んでおかねば、という動機が、あるにはある。
●分析的・構成的にいろいろ感じたことは、今ここでは簡単にはまとめられないが(でもその大体は、「C-WWW」の「What's new!」によりクリアな形でほとんど触れ尽くされているのをいま確認してしまいました)、そういう見方を排し、単純な展開の読み手として、とりわけとてもいいなあ、と思ったのは、
・瀬田と再会した成瀬川は面と向かえず逃げ出すが、走りながら瀬田のかっこよさを思い浮かべて顔がにやけてしまうところ
・最終回まぎわの山手線の用い方
の二点。
●にやけてしまうってのは、それは憧れ(や過去の恋)の対象ではあっても、現在形の恋愛対象として捉えていない、ってことを示している、っていう読みでいいですかね。でその一方に、それをわかることができず二人をくっつけようとする景太郎を置く、っていう妙。
●心理のくいちがいを読者にもたらす表現、ってのは、ついついこれまでのまんが史のなかでのパターンに頼ってしまいがちなのだけど、こういうのは、ぼくは初めて読んだのでした。
●山手線は、表現じたいがまずとてもよかった。それから、乗り過ごすっていう展開じたいは簡単に予想できるものだったんだけど、そのベタな展開をやり通したところが、『ラブひな』の結局はすごいところと言えるのではないでしょうか。
●山手線(ループ)ってのは二重、三重に、比喩的なものとしても機能してるのですけども。(02/08/27)
*******

●前回より続かせてみよう。『ラブひな』は、作者自身随所で述べているらしいが、とにかく計算され尽くされた作品である。いくつか関係する言説をネット上で拾ってみたが、作者じしん、それを明らかにするのを楽しんでいるフシさえある(開き直りもあるのだろうけれど)。
●何しろ自分と対置するのが「芸術家」肌のまんが家だ。いっそすがすがしいじゃないですか 。
●この開き直りがあるから、オレはこのまんがが読めるんだな、たぶん。打算しつくしているのだけど、それを明かすことに対しては打算がないのだ。(というと何かを言い得た気もするが、何も言ってない気もする。)それは作者の言説によるのではなく、すでに作品から感じ取っていたことだった。
●さて、計算され尽くされているだけに、このまんがには「萌え」のカタログ的な要素があります。昨日紹介したfukazawaさんに、「少年誌でのラブコメマンガのリファレンス的な作品」と言われているのは、とっても妥当な表現だと思う。
●で、ふとドキっとしたのは、この世界を読み進めていくと、いわゆる「萌え」的な把握ほどではないにせよ、自分の好みがどこにあるのか、自分がどういうシチュエーションをラブコメとして好むのかが、浮き彫りになってきてしまうことがわかった瞬間でありました。
●ちょっと高みに立った言い方をわざとしてますが、でもそう感じたのだから仕方がない。ではわたくしの好みとはどこにあったのか。
●「カタログ的要素」を持った作品はたぶんここ十年、とりわけゲームの世界でこれでもかこれでもかというぐらい出ているはずなのですが、たぶんおれはそれらの世界には入っていけないと思う(あくまで私の好みの問題)。『ラブひな』が予想に反してスッと私のなかに入ってきたのは、上述したとおり、ある種の放埓さによるところが大きいと思います。(02/08/28)
*******

●前回から続く。『ラブひな』を読むことで自己確認したのは、結局のところ、表層的ないわゆる「オタク」系ガジェットには、わたくしにとって、読むうえでグッとくる「記号」として全く機能しないな、ということでした。
●だからたぶんぼくは『ラブひな』の「正しい」読者じゃないのだろう。
●その一方で、どんなに伝統的パターンを踏んでるのがわかってても、主人公・ヒロイン・ヒロインと仲のいい恋のライバル(『ラブひな』の場合、{景太郎・成瀬川・むつみ}…と言うべきところだが実は{景太郎・成瀬川・素子}。)という状況のもとに「実行」される、一定の水準はクリアした「ラブ」と「コメ」が、そこにあるのなら、わりかしすんなり満足してしまうんだなあ、ということもわかった。イヤってほどわかった。ふだん小難しいことを言っているように受け取られがちであるが、じつのところわたくしはお手軽なのだということがわかった。
●やっぱり「正しい」読者なのかもしれません。
●ただ、『ラブひな』の場合、「伝統的パターン」の「踏」み方が問題なのであって、しかしわたくしがそれを受容したのは前回述べたとおりです。
●まんが自由研究サイトをやっているからには、この「カタログ」を、切り分けていきたい欲求にかられもしている。いや、キャラの要素(属性)を切り分けていく欲求はあんまりないのだけど(別に、ぴょんと立った「アンテナ」にも、「猫耳」コスプレにも、剣道にも、メイド服にも、それが何を狙ってるのは全然わからないのです)、ラブコメそのものの要素を切り分けていく欲求をいだかされたのでした。言い換えれば、「成瀬川」なり「素子」なりの、キャラに与えられている属性を分析するのではなく、「成瀬川―景太郎」なり「素子―景太郎」なりの、ラブコメのシチュエーションを分析したい、ってことになりますか。時間さえあればですが。(02/08/30)

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●「あんまりだああ」と泣きわめく素子の元ネタはエシディシでOK?
●と、検索とかするとうんざりするほどよく見かける「オタク」系日記のふりをしつつ(ホントはフォントを大きくしたりするともっとそれらしくなるけど)、心底今更極まりない『ラブひな』の話題は、今日でやめます。
●でも、いろんな意味で語り甲斐のある作品だ。「史」視点をもったまんが「研究」が世上に少なからず出回ってますが、昭和中期をこねこねやるより、よほど『ラブひな』を現代という「史」視点から切り取るほうが、個人的にはおもしろいと思うのです。
●さて、この世界には、景太郎とひなた荘の女の子たち以外の、彼ら彼女らを相対化する決定的な「他者」が登場しません。
●だいたい、景太郎の存在を根底から揺るがす<男>が登場しない。景太郎は決して相対化されないのです。成瀬川と景太郎の関係にあっては、まず瀬田がその役割を果たすはずなのですが、景太郎と瀬田は物語が進むにつれ一致していきます。いや、一致は相対化を呼び起こさないのかと言ったら、じつは一致が差異を引き起こして登場人物の関係を複雑に練り上げていくことを超絶的レベルで追及する物語はすでに1000年前から有り得るのですが、『ラブひな』では、一致と差異は決して登場人物を傷つけないんですな。
●東大に入る成瀬川は、とうぜん東大の<男>と接するはずなのに、モブキャラ以外の東大生はけっして登場しないし。
●で、このことは、普段のわたくしのまんがの読み方では間違いなく「欠陥」なのですが、すでに述べたように、この作品はそのあたり、確信犯でやっているところが作品内ならも作品外からも感じ取られるので、手を振り上げても振り上げた手のやり場に困ってしまうのです。
●前述の最終巻の山手線を回る場面、リアリティを持たせるなら乗客はたくさんいるはずなのに、乗客はまばらであり、途中からは全く描かれなくなり、最後には車掌からも起こされずに車庫へ行ってしまう、というのも、かなり象徴的だ。もっと言えば、この車掌が起こしにこないことを成瀬川がツッコんでることまで含めて、象徴的と言っていいはずです。ユートピアという「ウソ」を、「ホント」らしく飾ることなく、「ウソ」を「ウソ」と自覚してそれを隠さないのです。
●世に「ユートピア」まんが多しと言えども(ゆうきまさみももちろんその典型)、ここまで「他者」のいない世界を描くには躊躇してしまうはずなのだ。わたくしたちが「社会」に生きるかぎり「他者」との出会いによる相対化は避けられないことだからだ。けれど、徹底して「社会」や「他者」を描かないことを押し切って、そのことによるヒットを初めから狙い、なおかつ当たってしまうというのは、もうすでにわたくしたちの世界ってのは、どこか何か堰が切られてしまってるのかもしれません。
●もちろんこの反動はそのうちやってくるはずですけどね。つうか、ぼくの見立てでは(いや、もう誰か言ってるかなとも思うけど)、『ラブひな』は、「他者/自分(ATフィールド)」をめぐる小難しさがいきなり受けた『エヴァ』後に、その反動を見据えるという計算のもとに行われた可能性大です。だから『ラブひな』後とは、『エヴァ』的なものの反動の反動かもしれません。(02/08/31)

*******

後記、

最後、なんでも『エヴァ』につなげたがるのもこの当時ありがちな仕草だと赤面せざるをえない(今でもやっているけれど)。それはそれとして、「萌え」の対象を、静的な属性(記号)とするのではなく、より動的な状況(話型)とするものとして見るべきだという文中の主張は、当時もうすでになっていたのを私が見誤っていたのかもしれないし、この20年間でその事態が(こちらの予想を上回る展開で)どんどん先鋭化していったといえるかもしれない。

『こち亀』野郎!―『こち亀』追跡200キロ:21~25巻

 『週刊少年ジャンプ』では『こち亀』の日暮登場回が掲載されるらしい。そういえば以前、秋本治こちら葛飾区亀有公園前派出所』(集英社)に関するノートを書いていて、今読み返したら日暮についても触れていた。以下、そのページを再録する。 

21巻

両さん
津将棋教室]、将棋のうまい両さん。常識では考えられない手でプロを感心させる、というのはのちにも引き継がれるパターンである。
星逃田
い子たちへ!!]p26-2、警視庁の廊下を歩く星の後ろ姿のコマ。このコマを、次のページを読んでから改めて読み返すと、じつはこのときの星は、「おれは反射的に銃をぬいてしまう本能がある」ことを演じるために必死にタイミングをはかっている、と読むことができる。愛すべき男だ。
 後ろの人が立つと反射的に手を出してしまう、という、いわずとしれたゴルゴ13ネタは、のちにもちがうキャラクターを借りて何回か見える。

 次の[ボクたち強い子!?]にも星が登場する。出演頻度からいえばサブキャラクター的な位置づけになってきているけれども、それと引き替えに、もはや17・18巻のコマや画風を暴力的に変えてしまうほどの力は持たない。
■中川
あ羽田にいきましょう!」([メンソーレ]p69)の容赦のなさ。だいぶ両さんのことをわかってきている。「羽田につくまでダメです」(p71-5)はそのバリエーションで、表情を見せずにシビアにツッコミをしている(確信犯的まんが表現)。
 部長のそれとは質が少し異なるけれども、中川もまた、両さんの常軌を逸した行動を、予測しうる・理解しうる・ときとして管理しうる・キャラクターなのである。

 中期以降の中川は、このシビアさを忘れてしまっているようだ ( 両さんが他者から、諫められたり、報復されたりするようなシチュエーションのときにも、中川が汗をかいていたり、解説してしまったりすることによって、その行為や存在じたいが要らざるクッションとなり<笑い>を阻害してしまうことが往々にしてある ) 。こうした中川の立場の変化は、両さんにツッコミができるキャラが中川以外に出てくることと無関係ではないか。
■本口リカ
巻では二回登場しているが、麗子が同時に出演していないときというのがポイント。本口リカのここでの意味は言ってみれば「17歳でミーハーな麗子」。
■本田
田までも…ミイラとりがミイラになりおって!」([メンソーレ]p99-4)と部長に言われるように、両さんの行動に巻き込まれる本田像がこのあたりから提示されはじめる。
 23巻では、両さんの商売を手伝わされている([鬼のかく乱!?])。これもまた、今後、本田の基本的なキャラ位置になることはいうまでもない。
■日暮
暮の記念すべき初登場、[うらしまポリス!?]。全国の少年…というより元・少年たちは、オリンピックの年になると日暮の再登場を夢見て胸躍らせる。その期待が大きいだけに、いざ登場回を迎えても、日暮の活躍より両さんがクローズアップされていると、なにやら一抹のさみしさが胸のなかを吹き抜ける。

「どうも日暮です 私キャンディーズのファンです 今度コンサートみにいきましょう」「そうですね…」
「“およげタイヤキくん”のレコード買いましたか? 今度“タコやきくん”もでるそうで…」「もういいおまえの話題は古すぎる」

という<四年ひとむかし>ネタは、のち日暮の登場ごとに話題を変えて繰り返される。全世界の元・少年たちは、四年ごとに、このやりとりに時の流れの早さを感じ入る(はずである)。
■その他:
口リカ登場!!]p123-1の丸囲みのコマとかを見て思うのは、初期『こち亀』がたまに見せる、圧倒的な「固さ」「ぎこちなさ」って何なんだろうか、ということ。
 この巻で他に例を挙げれば、「迷子のワシにわかるか!バカッ」([メンソーレ]p81-4)なども、話のはじめのページで前回から続く状況の説明と導入の役割をするためのコマなのだ、と頭ではわかるけれども、両さんが声を張り上げているテンションの高さのわりには、声を張り上げるだけの必然性は見出しがたく、しかもおもしろいわけではない。「回のはじめには状況の説明をする」という愚直なまでの規範意識だけが先行しているように思われる。
 実験的な回、まんがの枠組みを崩して遊ぶような回がたまにあるかと思えば、しかしオーソドックスな作り方は、当時においてもおそらく一昔まえの<まんがの様式>に、愚直なまでに忠実。このまんがが120巻を超えてなお続いている理由の一つは、こういうところにあるだろう。



◎ノート:
「まっ 志村けんが女装したような感じかな」 (p66)
 p80に後ろ姿だけ見せるその見合い相手が、ほんとに女装した志村けんであるところとセットで。「ような感じ」じゃなくてまんまである。そういうツッコミをこのコマは待っている。


22巻

■部長
嫁の父]にて、娘のひろみが角田青年と結婚。花嫁の父としての悲哀を見せる。これで部長の肩の荷は、両さんの将来を決めることのみとなり、──そのまま肩の荷は降りずに現在に至る。
■麗子
のこり…]で両さんのことをフォロー。「でも人すきずきで両ちゃんを魅力的だと思う人がいると思うわ」「江戸っ子気質で金はためないのが主義じゃないの 生まれつきよ」(p121)。
●その他
ッピーバースデー!?]と[カミカゼ・ポリス]、こういう「むちゃくちゃな手段なんだけど人助け」という話も定期的に見える。前者は、線路を走るバスが駅に律儀にとまってドアまで開けているコマ(p94-1)がよい。
 なお両さんは船長に、「ははは このままハワイにでもいってみるかい?」と言われているが、のちに両さんはじっさいに、いかだでハワイへ、屋形船でガラパゴス諸島まで行ってしまったりもするのだった。
◎ノート:
日は娘さんを嫁にだされぶじ初七日もすみましておくやみ申し上げます」「わけのわからんあいさつはあとにしてさっさとこい」 (p122)

道(てつみち)です ふだんはキハ82とよんでます うちの犬はキヤ190でネコが市電4100型といいます」 (p148)
 市電4100型…。「キハ82」→「キヤ190」→「市電4100型」も、16巻「兜虫4人楽団」→「回る石楽団」→「蚊取り風と火楽団」もそうだが、みっつめの微妙なズラしが楽しめれば上級者。
 なお、このとき「D51」にされた両さん、p152であたりまえのごとく「D51さん」と呼ばれていたりもする細かさ。


23巻

両さん
きめきの日]で、おでんを頼んだ直後、両さんを見かけてそっと逃げようとしたボーナス泥棒に、「せっかくつくってくれたんだ たべていけよ」(p41)と声をかける両さん。この回、結果的には、泥棒逮捕という手柄も正義のためというより自分のためだった、というのが笑いどころになっているが、それはそれとして、ボーナス泥棒逮捕のきっかけが、ばあさんのことを気をかけたことに端を発していること。こういうさりげないところに両さんの魅力がある。
 ここには、金さえ払ったら何をしてもいいというわけではない(とくに食べ物については)、という人として最低限の規範をきちんと守らせる両さんがいる。
■部長
の巻では[サバイバル新年]が部長の真骨頂。両さん曰く、「部長とは18年間もつきあっているからな! わしの裏も表も全部しりつくされている やばいなあ」(p95)。
 中川も両さんの常識はずれな行動を理解・予測できる者だけれども、部長の両さんへの熟知ぶりとシビアな対応ぶりにはかなわないというのが、この回を見るとよくわかる(中川は部長のやり方にさすがに汗をかいている。たとえば「わはは びっくりしたらしいな」「そりゃびっくりしますよ」p95-5など)。
 バルサンを焚いて、しかもでてくるタイミングさえ熟知している(p98-4)のもすごいが、廊下に置いてやった食べ物が、サイコロキャラメルたべっ子どうぶつ!(p96-5)。
■本田一家
光の本田家!]で本田一家が紹介される。ちなみに、このとき妹の伊歩は未出。本田父、「あんたエンジンオイルでも…いやお茶でものむかい」「いやけっこうです」(p108-4)。
●その他
がよけりゃ]、このあと頻出するクイズネタの初発。問題のくだらなさと、答える間がいい。


◎ノート:
「秘密の出入口からにげよう」「ここが漫画のいいかげんなところだ」 (p19)
 中川の真剣さがポイント。逃げられたあと、いきなり一人8役やってしまう両さん



24巻

星逃田
レタラの母得意技の真空とびひざげり!」「ウレタラの母がとびひざげりをするかっ(汗)」([正義の使者!]p12-1)というやりとりには、そこはかとなく『Dr.スランプ』のテイストも感じる。
■後流悟十三
に続くゴルゴ系キャラ。星逃田が「劇画」の雰囲気全体をパロディとするならば、後流悟十三は、キャラとしても、章立ても、分業制的スタッフロールも、「(………)」の多用も、よりタイトに『ゴルゴ13』世界のパロディとなっている(──などと言うまでもないことを言ってしまった)。
 ところで、麗子に「後流悟さん…」と話しかけられたあとのコマ、
「は はい/(…………)」(p50-4)
における後流悟の
「(…………)」
は、『ゴルゴ13』を積極的に引用して読み込むべきであろう。つまり、『ゴルゴ13』では、ゴルゴに協力的な妙齢の女性キャラはたいがいゴルゴとベッドをともにすることから類推して、ここでの後流悟の
「(…………)」
は、そういう展開になることを期待しているもの、と読める。顔を赤くしているのでそうみてまちがいない。
両さん
い子どもの前で危険な暴走をした不良を捕まえ、本田は子どもの前で土下座で謝らせる。また、学校にたまった不良たちに両さんは、「警官もクソもねえよこのやろう/まだガキのぶんざいでそれが目上にいうことばか!」「うしろからやるとは男のクズだなこいつ!」と言ったりする([暴走学園!])。
 両さん(や本田)の魅力の一つとして、はちゃめちゃな行動をする反面、人と人との関わりのなかで最低限のモラルについて守らない者は許さないことが挙げられる。もちろんそれは、親や教師が教え諭すというのとは違うあり方として。

ャグ・エイジ]では、時計の修理をする両さんが見える。このころから手先が器用という属性が積極的に示されるようになる(ただしここで修理した時計は中川いわく、「すごくうごきが早いよ みるみるうちに時間がすぎてゆく」p122-7)。
 また、手先が器用というのと同時に、「プラモつくりながら力つきて寝てるよ!」([親心…]p176-5)というように、プラモをつくる両さんもまたこのあたりから描かれはじめる。折からの「ガンダム」ブームにあわせてか、両さん<手先が器用+プラモ+おもちゃ>三位一体属性の始発期といえよう。
■部長
心…]で、娘・ひろみとその夫の角田の新居を、両さんと訪ねる。嫁に出した娘が気になるけれど、立ち入るのもためらわれる、という、父親の心が見える。そして、なんだかんだ言ってもそういう部長の胸中を理解している両さん。それを聞いたひろみの、父を思うカット(p192)も印象的。
 終電まぎわの商店街を、笑いあいながら二人並んで次の店に向かう、電車と踏切の音しかしない最後のコマもあわせて、時々読み返したくなる佳品。両さんのあつかましさゆえにとんとん新居訪問の話が進んでしまっていく前半部のおもしろさと、後半のしんみりさがうまく絡み合う。
 『派出所』のなかの「いい話」としては、[浅草物語]などが人気が高いらしく、[浅草物語]も確かにいいとは思うが、「いい話」ならば私はこの回を推す。
●その他:
 YMOとガンダム関係の書き込みが多い。「ザク ぐふっ」(p106-1)とか。

◎ノート:
「歩の成りか…」 (p78)

「ちゃんと動くんですか このやつ……」「あたり前だ 保証つき! とまる寸前までうごきつづける」(p122)
 なおこの保証書は、 「ほしょうしょ このとけいは3年かん 止まらんと思う 両津工業(K.K)」 とのこと。

「すいませんスーパーカブさん」「こいつ相当おかしくなってるぞ」(p165)



25巻

■両津家
津家の人々]で父・銀次と、弟・金次郎が登場。銀次が描かれたのは二度目。
■部長
しの大切な帽子を!/ゆるしちゃおかんぞ!!/このやろう!!」「すごい撃ち方だ!!」「本当に警官か!?」([サイド・ビジネス]p116)
 いざというときの部長の狂気。数週まえに嫁に出した父という人情話やったすぐあとにこういう部長を見せる。
 部長の狂気といえばこのコマがベストだろう。「本当に警官か!?」というヤクザのツッコミがあまりにまっとうで笑える。
■麗子
田海彦に語る言葉に、「自分の思う通りに生きていていつも明るく人生を楽しめる人よ うらやましい」([わたしの両さん]p133-1)とあるように、両さんへの憧れを隠さない。22巻ですでに両さんへの好意は見て取られたが、恋愛感情そのものとは言わずとも、麗子が両さんのことをこう評しているのは注目されよう。
 とはいえ、最初海彦に連れ去れる麗子が両さん「両ちゃん助けて」と助けを求めてるわりには、両さんは海彦が捨てたダイヤを必死に探していて聞く耳を持ってさえいないけれど。


◎ノート:
「おや? 金があった…? いつの間にポケットに…/買う買う 6万あるから6丁くれ!はっははは」「大胆な買い方する人ね」(p155)

(2001/08/28。02/07/22二訂。21/07/15再録・語句一部修正。)

『冴えない彼女の育てかたFine』の「ULTIMATE♭」:過去を引用し現在と未来の立ち上げを支える歌詞と旋律について

 劇場版『冴えない彼女の育てかたFine』(2019)の、一番のクライマックスの場面で流れる挿入歌「ULTIMATE♭」を起点に考えたことを記したい。(以下ネタバレあり)

 


 テレビシリーズ『冴えない彼女の育てかた』3話の「M♭」、2期8話の「ETERNAL♭」、2期最終話の「GLISTENING♭」と、倫也と加藤との関係が進展する局面で、安野希世乃の歌う挿入歌が流れてきた。特に「GLISTENING♭」は「M♭」のメロディをゆったりしたテンポに変えて変奏させた曲で、桜の季節の坂道でのやりとりという場面の反復とあいまって、かつてと今との加藤の心境の変化、倫也との向き合い方の変容をよく表していた。

 今回の劇場版の、クライマックスといえる場面で流れる挿入歌「ULTIMATE♭」は、もちろんこの流れの中にあるものである。栁舘周平作編曲のこの曲は、キスシーンにさしかかる場面に配されて、ここぞというタイミングの

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この場面で間奏にさしかかる。この間奏のストリングスの旋律が、「M♭」「GLISTENING♭」(作曲は奥井康介)のサビのフレーズを3拍子に変奏したものであることにテレビシリーズから見てきた視聴者は気づくだろう。安野希世乃が歌っているからと言うだけではないかたちで、視聴者にこれまでの物語を呼び起こしてくる。

 そのストリングスの横を走り抜けるようにピアノが脇を固めてこのフレーズが終わったあと、低音は1小節ずつ音を上げていって、倫也の緊張と昂揚を観る側に喚起させていく。ここには「坂道を一歩一歩登る足跡がいつか輝くなら」という「GLISTENING♭」の歌詞と響き合うような、坂を登ってゆくイメージが潜まされてもいようか。これを倫也だと見るなら、想像をたくましくさせて、16分音符のピアノを加藤の先行して走って坂を登るさまととって対比させてみるのも許されるかもしれない(下掲、左は加藤、右は倫也)。

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(2期11話)

 そして、「ねえ、企画書になかったよ」と歌われて間奏による高まりがいったん落ち着いたあと、さらに音楽は再び盛り上がっていき、「心の絶縁体/外すのにずいぶんかかったね」という作詞稲葉エミパンチラインがサビとしてもたらされる(「絶縁体」という語の選択は、「ETERNAL♭」の「夢の置き場所のパスワード」「後悔の詰まったゴミ箱は…空にしておこう」にも通じる絶妙さがある。倫也は絶縁体を扱う類いのオタクでは無いと思うがまあよいのだ)。

 この歌い上げられるサビの昂揚が、二人のやりとりの一番最良の瞬間に重ねられる。こちらが恥ずかしくなってしまう展開だけれども、それをしっかりアニメとして総合的に実現されていることは記録しておきたい。なお、安野のビブラート(「ヒロインがい「い」心の絶縁た「い」」の二回の「i」)で歌い上げられる部分が、「フラット」とされてきたはずの加藤の感情の高まりを脇からよく表現している。このことは後述する2期8話も同様で、その反復・発展的な表現だともいえる。

 

 さらに、この稲葉エミの読み込み力と表現力によってなされる歌詞が、これまでの物語を呼び起こしながら新たな意味づけを施していることにも着目したい。歌詞にあっても、シリーズの集大成としてのこの場面を挿入歌というアプローチから支えることを成し遂げている。

 一つには、歌詞に、おそらくはテレビシリーズのOP曲やED曲、挿入歌のタイトルが散りばめられているだろうということ。冒頭「君が足りなかった、36度5分」とは、挿入歌タイトル「365色パレット」からであろう。この数字遊びは、2期8話の「2:14」が2月14日を連想させるという趣向

f:id:rinraku:20210508000110j:plain(2期8話)

との響き合いと読むと面白い(ちなみに2期8話のこの直前、「私もしーらない。」の足をバタバタさせるところで思わず声が弾んでしまうという加藤の描写、

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いままで英梨々と倫也、詩羽と倫也の関係に一歩引いてきた加藤が、すでに8話中盤から行動は浮き立っていたながらまだフラットを崩さなかったのに、ついにここに至って声にその浮き立ちが出てしまうという心理が、とても細やかな演技・演出・絵・動きによって表現されている。ここでの加藤の声の弾みのためにここに至るまでの全ての加藤のフラットなトーンがあったのではないかと言ってもよいぐらいだ。ちょうどここに「ETERNAL♭」(作曲は大畑拓哉)の、ついにビブラートを効かせて歌い上げられる箇所があわせられている。そして「おやすみ」からのED曲、そこで示されるキャストが二人だけで、

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本当にこの二人の対話だけで一話が作られていたのだという衝撃と痛快さを覚えさせられる)。

 また、作中省略されているが歌詞カードによると「風」・「星座」とあり、これはOP「ステラブリーズ」(星+風)からか。さらに2番Bメロ「妄想・幻想・執着」の「妄想」は、EDを歌う妄想キャリブレーションからだろう。1番の「雨・風・太陽・酸素」の「風」が(ステラ)「ブリーズ」であるとすれば、同じBメロに配置させてOP・EDの照応を示しているのかもしれない。

 そして、サビでの「黒歴史も白昼夢も蒼かった日々の笑い話」。最後の「蒼かった日々」は「青春プロローグ」ともかかるかと思うけれど、「黒」「白」「蒼」の色の対比は1期ED「カラフル。」を想起させる。

 こうしたこととともにもう一つ、これまでの物語の作中のキーフレーズをきちんと取り込んでいること。「もうなんだかなあ、だよね」は、加藤が倫也に巻き込まれていて発せられた最初の頃(2話ラストが典型的*1)と、そんな相手に恋愛感情をもってしまった自分にむけての発話とも受け取られる現在のそれとで意味や対象が変容しているはずで、そういう物語内の時間と人物を象徴するセリフの直後に、先に触れた間奏の「坂道を一歩一歩登る足跡がいつか輝くなら」を思わせるフレーズが変奏で配される。「タイミングだけ間違えている」と劇中加藤が言う、その場面の音と歌詞と演出のタイミングは完璧であるという妙を見て取っていい。

 さらにいえば、間奏で呼び起こされる「M♭」の流れる3話は全編「企画書」の話であり、「GLISTENING♭」の2期最終話では、加藤の口から「企画書」の一節が言及されていた。何なら「ETERNAL♭」の2期8話も企画書の話だった*2。そういう物語内の時間を呼び起こすフレーズのあとに「ねえ企画書になかったよ」と、その企図を超える新しい時間を紡いでゆくことが提起される。これは加藤の心情を歌う歌であるが、大きく言えば『冴えカノ』は倫也の企図や型を超える物語であるともみなせるわけで*3、そのこともよく言い当てている。

 そしてもう一つメタにレベルを上げれば、おそらくは加藤恵というラノベ・アニメヒロインは、当初の企画意図からどんどん逸脱していったはずで(ある意味で「冴えない彼女」というコンセプトが加藤恵の意図を超えた成長によって破綻していく様相を私たちは見せられているのかもしれない。作者側も御そうとしても御しきれないことに接して御しきれないままにその自律的成長に委ねたフシさえ看取される)、そこまで読み取れる歌詞だと考えても楽しい。

 物語の大団円と達成が、挿入歌の側からも支えられるという幸福なあり方をここに私達は観ることができるはずである。

 (2021/05/09。本テキストは研究にあたります。引用は丸戸史明深崎暮人KADOKAWA ファンタジア文庫・映画も冴えない製作委員会『冴えない彼女の育てかたFine』およびテレビシリーズにより、文中で必要上同作の画像の一部引用をする場合amazonプライム版、およびdアニメストア版による)。ここでの画像の他媒体への転載を禁じます

(付記)「ULTIMATE♭」の音源は現在単体では購入できない。これはとても残念。

*1:2話といえば、2話と2期8話との対比もおもしろい。

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と、

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とのシンメトリー。斜め上から見下ろして腕を伸ばす構図は心理的関係の喩としてはたらくが、これが2話と2期8話では逆転して「倫也を圧倒する加藤」に転じるというおもしろさ。

*2:8話は7話後半を承けるが、7話最後が作品タイトル回収であるとともに、それが「冴えない彼女の育てかた」を「saenai_kanojono_sodatekata」とキーボードを打っているそのとおりの音でなされる気持ちよさも忘れがたい。

*3:これはこれで伝統的な物語の型のバリエーションではあり、「マイ・フェア・レディ」や『痴人の愛』などがすぐに思い当たるが、一方で、ギャルゲーや「育成」もの(?)の流れでも見ないとあまり生産性はないかもしれない。

『神のみぞ知るセカイ』私注4:最終二話、地上の恋について

(以下、同作のネタバレが大いに含まれます。同作の通読後に御覧ください)

 

4.最終二話、地上の恋について

 若木民喜神のみぞ知るセカイ』最終二話(26巻)について、いくつかのコマを取り上げて読みを提示してみたい。

 

 

26-197-5

「桂木えり!?」

 「えり」という名につながる「エリー」というあだ名で呼び始めたのはちひろである(02-081-3)。エルシィは「大好き」な「この世界」(26-178-1)に、桂馬の許可をもっていることを決める。

 このあと、エルシィは「にーさまは、 ゲームを終わらせに行きました!!」(26-201-3)というが、物語上の明示はないながらエルシィは、その相手がちひろであることを知っている。エルシィは、桂馬とちひろに与えられた世界で生きることを決める、と読みたい。

 

26-206-1 

 「お前が好きだ。」

 「好き」という語をめぐるやりとりはすでに述べてきたが、改めて述べれば、このセリフは17-179-3での「桂木は…私のこと好き…?」という問いへの直接の答えとなっている。

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(16-159-6、16-166-1、17-179-3)

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24-107-1、26-206-1 )

 扉を少し開いて述べているのはもちろん寓意的な表現であろう。一度偽った本当の思いを打ち明ける。

 

26-217-3

「はい!!」ドサ 「お前から没収したゲーム機だ。返してやる!!」「おわ――」

 二階堂が桂馬にゲーム機を返す。「あ、いーかげん没収したPFP返せ!! 忘れていないぞ!!」(14-125-2)というやりとりの直接の回収であるが、第一話以来、ドクロウが依頼人にして仕掛け人として桂馬にタスクを課し、のみならず事態が深刻化して息抜きとしてのゲームすらできなくなっていたことを思えば、事態が終息したあとに二階堂がゲームを返すのはきわめて象徴的である。つまり、桂馬の桂馬なりの日常への復帰が、このコマによって示される。

 

26-227-1

f:id:rinraku:20210101190915j:plain(26-227-1)

 朝の桂馬の告白(扉を少し開ける)に、いったん驚いたあと「死ねば?」(かつて、告白されたあとにここまでのことを言ったヒロインがいただろうか…。だが、翻弄されつづけたちひろを思うならば、そこまでのことを言う資格はある)と述べてドアを閉めたちひろが、夕方に現れる。歩を進めるために時間が必要だったことが示されている。

 そして、欄干に右親指を乗せていること。最初のちひろ攻略は、あかね丸でなされた。また、女神編での歩美とちひろとの三角関係の展開で、メルクリウスが出現するに至る歩美の大立ち回りの場面は、ライトアップされたあかね丸でやはりなされた。このとき、ちひろは欄干の手前でそこに立ち入っていない。その後、歩美に助言するためにあかね丸に乗るが、女神を見ることができない自分の疎外と特別でないことを痛感する。

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(19-147-3,19-153-3)

  そうしたちひろが、あかね丸に乗るのではなく、境界としての欄干に手を触れつつも、その手前の地上の側で、告白してきた桂馬とのやりとりの続きを始めようとするのは、これが攻略としてのそれではないこと(むろんちひろには攻略の記憶はないけれども)を表すのみならず、ちひろと桂馬のこの恋が地上の恋であることを表すもの、と読み取りたい。

 それと、もう一つ読みのレイヤーを重ねよう。欄干に添えたのが右親指であることには、ちひろの作った歌(「初めて恋をした記憶」)をめぐるやりとりが呼び起こされてくるのではないか。

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(14-019-3,4/26-227-1)

この歌が、曲も詞もちひろの桂馬への思いをかたどるものであり、桂馬が好きだといい、だが結果的に失恋をかみしめることになり、一方で桂馬がちひろを翻弄したことを悔やみ涙することになるものとなってしまったことはすでにみた。この曲が形をなしていく途中の二つの場面、ちひろが桂馬を隣に楽器店で試し弾きしたときも(14-019-3,4)、桂馬の家で聞かせてみせたときも(16-158-1)、ちひろは右親指のダウンストロークで弦をかきならしている。もちろん、ステージで演奏したときに重要な役目を果たす二つのピックをめぐるやりとりも(ピックは爪の代用である)ここに重なり合わされる。ちひろは現れた。一度苦く終わったちひろの桂馬への恋の端緒の記憶が、ここに再び現前する。

(16-158-1は厳密には親指ダウンストロークといいきれない。さらにステージでピックで弾いたのは完成したバージョンのはずで、だとすると、曲冒頭の着想をコードだけ親指で鳴らして桂馬に聞かせた楽器店でのやりとり―実は自分が恋をしていたことに気づきその恋が形をなし始める本当の初めのころの記憶―をとくに呼び起こさせるものと読むのもよいかもしれない)

 

26-228-2

「…その箱、なに?」「なんでもいーだろ。」

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 この1コマはとても重要なコマに思われる。夕方の光景をバックに、二階堂から返されたゲームを桂馬が抱えているということは、ドクロウから桂馬が与えられた非日常が終わったことを表している。しかしそれだけでなく、この告白が、日常としてのゲームとともにあるということは、このあとのちひろと生きる桂馬の生活が、ゲームを遊ぶこととともにありつづけることを予感させるものでもある、といえないだろうか。

 ややもすると、この物語は、ゲームという「非日常」の「非-人間的」な世界になじんだ主人公が、他者とのやりとりのなかで人間的日常を回復する物語、として受け取られかねない構成をもっている。けれども、<他者との関わり>に踏み出すという桂馬の変容は、ゲームを捨てることでなされるような通俗的なそれとはデザインされていないのではないか。ゲームはゲームで手にしながら、それと同時に他者との関わりがなされていく、そういうこれからの生活が、この一コマに含意されていると読みたい。

 

26-229-1

「何も考えていない。/だから…ボクもどーなるかわからん!!」

f:id:rinraku:20210101190920j:plain(26-229-1)

 人知を駆使し、因果を読み抜いて「攻略」という行動をしてきた桂馬が、ちひろとの関わりにおいて、それを捨てて、「ボクもどーなるかわからん!!」と表明する。「ボクも」とある。神から人の側に降りる瞬間を表すセリフ。

 「攻略」に翻弄されてきたちひろは、告白された朝から、それなりの受け止める時間と、このセリフによって、告白と向かい合うことができる。照れもあるが、その心理の動きが、二人の目が互いに逸らされるかたちで表現される。

 

26-230-3

「茶でも、飲みに行かん?」

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 他人と二人でお茶を飲む、ということをかつての桂馬がしえただろうか。桂馬が会食・共食をする場面は、攻略上の演技を除いては、家での食卓ぐらいしか描かれてきてない。店で(<家>の外で・社会で)、共にお茶をすることを持ちかけるちひろ。そしてそれは果たされるであろう。これまでの桂馬の対人のコミュニケーションのあり方に変容をもたらされたことが示されているセリフであるといえる。*1

 甲板でなく欄干の手前で、返されたゲームの箱を持ちながら、正面で向き合い、二人でお茶を飲みに行くことを予感させて(これを引きの絵で描く!)、桂馬の物語は閉じる。

 桂馬とちひろの物語の美しい総収。

 

26-236-1

「桂木さんも天理も…いえ…みんなが… 考え、悩み、まだ見ぬ道を歩んでいくのです。」

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  桂馬とちひろの物語が終わり、両者が退場したあとに天理とディアナの対話がある。そのあとに、エルシィが、第一話登場場面をなぞるように空を見上げて手をかざす。第1節でも述べたことは繰り返さないが、第一話と最終話との序跋の対応―構図の対応について私に解釈を付せば、ドクロウの命令の履行・従属(従属といっても暗いものではないが)を表すものから、まぶしい未来に目を向けるかのような所作へと、反復しつつ意味が更新される表現だと言えるだろう。

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(01-007-2/26-237-1)

そして、ここから先の物語はどういうふうにも変わっていくだろうことが示されている。そういった余地を残しながら物語は閉じる。

 その最後のページに付される「―神のみぞ知るセカイ・完―」というキャプション。ただ作品名を挙げたのではもちろん無く、この表題は、私たちに認識の更新を要求する。いうまでもなく、その表題の物語冒頭の意味(神=桂馬のみが知り得て、他の攻略されるヒロインたちはそれに気づかない世界)から、その示す内実が変容している(誰も知りえない(=「神のみぞ知る」)未来へと歩む物語へ)という仕掛けに気づくからであるが、その極から極へのどんでん返しだけでなく、展開とともに、「桂馬しか知り得ない」ことがどういう意味を持ってきたか、そこに意味の変化のグラデーションがあったことに思いを馳せてよい。

 こうしてこの物語は、未来への展望と世界の更新を示しながら閉じる。物語上、解決していない問題は、地獄世界に関しては多いように読み取られるが、地上の人の恋の話は、ここで終わるのであろう。

(了)

 

付記:ちひろと桂馬を軸において、読みを提示してきたが、考えを進めるにつれ、歩美をどう考えたらよいのか、振られるにしても歩美に救いはあるのか、という問題が想定外に頭をもたげてきた。実のところ、歩美は、陸上に秀でていることと、女神がいるということ以外には、構成上はかなりの部分でちひろと交換可能な存在である(他のヒロインはそうではない。)(ちなみに女神がいる点でちひろと位相差があるように思えるが、ちひろ自身も攻略によって変容がもたらされたのは事実であり、その位相差はそれほど大きくないとも解せる)。これは物語内の論理に基づく限り、結局は、桂馬が歩美ではなくちひろが好きだから、と理解するほかない。地上の恋の物語という大きなテーマに殉した側面もあるように思うが、振られる側の残酷はそれなりに描かれているといえる。それが十分に描かれたかは考える余地があるが、それも無い物ねだりであろう。

 

(2021/01/05。本テキストは研究です(営利目的でない)。引用は若木民喜神のみぞ知るセカイ』(小学館少年サンデーコミックス>、2008-14)、文中で必要上同作の画像の一部引用をする場合はkindle版による)。ここでの画像の他媒体への転載を禁じます

 

■私にギャルゲーのリテラシーが全くないこともあり、思わぬ読み落としや誤読もありそうだけれども、いったんここで終わりとしたい。なお、これは表現に基づいて読みを立ち上げる試みであり、「作者」の「意図」を読みに反映させることはできるかぎり排していることをお断りしておきたい。

参考:

『神のみぞ知るセカイ』私注1: 誰エンドになる物語か―ヒロインについて

『神のみぞ知るセカイ』私注2:女神編、恋の感情を操って現実世界を救うことの悲壮について

『神のみぞ知るセカイ』私注3:過去編、「現在」と「過去」の交錯と反復について

*1:共食をめぐる文学等メディアにおける表現については膨大な研究史や批評史があるが、ライトなところでは福田里香『ゴロツキはいつも食卓を襲う』(太田出版、2012)が簡便。なお、過去にゆうきまさみ『じゃじゃ馬グルーミンUP!』(小学館)の食事やお茶の場面について前身のサイトにまとめたことがあり、いずれここで再録したい(「『じゃじゃ馬グルーミン★UP!』、お茶の時間。―ゆうきまさみをお茶から読む。」2000)。