31巻 |
■両さん
◎箴言集
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32巻 |
■両さん
●その他ノート: 新聞オチの最初か。[悪魔がやってきた!]。 前述したが(16巻「■両さん」の項)、この回も、そもそも両さんは基本的には悪くない話のパターン。 ◎箴言集
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33巻 |
■作者
●その他ノート: ずっと気になっていたことなのだけれども、ある時期のまんが作品には、「私」の漢字に、律儀に「わたくし」とフリガナを振ってある。 『こち亀』で言えば、見たかぎりでは[漫画家残酷物語]、p9-1の両さんのセリフ、「これが私(わたくし)の仕事だからな」が最初ではないか。 多くのまんが作品や雑誌を調査したわけではないのだが、
この問題は、まんがの(自主的な)社会への意識をさぐるのにも、いわゆる常用漢字的規範の緩和を考えるうえにも、けっこうおもしろい素材であるとずいぶん前から思っています。 それはそれとして、この回は、同時期の売れ筋のまんががちゃかされていて好もしい。
◎箴言集
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34巻 |
■両さん
●その他ノート: [煙はEなもの!?]という題名のセンスって、──題名をつけるのが誰なのかは知らないし特定しようという気もないけど──何なのだろう。今の子が「縁は異なもの」ってフレーズを使うだろうか。こういう妙にインテリ度の高いサブタイトルは初期に非常に多い。 ちなみにこの回、たばこ屋のばあさんが両さんの指名手配書を見るコマがあるが、この指名手配書の写真が目の前の両さんの表情とまったくいっしょなのが笑える(p51-5。写真が汗までかいてる)。このへんの呼吸の絶妙さは、やっぱり30巻台が頂点。 同様のものとしては、中川が「昨日は東京のあちこちで不思議な現象がおきたらしいですね部長!」といいながら読んでいる新聞の見出しが、「作日は東京のあちこちで不思議な現象がおきたらしいですよ!」(33巻[時間よ止まれ!?]p118-5。原文ママ)だったり。 [白バイ隊員・舞昆クン!!]、当時は家庭用コンピューターは、パソコンとはいわずマイコンと言ったことに注釈が必要な時代になってしまった。 ◎箴言集
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35巻 |
■両さん
●その他ノート: 「笑っていいとも!」を見る両さん([遊び大好き!]p7-6)。友達の友達はみな友達だ。世界に広げよう、友達の輪。 ちゃんと電話が書き込まれているところが心憎い。そういえば、ゲストがプッシュホンでかけていたころ、ダイヤルを観客席から見えなくさせるための黒いプラスティックの覆うやつ、子機になった今でも、ゲストが自分でかけるケースのときにはたまに出るようで、妙に懐かしかったりする。 木曜スペシャルで発見されたといういわくつきの県、度井仲県。
出来杉くんによれば、もはや地球上に秘境の新発見のみこみはないという。唯一、「ヘビー・スモーカーズ・フォレスト」を除いては。……というわけで、たぶん度井仲県もこれまでは「いつも雲がかかっていて衛星写真がとれな」かった(『のび太の大魔境』)のだと思われる。 ◎箴言集
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『こち亀』野郎!―『こち亀』追跡200キロ:26~30巻
26巻 |
■両さん
●その他ノート: [両津式貯蓄法!?]は、数多い「両さん金儲け話」でも名作のうちに入るだろう。なにが名作かって、両さんが金を貯めているというだけで中川と麗子が真剣に驚いているのがいい。この驚き方には、ギャグまんがだからといったような、照れや甘えがない。
[ガンコ電車]は都電荒川線が主人公。のちにトローリーバスも取り上げられるようになる。こういう、東京が忘れてしまったものをすくいあげるのは『派出所』の得意技。ちなみに、轟の三つ子の息子はいうまでもなく『魔法使いサリー』より。 ◎箴言集
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27巻 |
■佃名誉警視正
◎箴言集
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28巻 |
■島雪之城
●その他ノート: [新雪之城変化!?]の冒頭は、なつかしキャラのその後について触れられている。なつかしいことそれ自体をギャグとしようとする、のちの星逃田の扱われ方とはやや異なり、この冒頭はうがった見方でいえば、初期『派出所』の清算のにおいがする。道を尋ねる新潟出のおじさんが後ろ姿しか見せていないそっけなさもその理由の一つ(じっさいには30巻[親子水入らず!?]でもう一度登場するが)。フータローたちが住み着いていたことは触れられなくなっていき、亀有公園はクリーンな場となっていく。 [新雪之城変化!?]を『派出所』の数度の転換点の一つと見なしておいていいかもしれない。 『ゴルゴ13』ばりの身のこなしが印象的な(p154-1)、[根暗世代]に登場する根暗な青年は、ほかの根暗キャラの回に比べ、ぶつかってきた女の子の自転車を壊してそのままで、その点において救いがない。『派出所』では、根暗な行為によって迷惑をかける根暗な人物が、その話のなかで性格改善されることはめったにないのだが(これは『派出所』における人間観を表していよう)、この青年は群を抜いている。 ◎箴言集
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29巻 |
■本田
●その他ノート: レジャーネタ、不動産ネタ、戦車・車・飛行機のホビーネタ、と、のちに繰り返されていくパターンは、このあたりでかなり確立されてきているようである。 前巻の[雪之城変化!?]にも、少年まんがの少女まんが化が皮肉られていたが、本田の失恋を描く[ハローグッバイ!]が、麗子の読んでいる「ついに少女まんがとの区別がつかなくなった」(p159-5)少年誌からスタートしていることに注意してみたい。 こういうまんがに対して両さんは「最後は結局ハーピーエンドじゃないか…」(p159-1。原文ママ)と言っているところは重視すべきだろう。少女まんが化する少年まんがのお手軽な恋愛へのアンチとして、本田は失恋すると読めるのである。 「月は遠くでみるからきれいなんだよ…/わしなぞなん度アポロになったか数えきれん」(p191-3)という、両さんにしては唐突なセリフにも、反「お手軽な恋愛」的志向を見てとることができようか。 ◎箴言集 |
30巻 |
■両津家
●その他ノート: p46やP68など、構図に凝りはじめている。 ◎箴言集
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『こち亀』野郎!―『こち亀』追跡200キロ:16~20巻
16巻 |
■部長
●その他ノート: [クラス会]は、警察官に何の因果かなってしまった両さんと、ヤクザになった幼なじみ・金太とが再会、という、のちの[浅草物語]にもテイストがひきつがれる佳作。最終コマの小ささなど、あまり感動させようと力が入りすぎていないところがむしろいい。 今の稼業を思い直してクラス会に入るのをためらう金太を、こだわりなく店に入れようとする両さんには、やっぱりホッとさせられます。 ◎箴言集
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17巻 |
■星逃田
●その他ノート: [ギア・チェンジ!?]、「団地族」への批評を含む。 ◎箴言集
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18巻 |
■星逃田
●その他ノート: [ふたりの本田!?]。のちの[追跡200キロ!]などにも脈々と引き継がれるが、基本的にカーチェイスをかっこよく表現することへの憧れに満ちている。 「直線では260Zのほうが上だ!」(p80)の中川のかっこよさは『こち亀』中、随一。 ◎箴言集 |
19巻 |
■部長
●その他ノート: [両津大明神!?]。p146での部長と両さんのやりとり、
◎箴言集
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20巻 |
■麗子
●その他ノート: [ガキ大将!勘吉]は、両さんの少年時代ばなしの初期型。基本に在るのは、下町文化へのノスタルジーと、「ガキは元気で上等!」(p142)。 [男たちへ…!]、[親をよべ!]は、「最近の若い者」批判。とくにこの巻の終わりの数話は説教くさい。 『こち亀』が10巻を超え、長期化(もちろん当時においては、十数巻でもう長期化と言っていいはずである)が見えてきたあたりから、すでにこのまんがは、教条性と情報性を身にまといはじめていたのであった。 |
(2001/08/23初版。10/09改訂、2002/07/21二訂。2021/09/18再録)
ラブひな雑考
ジャンプ+やマガポケの類いをいくつかまとめて見ると、針に糸を通すようによくもまあこんな微細な違いを見つけてそれをテコにお話を立ち上げるなあ、と、驚きと呆れとが交錯する。もちろんその中にも珠はあるのだけど、いわゆるハーレムものを複数本読むと、「恋敵」が本当に要請されなくなってきたな、と思う。
恋愛ものに実は恋敵は要らないのではないか。これを思い切ってまんがの世界で戦略とした人の一人はまちがいなく赤松健だと思うのだけど、このことについて日記風に書いたことがある。いま見直したら2002年だ…。ちょっと偏頗な見方なのは自覚しているけれども、時代の証言ではある。当時の自分のノリの今読み直すとキツい部分を一部削除して再録しておきたい。
*******
●ここんとこ、あれこれしんどいことが多くて、一時間ちょっとほど、まんが喫茶で息抜きをすることがたまにある。
●で、ここ数回、まんが喫茶で読みついでいるのは『ラブひな』だ。
●じつは、『ラブひな』をまともに(つまり、人物設定・世界設定を知ったうえで)読むのは、これがはじめてなのでした。
●もう少し付け加えておけば、いま書こうと思っている原稿に「萌え」についてのコメントを交えたいと思っておりまして、ゲームは一切やらないわたくしとしては、せめて「萌え」まんがのスタンダード(と見受けられる)『ラブひな』ぐらい、読んでおかねば、という動機が、あるにはある。
●分析的・構成的にいろいろ感じたことは、今ここでは簡単にはまとめられないが(でもその大体は、「C-WWW」の「What's new!」によりクリアな形でほとんど触れ尽くされているのをいま確認してしまいました)、そういう見方を排し、単純な展開の読み手として、とりわけとてもいいなあ、と思ったのは、
・瀬田と再会した成瀬川は面と向かえず逃げ出すが、走りながら瀬田のかっこよさを思い浮かべて顔がにやけてしまうところ
・最終回まぎわの山手線の用い方
の二点。
●にやけてしまうってのは、それは憧れ(や過去の恋)の対象ではあっても、現在形の恋愛対象として捉えていない、ってことを示している、っていう読みでいいですかね。でその一方に、それをわかることができず二人をくっつけようとする景太郎を置く、っていう妙。
●心理のくいちがいを読者にもたらす表現、ってのは、ついついこれまでのまんが史のなかでのパターンに頼ってしまいがちなのだけど、こういうのは、ぼくは初めて読んだのでした。
●山手線は、表現じたいがまずとてもよかった。それから、乗り過ごすっていう展開じたいは簡単に予想できるものだったんだけど、そのベタな展開をやり通したところが、『ラブひな』の結局はすごいところと言えるのではないでしょうか。
●山手線(ループ)ってのは二重、三重に、比喩的なものとしても機能してるのですけども。(02/08/27)
*******
●前回より続かせてみよう。『ラブひな』は、作者自身随所で述べているらしいが、とにかく計算され尽くされた作品である。いくつか関係する言説をネット上で拾ってみたが、作者じしん、それを明らかにするのを楽しんでいるフシさえある(開き直りもあるのだろうけれど)。
●何しろ自分と対置するのが「芸術家」肌のまんが家だ。いっそすがすがしいじゃないですか 。
●この開き直りがあるから、オレはこのまんがが読めるんだな、たぶん。打算しつくしているのだけど、それを明かすことに対しては打算がないのだ。(というと何かを言い得た気もするが、何も言ってない気もする。)それは作者の言説によるのではなく、すでに作品から感じ取っていたことだった。
●さて、計算され尽くされているだけに、このまんがには「萌え」のカタログ的な要素があります。昨日紹介したfukazawaさんに、「少年誌でのラブコメマンガのリファレンス的な作品」と言われているのは、とっても妥当な表現だと思う。
●で、ふとドキっとしたのは、この世界を読み進めていくと、いわゆる「萌え」的な把握ほどではないにせよ、自分の好みがどこにあるのか、自分がどういうシチュエーションをラブコメとして好むのかが、浮き彫りになってきてしまうことがわかった瞬間でありました。
●ちょっと高みに立った言い方をわざとしてますが、でもそう感じたのだから仕方がない。ではわたくしの好みとはどこにあったのか。
●「カタログ的要素」を持った作品はたぶんここ十年、とりわけゲームの世界でこれでもかこれでもかというぐらい出ているはずなのですが、たぶんおれはそれらの世界には入っていけないと思う(あくまで私の好みの問題)。『ラブひな』が予想に反してスッと私のなかに入ってきたのは、上述したとおり、ある種の放埓さによるところが大きいと思います。(02/08/28)
*******
●前回から続く。『ラブひな』を読むことで自己確認したのは、結局のところ、表層的ないわゆる「オタク」系ガジェットには、わたくしにとって、読むうえでグッとくる「記号」として全く機能しないな、ということでした。
●だからたぶんぼくは『ラブひな』の「正しい」読者じゃないのだろう。
●その一方で、どんなに伝統的パターンを踏んでるのがわかってても、主人公・ヒロイン・ヒロインと仲のいい恋のライバル(『ラブひな』の場合、{景太郎・成瀬川・むつみ}…と言うべきところだが実は{景太郎・成瀬川・素子}。)という状況のもとに「実行」される、一定の水準はクリアした「ラブ」と「コメ」が、そこにあるのなら、わりかしすんなり満足してしまうんだなあ、ということもわかった。イヤってほどわかった。ふだん小難しいことを言っているように受け取られがちであるが、じつのところわたくしはお手軽なのだということがわかった。
●やっぱり「正しい」読者なのかもしれません。
●ただ、『ラブひな』の場合、「伝統的パターン」の「踏」み方が問題なのであって、しかしわたくしがそれを受容したのは前回述べたとおりです。
●まんが自由研究サイトをやっているからには、この「カタログ」を、切り分けていきたい欲求にかられもしている。いや、キャラの要素(属性)を切り分けていく欲求はあんまりないのだけど(別に、ぴょんと立った「アンテナ」にも、「猫耳」コスプレにも、剣道にも、メイド服にも、それが何を狙ってるのは全然わからないのです)、ラブコメそのものの要素を切り分けていく欲求をいだかされたのでした。言い換えれば、「成瀬川」なり「素子」なりの、キャラに与えられている属性を分析するのではなく、「成瀬川―景太郎」なり「素子―景太郎」なりの、ラブコメのシチュエーションを分析したい、ってことになりますか。時間さえあればですが。(02/08/30)
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●「あんまりだああ」と泣きわめく素子の元ネタはエシディシでOK?
●と、検索とかするとうんざりするほどよく見かける「オタク」系日記のふりをしつつ(ホントはフォントを大きくしたりするともっとそれらしくなるけど)、心底今更極まりない『ラブひな』の話題は、今日でやめます。
●でも、いろんな意味で語り甲斐のある作品だ。「史」視点をもったまんが「研究」が世上に少なからず出回ってますが、昭和中期をこねこねやるより、よほど『ラブひな』を現代という「史」視点から切り取るほうが、個人的にはおもしろいと思うのです。
●さて、この世界には、景太郎とひなた荘の女の子たち以外の、彼ら彼女らを相対化する決定的な「他者」が登場しません。
●だいたい、景太郎の存在を根底から揺るがす<男>が登場しない。景太郎は決して相対化されないのです。成瀬川と景太郎の関係にあっては、まず瀬田がその役割を果たすはずなのですが、景太郎と瀬田は物語が進むにつれ一致していきます。いや、一致は相対化を呼び起こさないのかと言ったら、じつは一致が差異を引き起こして登場人物の関係を複雑に練り上げていくことを超絶的レベルで追及する物語はすでに1000年前から有り得るのですが、『ラブひな』では、一致と差異は決して登場人物を傷つけないんですな。
●東大に入る成瀬川は、とうぜん東大の<男>と接するはずなのに、モブキャラ以外の東大生はけっして登場しないし。
●で、このことは、普段のわたくしのまんがの読み方では間違いなく「欠陥」なのですが、すでに述べたように、この作品はそのあたり、確信犯でやっているところが作品内ならも作品外からも感じ取られるので、手を振り上げても振り上げた手のやり場に困ってしまうのです。
●前述の最終巻の山手線を回る場面、リアリティを持たせるなら乗客はたくさんいるはずなのに、乗客はまばらであり、途中からは全く描かれなくなり、最後には車掌からも起こされずに車庫へ行ってしまう、というのも、かなり象徴的だ。もっと言えば、この車掌が起こしにこないことを成瀬川がツッコんでることまで含めて、象徴的と言っていいはずです。ユートピアという「ウソ」を、「ホント」らしく飾ることなく、「ウソ」を「ウソ」と自覚してそれを隠さないのです。
●世に「ユートピア」まんが多しと言えども(ゆうきまさみももちろんその典型)、ここまで「他者」のいない世界を描くには躊躇してしまうはずなのだ。わたくしたちが「社会」に生きるかぎり「他者」との出会いによる相対化は避けられないことだからだ。けれど、徹底して「社会」や「他者」を描かないことを押し切って、そのことによるヒットを初めから狙い、なおかつ当たってしまうというのは、もうすでにわたくしたちの世界ってのは、どこか何か堰が切られてしまってるのかもしれません。
●もちろんこの反動はそのうちやってくるはずですけどね。つうか、ぼくの見立てでは(いや、もう誰か言ってるかなとも思うけど)、『ラブひな』は、「他者/自分(ATフィールド)」をめぐる小難しさがいきなり受けた『エヴァ』後に、その反動を見据えるという計算のもとに行われた可能性大です。だから『ラブひな』後とは、『エヴァ』的なものの反動の反動かもしれません。(02/08/31)
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後記、
最後、なんでも『エヴァ』につなげたがるのもこの当時ありがちな仕草だと赤面せざるをえない(今でもやっているけれど)。それはそれとして、「萌え」の対象を、静的な属性(記号)とするのではなく、より動的な状況(話型)とするものとして見るべきだという文中の主張は、当時もうすでになっていたのを私が見誤っていたのかもしれないし、この20年間でその事態が(こちらの予想を上回る展開で)どんどん先鋭化していったといえるかもしれない。
『こち亀』野郎!―『こち亀』追跡200キロ:21~25巻
『週刊少年ジャンプ』では『こち亀』の日暮登場回が掲載されるらしい。そういえば以前、秋本治『こちら葛飾区亀有公園前派出所』(集英社)に関するノートを書いていて、今読み返したら日暮についても触れていた。以下、そのページを再録する。
21巻 |
■両さん
[本口リカ登場!!]p123-1の丸囲みのコマとかを見て思うのは、初期『こち亀』がたまに見せる、圧倒的な「固さ」「ぎこちなさ」って何なんだろうか、ということ。 この巻で他に例を挙げれば、「迷子のワシにわかるか!バカッ」([メンソーレ]p81-4)なども、話のはじめのページで前回から続く状況の説明と導入の役割をするためのコマなのだ、と頭ではわかるけれども、両さんが声を張り上げているテンションの高さのわりには、声を張り上げるだけの必然性は見出しがたく、しかもおもしろいわけではない。「回のはじめには状況の説明をする」という愚直なまでの規範意識だけが先行しているように思われる。 実験的な回、まんがの枠組みを崩して遊ぶような回がたまにあるかと思えば、しかしオーソドックスな作り方は、当時においてもおそらく一昔まえの<まんがの様式>に、愚直なまでに忠実。このまんがが120巻を超えてなお続いている理由の一つは、こういうところにあるだろう。 ◎ノート: |
22巻 |
■部長
[ハッピーバースデー!?]と[カミカゼ・ポリス]、こういう「むちゃくちゃな手段なんだけど人助け」という話も定期的に見える。前者は、線路を走るバスが駅に律儀にとまってドアまで開けているコマ(p94-1)がよい。 なお両さんは船長に、「ははは このままハワイにでもいってみるかい?」と言われているが、のちに両さんはじっさいに、いかだでハワイへ、屋形船でガラパゴス諸島まで行ってしまったりもするのだった。 ◎ノート: |
23巻 |
■両さん
[運がよけりゃ]、このあと頻出するクイズネタの初発。問題のくだらなさと、答える間がいい。 ◎ノート:
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24巻 |
■星逃田 ■後流悟十三
YMOとガンダム関係の書き込みが多い。「ザク ぐふっ」(p106-1)とか。 ◎ノート:
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25巻 |
■両津家
◎ノート:
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(2001/08/28。02/07/22二訂。21/07/15再録・語句一部修正。)
『冴えない彼女の育てかたFine』の「ULTIMATE♭」:過去を引用し現在と未来の立ち上げを支える歌詞と旋律について
劇場版『冴えない彼女の育てかたFine』(2019)の、一番のクライマックスの場面で流れる挿入歌「ULTIMATE♭」を起点に考えたことを記したい。(以下ネタバレあり)
テレビシリーズ『冴えない彼女の育てかた』3話の「M♭」、2期8話の「ETERNAL♭」、2期最終話の「GLISTENING♭」と、倫也と加藤との関係が進展する局面で、安野希世乃の歌う挿入歌が流れてきた。特に「GLISTENING♭」は「M♭」のメロディをゆったりしたテンポに変えて変奏させた曲で、桜の季節の坂道でのやりとりという場面の反復とあいまって、かつてと今との加藤の心境の変化、倫也との向き合い方の変容をよく表していた。
今回の劇場版の、クライマックスといえる場面で流れる挿入歌「ULTIMATE♭」は、もちろんこの流れの中にあるものである。栁舘周平作編曲のこの曲は、キスシーンにさしかかる場面に配されて、ここぞというタイミングの
この場面で間奏にさしかかる。この間奏のストリングスの旋律が、「M♭」「GLISTENING♭」(作曲は奥井康介)のサビのフレーズを3拍子に変奏したものであることにテレビシリーズから見てきた視聴者は気づくだろう。安野希世乃が歌っているからと言うだけではないかたちで、視聴者にこれまでの物語を呼び起こしてくる。
そのストリングスの横を走り抜けるようにピアノが脇を固めてこのフレーズが終わったあと、低音は1小節ずつ音を上げていって、倫也の緊張と昂揚を観る側に喚起させていく。ここには「坂道を一歩一歩登る足跡がいつか輝くなら」という「GLISTENING♭」の歌詞と響き合うような、坂を登ってゆくイメージが潜まされてもいようか。これを倫也だと見るなら、想像をたくましくさせて、16分音符のピアノを加藤の先行して走って坂を登るさまととって対比させてみるのも許されるかもしれない(下掲、左は加藤、右は倫也)。
(2期11話)
そして、「ねえ、企画書になかったよ」と歌われて間奏による高まりがいったん落ち着いたあと、さらに音楽は再び盛り上がっていき、「心の絶縁体/外すのにずいぶんかかったね」という作詞稲葉エミのパンチラインがサビとしてもたらされる(「絶縁体」という語の選択は、「ETERNAL♭」の「夢の置き場所のパスワード」「後悔の詰まったゴミ箱は…空にしておこう」にも通じる絶妙さがある。倫也は絶縁体を扱う類いのオタクでは無いと思うがまあよいのだ)。
この歌い上げられるサビの昂揚が、二人のやりとりの一番最良の瞬間に重ねられる。こちらが恥ずかしくなってしまう展開だけれども、それをしっかりアニメとして総合的に実現されていることは記録しておきたい。なお、安野のビブラート(「ヒロインがい「い」心の絶縁た「い」」の二回の「i」)で歌い上げられる部分が、「フラット」とされてきたはずの加藤の感情の高まりを脇からよく表現している。このことは後述する2期8話も同様で、その反復・発展的な表現だともいえる。
さらに、この稲葉エミの読み込み力と表現力によってなされる歌詞が、これまでの物語を呼び起こしながら新たな意味づけを施していることにも着目したい。歌詞にあっても、シリーズの集大成としてのこの場面を挿入歌というアプローチから支えることを成し遂げている。
一つには、歌詞に、おそらくはテレビシリーズのOP曲やED曲、挿入歌のタイトルが散りばめられているだろうということ。冒頭「君が足りなかった、36度5分」とは、挿入歌タイトル「365色パレット」からであろう。この数字遊びは、2期8話の「2:14」が2月14日を連想させるという趣向
(2期8話)
との響き合いと読むと面白い(ちなみに2期8話のこの直前、「私もしーらない。」の足をバタバタさせるところで思わず声が弾んでしまうという加藤の描写、
いままで英梨々と倫也、詩羽と倫也の関係に一歩引いてきた加藤が、すでに8話中盤から行動は浮き立っていたながらまだフラットを崩さなかったのに、ついにここに至って声にその浮き立ちが出てしまうという心理が、とても細やかな演技・演出・絵・動きによって表現されている。ここでの加藤の声の弾みのためにここに至るまでの全ての加藤のフラットなトーンがあったのではないかと言ってもよいぐらいだ。ちょうどここに「ETERNAL♭」(作曲は大畑拓哉)の、ついにビブラートを効かせて歌い上げられる箇所があわせられている。そして「おやすみ」からのED曲、そこで示されるキャストが二人だけで、
本当にこの二人の対話だけで一話が作られていたのだという衝撃と痛快さを覚えさせられる)。
また、作中省略されているが歌詞カードによると「風」・「星座」とあり、これはOP「ステラブリーズ」(星+風)からか。さらに2番Bメロ「妄想・幻想・執着」の「妄想」は、EDを歌う妄想キャリブレーションからだろう。1番の「雨・風・太陽・酸素」の「風」が(ステラ)「ブリーズ」であるとすれば、同じBメロに配置させてOP・EDの照応を示しているのかもしれない。
そして、サビでの「黒歴史も白昼夢も蒼かった日々の笑い話」。最後の「蒼かった日々」は「青春プロローグ」ともかかるかと思うけれど、「黒」「白」「蒼」の色の対比は1期ED「カラフル。」を想起させる。
こうしたこととともにもう一つ、これまでの物語の作中のキーフレーズをきちんと取り込んでいること。「もうなんだかなあ、だよね」は、加藤が倫也に巻き込まれていて発せられた最初の頃(2話ラストが典型的*1)と、そんな相手に恋愛感情をもってしまった自分にむけての発話とも受け取られる現在のそれとで意味や対象が変容しているはずで、そういう物語内の時間と人物を象徴するセリフの直後に、先に触れた間奏の「坂道を一歩一歩登る足跡がいつか輝くなら」を思わせるフレーズが変奏で配される。「タイミングだけ間違えている」と劇中加藤が言う、その場面の音と歌詞と演出のタイミングは完璧であるという妙を見て取っていい。
さらにいえば、間奏で呼び起こされる「M♭」の流れる3話は全編「企画書」の話であり、「GLISTENING♭」の2期最終話では、加藤の口から「企画書」の一節が言及されていた。何なら「ETERNAL♭」の2期8話も企画書の話だった*2。そういう物語内の時間を呼び起こすフレーズのあとに「ねえ企画書になかったよ」と、その企図を超える新しい時間を紡いでゆくことが提起される。これは加藤の心情を歌う歌であるが、大きく言えば『冴えカノ』は倫也の企図や型を超える物語であるともみなせるわけで*3、そのこともよく言い当てている。
そしてもう一つメタにレベルを上げれば、おそらくは加藤恵というラノベ・アニメヒロインは、当初の企画意図からどんどん逸脱していったはずで(ある意味で「冴えない彼女」というコンセプトが加藤恵の意図を超えた成長によって破綻していく様相を私たちは見せられているのかもしれない。作者側も御そうとしても御しきれないことに接して御しきれないままにその自律的成長に委ねたフシさえ看取される)、そこまで読み取れる歌詞だと考えても楽しい。
物語の大団円と達成が、挿入歌の側からも支えられるという幸福なあり方をここに私達は観ることができるはずである。
(2021/05/09。本テキストは研究にあたります。引用は丸戸史明・深崎暮人・KADOKAWA ファンタジア文庫・映画も冴えない製作委員会『冴えない彼女の育てかたFine』およびテレビシリーズにより、文中で必要上同作の画像の一部引用をする場合amazonプライム版、およびdアニメストア版による)。ここでの画像の他媒体への転載を禁じます))
(付記)「ULTIMATE♭」の音源は現在単体では購入できない。これはとても残念。
*1:2話といえば、2話と2期8話との対比もおもしろい。
と、
とのシンメトリー。斜め上から見下ろして腕を伸ばす構図は心理的関係の喩としてはたらくが、これが2話と2期8話では逆転して「倫也を圧倒する加藤」に転じるというおもしろさ。
*2:8話は7話後半を承けるが、7話最後が作品タイトル回収であるとともに、それが「冴えない彼女の育てかた」を「saenai_kanojono_sodatekata」とキーボードを打っているそのとおりの音でなされる気持ちよさも忘れがたい。
*3:これはこれで伝統的な物語の型のバリエーションではあり、「マイ・フェア・レディ」や『痴人の愛』などがすぐに思い当たるが、一方で、ギャルゲーや「育成」もの(?)の流れでも見ないとあまり生産性はないかもしれない。
『神のみぞ知るセカイ』私注4:最終二話、地上の恋について
(以下、同作のネタバレが大いに含まれます。同作の通読後に御覧ください)
4.最終二話、地上の恋について
若木民喜『神のみぞ知るセカイ』最終二話(26巻)について、いくつかのコマを取り上げて読みを提示してみたい。
26-197-5
「桂木えり!?」
「えり」という名につながる「エリー」というあだ名で呼び始めたのはちひろである(02-081-3)。エルシィは「大好き」な「この世界」(26-178-1)に、桂馬の許可をもっていることを決める。
このあと、エルシィは「にーさまは、 ゲームを終わらせに行きました!!」(26-201-3)というが、物語上の明示はないながらエルシィは、その相手がちひろであることを知っている。エルシィは、桂馬とちひろに与えられた世界で生きることを決める、と読みたい。
26-206-1
「お前が好きだ。」
「好き」という語をめぐるやりとりはすでに述べてきたが、改めて述べれば、このセリフは17-179-3での「桂木は…私のこと好き…?」という問いへの直接の答えとなっている。
(16-159-6、16-166-1、17-179-3)
(24-107-1、26-206-1 )
扉を少し開いて述べているのはもちろん寓意的な表現であろう。一度偽った本当の思いを打ち明ける。
26-217-3
「はい!!」ドサ 「お前から没収したゲーム機だ。返してやる!!」「おわ――」
二階堂が桂馬にゲーム機を返す。「あ、いーかげん没収したPFP返せ!! 忘れていないぞ!!」(14-125-2)というやりとりの直接の回収であるが、第一話以来、ドクロウが依頼人にして仕掛け人として桂馬にタスクを課し、のみならず事態が深刻化して息抜きとしてのゲームすらできなくなっていたことを思えば、事態が終息したあとに二階堂がゲームを返すのはきわめて象徴的である。つまり、桂馬の桂馬なりの日常への復帰が、このコマによって示される。
26-227-1
(26-227-1)
朝の桂馬の告白(扉を少し開ける)に、いったん驚いたあと「死ねば?」(かつて、告白されたあとにここまでのことを言ったヒロインがいただろうか…。だが、翻弄されつづけたちひろを思うならば、そこまでのことを言う資格はある)と述べてドアを閉めたちひろが、夕方に現れる。歩を進めるために時間が必要だったことが示されている。
そして、欄干に右親指を乗せていること。最初のちひろ攻略は、あかね丸でなされた。また、女神編での歩美とちひろとの三角関係の展開で、メルクリウスが出現するに至る歩美の大立ち回りの場面は、ライトアップされたあかね丸でやはりなされた。このとき、ちひろは欄干の手前でそこに立ち入っていない。その後、歩美に助言するためにあかね丸に乗るが、女神を見ることができない自分の疎外と特別でないことを痛感する。
(19-147-3,19-153-3)
そうしたちひろが、あかね丸に乗るのではなく、境界としての欄干に手を触れつつも、その手前の地上の側で、告白してきた桂馬とのやりとりの続きを始めようとするのは、これが攻略としてのそれではないこと(むろんちひろには攻略の記憶はないけれども)を表すのみならず、ちひろと桂馬のこの恋が地上の恋であることを表すもの、と読み取りたい。
それと、もう一つ読みのレイヤーを重ねよう。欄干に添えたのが右親指であることには、ちひろの作った歌(「初めて恋をした記憶」)をめぐるやりとりが呼び起こされてくるのではないか。
この歌が、曲も詞もちひろの桂馬への思いをかたどるものであり、桂馬が好きだといい、だが結果的に失恋をかみしめることになり、一方で桂馬がちひろを翻弄したことを悔やみ涙することになるものとなってしまったことはすでにみた。この曲が形をなしていく途中の二つの場面、ちひろが桂馬を隣に楽器店で試し弾きしたときも(14-019-3,4)、桂馬の家で聞かせてみせたときも(16-158-1)、ちひろは右親指のダウンストロークで弦をかきならしている。もちろん、ステージで演奏したときに重要な役目を果たす二つのピックをめぐるやりとりも(ピックは爪の代用である)ここに重なり合わされる。ちひろは現れた。一度苦く終わったちひろの桂馬への恋の端緒の記憶が、ここに再び現前する。
(16-158-1は厳密には親指ダウンストロークといいきれない。さらにステージでピックで弾いたのは完成したバージョンのはずで、だとすると、曲冒頭の着想をコードだけ親指で鳴らして桂馬に聞かせた楽器店でのやりとり―実は自分が恋をしていたことに気づきその恋が形をなし始める本当の初めのころの記憶―をとくに呼び起こさせるものと読むのもよいかもしれない)
26-228-2
「…その箱、なに?」「なんでもいーだろ。」
この1コマはとても重要なコマに思われる。夕方の光景をバックに、二階堂から返されたゲームを桂馬が抱えているということは、ドクロウから桂馬が与えられた非日常が終わったことを表している。しかしそれだけでなく、この告白が、日常としてのゲームとともにあるということは、このあとのちひろと生きる桂馬の生活が、ゲームを遊ぶこととともにありつづけることを予感させるものでもある、といえないだろうか。
ややもすると、この物語は、ゲームという「非日常」の「非-人間的」な世界になじんだ主人公が、他者とのやりとりのなかで人間的日常を回復する物語、として受け取られかねない構成をもっている。けれども、<他者との関わり>に踏み出すという桂馬の変容は、ゲームを捨てることでなされるような通俗的なそれとはデザインされていないのではないか。ゲームはゲームで手にしながら、それと同時に他者との関わりがなされていく、そういうこれからの生活が、この一コマに含意されていると読みたい。
26-229-1
「何も考えていない。/だから…ボクもどーなるかわからん!!」
(26-229-1)
人知を駆使し、因果を読み抜いて「攻略」という行動をしてきた桂馬が、ちひろとの関わりにおいて、それを捨てて、「ボクもどーなるかわからん!!」と表明する。「ボクも」とある。神から人の側に降りる瞬間を表すセリフ。
「攻略」に翻弄されてきたちひろは、告白された朝から、それなりの受け止める時間と、このセリフによって、告白と向かい合うことができる。照れもあるが、その心理の動きが、二人の目が互いに逸らされるかたちで表現される。
26-230-3
「茶でも、飲みに行かん?」
他人と二人でお茶を飲む、ということをかつての桂馬がしえただろうか。桂馬が会食・共食をする場面は、攻略上の演技を除いては、家での食卓ぐらいしか描かれてきてない。店で(<家>の外で・社会で)、共にお茶をすることを持ちかけるちひろ。そしてそれは果たされるであろう。これまでの桂馬の対人のコミュニケーションのあり方に変容をもたらされたことが示されているセリフであるといえる。*1
甲板でなく欄干の手前で、返されたゲームの箱を持ちながら、正面で向き合い、二人でお茶を飲みに行くことを予感させて(これを引きの絵で描く!)、桂馬の物語は閉じる。
桂馬とちひろの物語の美しい総収。
26-236-1
「桂木さんも天理も…いえ…みんなが… 考え、悩み、まだ見ぬ道を歩んでいくのです。」
(26-236-1)
桂馬とちひろの物語が終わり、両者が退場したあとに天理とディアナの対話がある。そのあとに、エルシィが、第一話登場場面をなぞるように空を見上げて手をかざす。第1節でも述べたことは繰り返さないが、第一話と最終話との序跋の対応―構図の対応について私に解釈を付せば、ドクロウの命令の履行・従属(従属といっても暗いものではないが)を表すものから、まぶしい未来に目を向けるかのような所作へと、反復しつつ意味が更新される表現だと言えるだろう。
そして、ここから先の物語はどういうふうにも変わっていくだろうことが示されている。そういった余地を残しながら物語は閉じる。
その最後のページに付される「―神のみぞ知るセカイ・完―」というキャプション。ただ作品名を挙げたのではもちろん無く、この表題は、私たちに認識の更新を要求する。いうまでもなく、その表題の物語冒頭の意味(神=桂馬のみが知り得て、他の攻略されるヒロインたちはそれに気づかない世界)から、その示す内実が変容している(誰も知りえない(=「神のみぞ知る」)未来へと歩む物語へ)という仕掛けに気づくからであるが、その極から極へのどんでん返しだけでなく、展開とともに、「桂馬しか知り得ない」ことがどういう意味を持ってきたか、そこに意味の変化のグラデーションがあったことに思いを馳せてよい。
こうしてこの物語は、未来への展望と世界の更新を示しながら閉じる。物語上、解決していない問題は、地獄世界に関しては多いように読み取られるが、地上の人の恋の話は、ここで終わるのであろう。
(了)
付記:ちひろと桂馬を軸において、読みを提示してきたが、考えを進めるにつれ、歩美をどう考えたらよいのか、振られるにしても歩美に救いはあるのか、という問題が想定外に頭をもたげてきた。実のところ、歩美は、陸上に秀でていることと、女神がいるということ以外には、構成上はかなりの部分でちひろと交換可能な存在である(他のヒロインはそうではない。)(ちなみに女神がいる点でちひろと位相差があるように思えるが、ちひろ自身も攻略によって変容がもたらされたのは事実であり、その位相差はそれほど大きくないとも解せる)。これは物語内の論理に基づく限り、結局は、桂馬が歩美ではなくちひろが好きだから、と理解するほかない。地上の恋の物語という大きなテーマに殉した側面もあるように思うが、振られる側の残酷はそれなりに描かれているといえる。それが十分に描かれたかは考える余地があるが、それも無い物ねだりであろう。
(2021/01/05。本テキストは研究です(営利目的でない)。引用は若木民喜『神のみぞ知るセカイ』(小学館<少年サンデーコミックス>、2008-14)、文中で必要上同作の画像の一部引用をする場合はkindle版による)。ここでの画像の他媒体への転載を禁じます))
■私にギャルゲーのリテラシーが全くないこともあり、思わぬ読み落としや誤読もありそうだけれども、いったんここで終わりとしたい。なお、これは表現に基づいて読みを立ち上げる試みであり、「作者」の「意図」を読みに反映させることはできるかぎり排していることをお断りしておきたい。
参考:
『神のみぞ知るセカイ』私注1: 誰エンドになる物語か―ヒロインについて