"Logue"Nation

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『神のみぞ知るセカイ』私注4:最終二話、地上の恋について

(以下、同作のネタバレが大いに含まれます。同作の通読後に御覧ください)

 

4.最終二話、地上の恋について

 若木民喜神のみぞ知るセカイ』最終二話(26巻)について、いくつかのコマを取り上げて読みを提示してみたい。

 

 

26-197-5

「桂木えり!?」

 「えり」という名につながる「エリー」というあだ名で呼び始めたのはちひろである(02-081-3)。エルシィは「大好き」な「この世界」(26-178-1)に、桂馬の許可をもっていることを決める。

 このあと、エルシィは「にーさまは、 ゲームを終わらせに行きました!!」(26-201-3)というが、物語上の明示はないながらエルシィは、その相手がちひろであることを知っている。エルシィは、桂馬とちひろに与えられた世界で生きることを決める、と読みたい。

 

26-206-1 

 「お前が好きだ。」

 「好き」という語をめぐるやりとりはすでに述べてきたが、改めて述べれば、このセリフは17-179-3での「桂木は…私のこと好き…?」という問いへの直接の答えとなっている。

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(16-159-6、16-166-1、17-179-3)

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24-107-1、26-206-1 )

 扉を少し開いて述べているのはもちろん寓意的な表現であろう。一度偽った本当の思いを打ち明ける。

 

26-217-3

「はい!!」ドサ 「お前から没収したゲーム機だ。返してやる!!」「おわ――」

 二階堂が桂馬にゲーム機を返す。「あ、いーかげん没収したPFP返せ!! 忘れていないぞ!!」(14-125-2)というやりとりの直接の回収であるが、第一話以来、ドクロウが依頼人にして仕掛け人として桂馬にタスクを課し、のみならず事態が深刻化して息抜きとしてのゲームすらできなくなっていたことを思えば、事態が終息したあとに二階堂がゲームを返すのはきわめて象徴的である。つまり、桂馬の桂馬なりの日常への復帰が、このコマによって示される。

 

26-227-1

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 朝の桂馬の告白(扉を少し開ける)に、いったん驚いたあと「死ねば?」(かつて、告白されたあとにここまでのことを言ったヒロインがいただろうか…。だが、翻弄されつづけたちひろを思うならば、そこまでのことを言う資格はある)と述べてドアを閉めたちひろが、夕方に現れる。歩を進めるために時間が必要だったことが示されている。

 そして、欄干に右親指を乗せていること。最初のちひろ攻略は、あかね丸でなされた。また、女神編での歩美とちひろとの三角関係の展開で、メルクリウスが出現するに至る歩美の大立ち回りの場面は、ライトアップされたあかね丸でやはりなされた。このとき、ちひろは欄干の手前でそこに立ち入っていない。その後、歩美に助言するためにあかね丸に乗るが、女神を見ることができない自分の疎外と特別でないことを痛感する。

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(19-147-3,19-153-3)

  そうしたちひろが、あかね丸に乗るのではなく、境界としての欄干に手を触れつつも、その手前の地上の側で、告白してきた桂馬とのやりとりの続きを始めようとするのは、これが攻略としてのそれではないこと(むろんちひろには攻略の記憶はないけれども)を表すのみならず、ちひろと桂馬のこの恋が地上の恋であることを表すもの、と読み取りたい。

 それと、もう一つ読みのレイヤーを重ねよう。欄干に添えたのが右親指であることには、ちひろの作った歌(「初めて恋をした記憶」)をめぐるやりとりが呼び起こされてくるのではないか。

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(14-019-3,4/26-227-1)

この歌が、曲も詞もちひろの桂馬への思いをかたどるものであり、桂馬が好きだといい、だが結果的に失恋をかみしめることになり、一方で桂馬がちひろを翻弄したことを悔やみ涙することになるものとなってしまったことはすでにみた。この曲が形をなしていく途中の二つの場面、ちひろが桂馬を隣に楽器店で試し弾きしたときも(14-019-3,4)、桂馬の家で聞かせてみせたときも(16-158-1)、ちひろは右親指のダウンストロークで弦をかきならしている。もちろん、ステージで演奏したときに重要な役目を果たす二つのピックをめぐるやりとりも(ピックは爪の代用である)ここに重なり合わされる。ちひろは現れた。一度苦く終わったちひろの桂馬への恋の端緒の記憶が、ここに再び現前する。

(16-158-1は厳密には親指ダウンストロークといいきれない。さらにステージでピックで弾いたのは完成したバージョンのはずで、だとすると、曲冒頭の着想をコードだけ親指で鳴らして桂馬に聞かせた楽器店でのやりとり―実は自分が恋をしていたことに気づきその恋が形をなし始める本当の初めのころの記憶―をとくに呼び起こさせるものと読むのもよいかもしれない)

 

26-228-2

「…その箱、なに?」「なんでもいーだろ。」

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 この1コマはとても重要なコマに思われる。夕方の光景をバックに、二階堂から返されたゲームを桂馬が抱えているということは、ドクロウから桂馬が与えられた非日常が終わったことを表している。しかしそれだけでなく、この告白が、日常としてのゲームとともにあるということは、このあとのちひろと生きる桂馬の生活が、ゲームを遊ぶこととともにありつづけることを予感させるものでもある、といえないだろうか。

 ややもすると、この物語は、ゲームという「非日常」の「非-人間的」な世界になじんだ主人公が、他者とのやりとりのなかで人間的日常を回復する物語、として受け取られかねない構成をもっている。けれども、<他者との関わり>に踏み出すという桂馬の変容は、ゲームを捨てることでなされるような通俗的なそれとはデザインされていないのではないか。ゲームはゲームで手にしながら、それと同時に他者との関わりがなされていく、そういうこれからの生活が、この一コマに含意されていると読みたい。

 

26-229-1

「何も考えていない。/だから…ボクもどーなるかわからん!!」

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 人知を駆使し、因果を読み抜いて「攻略」という行動をしてきた桂馬が、ちひろとの関わりにおいて、それを捨てて、「ボクもどーなるかわからん!!」と表明する。「ボクも」とある。神から人の側に降りる瞬間を表すセリフ。

 「攻略」に翻弄されてきたちひろは、告白された朝から、それなりの受け止める時間と、このセリフによって、告白と向かい合うことができる。照れもあるが、その心理の動きが、二人の目が互いに逸らされるかたちで表現される。

 

26-230-3

「茶でも、飲みに行かん?」

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 他人と二人でお茶を飲む、ということをかつての桂馬がしえただろうか。桂馬が会食・共食をする場面は、攻略上の演技を除いては、家での食卓ぐらいしか描かれてきてない。店で(<家>の外で・社会で)、共にお茶をすることを持ちかけるちひろ。そしてそれは果たされるであろう。これまでの桂馬の対人のコミュニケーションのあり方に変容をもたらされたことが示されているセリフであるといえる。*1

 甲板でなく欄干の手前で、返されたゲームの箱を持ちながら、正面で向き合い、二人でお茶を飲みに行くことを予感させて(これを引きの絵で描く!)、桂馬の物語は閉じる。

 桂馬とちひろの物語の美しい総収。

 

26-236-1

「桂木さんも天理も…いえ…みんなが… 考え、悩み、まだ見ぬ道を歩んでいくのです。」

 f:id:rinraku:20210101190928j:plain(26-236-1)

  桂馬とちひろの物語が終わり、両者が退場したあとに天理とディアナの対話がある。そのあとに、エルシィが、第一話登場場面をなぞるように空を見上げて手をかざす。第1節でも述べたことは繰り返さないが、第一話と最終話との序跋の対応―構図の対応について私に解釈を付せば、ドクロウの命令の履行・従属(従属といっても暗いものではないが)を表すものから、まぶしい未来に目を向けるかのような所作へと、反復しつつ意味が更新される表現だと言えるだろう。

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(01-007-2/26-237-1)

そして、ここから先の物語はどういうふうにも変わっていくだろうことが示されている。そういった余地を残しながら物語は閉じる。

 その最後のページに付される「―神のみぞ知るセカイ・完―」というキャプション。ただ作品名を挙げたのではもちろん無く、この表題は、私たちに認識の更新を要求する。いうまでもなく、その表題の物語冒頭の意味(神=桂馬のみが知り得て、他の攻略されるヒロインたちはそれに気づかない世界)から、その示す内実が変容している(誰も知りえない(=「神のみぞ知る」)未来へと歩む物語へ)という仕掛けに気づくからであるが、その極から極へのどんでん返しだけでなく、展開とともに、「桂馬しか知り得ない」ことがどういう意味を持ってきたか、そこに意味の変化のグラデーションがあったことに思いを馳せてよい。

 こうしてこの物語は、未来への展望と世界の更新を示しながら閉じる。物語上、解決していない問題は、地獄世界に関しては多いように読み取られるが、地上の人の恋の話は、ここで終わるのであろう。

(了)

 

付記:ちひろと桂馬を軸において、読みを提示してきたが、考えを進めるにつれ、歩美をどう考えたらよいのか、振られるにしても歩美に救いはあるのか、という問題が想定外に頭をもたげてきた。実のところ、歩美は、陸上に秀でていることと、女神がいるということ以外には、構成上はかなりの部分でちひろと交換可能な存在である(他のヒロインはそうではない。)(ちなみに女神がいる点でちひろと位相差があるように思えるが、ちひろ自身も攻略によって変容がもたらされたのは事実であり、その位相差はそれほど大きくないとも解せる)。これは物語内の論理に基づく限り、結局は、桂馬が歩美ではなくちひろが好きだから、と理解するほかない。地上の恋の物語という大きなテーマに殉した側面もあるように思うが、振られる側の残酷はそれなりに描かれているといえる。それが十分に描かれたかは考える余地があるが、それも無い物ねだりであろう。

 

(2021/01/05。本テキストは研究です(営利目的でない)。引用は若木民喜神のみぞ知るセカイ』(小学館少年サンデーコミックス>、2008-14)、文中で必要上同作の画像の一部引用をする場合はkindle版による)。ここでの画像の他媒体への転載を禁じます

 

■私にギャルゲーのリテラシーが全くないこともあり、思わぬ読み落としや誤読もありそうだけれども、いったんここで終わりとしたい。なお、これは表現に基づいて読みを立ち上げる試みであり、「作者」の「意図」を読みに反映させることはできるかぎり排していることをお断りしておきたい。

参考:

『神のみぞ知るセカイ』私注1: 誰エンドになる物語か―ヒロインについて

『神のみぞ知るセカイ』私注2:女神編、恋の感情を操って現実世界を救うことの悲壮について

『神のみぞ知るセカイ』私注3:過去編、「現在」と「過去」の交錯と反復について

*1:共食をめぐる文学等メディアにおける表現については膨大な研究史や批評史があるが、ライトなところでは福田里香『ゴロツキはいつも食卓を襲う』(太田出版、2012)が簡便。なお、過去にゆうきまさみ『じゃじゃ馬グルーミンUP!』(小学館)の食事やお茶の場面について前身のサイトにまとめたことがあり、いずれここで再録したい(「『じゃじゃ馬グルーミン★UP!』、お茶の時間。―ゆうきまさみをお茶から読む。」2000)。

『神のみぞ知るセカイ』私注3:過去編、「現在」と「過去」の交錯と反復について

(以下、同作のネタバレが大いに含まれます。同作の通読後に御覧ください)

3.過去編、「現在」と「過去」の交錯と反復について

 解決したように見えた女神編のあと、桂馬が理由がわからないままに過去に戻ることになる。理由と、すべきことがわかりはじめるにつれて、物語は再びヒリヒリするような悲壮感のなかで進んでいく*1。 

 この過去編は、展開は過去改変モノの亜種であるが(因果関係の「因」を変えるのではなく、「果」にあわせて「因」をつくる)、その理屈は私にはちょっとわからないところもあるので横に置いておき、ここでは、過去に行った桂馬の物語と、女神編以前の現在の物語とが、キャラクターたちの言動や表現において緊密に関わりながら物語が構築されていく様相に着目して、いくつかの場面をたどってみたい。 

 24-090-5

「あれは天理の攻略じゃない!! そんなんで好きになるか!!」「じゃ、じゃ――違います――」/「(…… ……)」

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 これは、天理に好意を持たれたことに気づいて揺らいでいるのではなく、攻略という意図的な営為を超えて(自分のコントロール外の要因で)他から好意を持たれる、という点が、かつてちひろになされたことと同じであることと重なることに思いが至って揺らいでいる、と読むべきところであろう。

ちひろについては、そもそも桂馬は、

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と、攻略というカテゴリーに置きたくない思いも示されていた。そしてそのあと、世界を救うために攻略の対象として考えなければならないことと、それと無関係に好意を持ち、また好意を持たれていたこととの間で迷い、結果的に傷つき、傷つけたのであった。その経緯が去来するので、

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という心境を見せることになる。そしてその直後に、幼いちひろに遭遇する。

 

24-107-1

「……だよ…」

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 文化祭で「桂木は…私のこと好き…?」(17-179-3)と問われたときの本当に答えたかった答えを、攻略しなければならないゆえに偽ったのだったが(「好きな訳、ないだろ。」17-180-1)、いまここでつぶやく。

 

24-108-5

「(にーさまはすごいなあ、なんでもわかってるんだ……)」

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 桂馬のことを無謬だと疑わないエルシィ。それだけに桂馬の苦衷と孤絶(「(もう…先に進むのはイヤだ……)」24-112)が際立つという作劇。

 

24-170-3

「ボクには他人の気持ちはわからない。/だから、お前の言うことは100%信じる!!」

 この天理に対するセリフは、女神編の歩美を相手につぶやくセリフを反復する。

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(24-170-3、17-128-1)

 だが、その後のセリフは、かつての「ゲームのやり方」(攻略)だけに依るというものでなく、天理の助けを借りるというものであった。ここに桂馬の変容が示される。これはこのあとの「ボクがただ生きていることが、どれだけの意志で支えられていたか…」(25-125-1)ともつながる。

 

25-105-4

「お兄ちゃんは本当の戦いを知らない。でもそれは幸せなこと……」

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前節でも述べたが、正しい戦後少年まんが。

 

26-130-1

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 5人の女神の宿主にすべきヒロインたちにテープを巻きに行ったあと、最後に、歩美にテープを巻く。その直後、かつらをとった桂馬は、ちひろと歩美の二人が並んでいるのを見る。2コマめ、桂馬から等距離にちひろと歩美が並んで描かれ、歩美の首にテープはあり、ちひろの首にテープはない。この二人のどちらに女神がいるのかをつきとめるために労力を費やしつらさと苦しさを抱えてきたのに、実はそれを用意したのは自分だった、自分でなければならなかった、そしてこの行為によって世界は救われるがあの苦しかった現在という過去が現実のものにならなければならなくなる、という皮肉な展開とそれへの去来する思いが、この2コマと、何か言いたげだが言わないで去る次の2コマで、余すこと無く表現される。

 

26-155-2

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 天理=ディアナが、戻ってきた桂馬を一番に掴んで助ける。その権利はある。

 

26-182-1

「まあ、勝手にしろ!」

 全編で唯一、演技やゲーム中でない状況で笑みをうかべる桂馬。演技としての「笑う」桂馬は、天理が指摘する形ですでに物語のなかで対象化されていた。その桂馬がついに「笑う」こと。その相手がエルシィであることは、エルシィの特権的な位置を示す(ちひろにすら物語内では笑みは向けていない。結末までそれを通すのは、ちひろを傷つけたからでもあるのだろう)。そして、エルシィによってもたらされたこの「現実」を、桂馬が最終的に受容することも意味するといえる。(第1節も参照)

 そしてこのページの3、4コマでついに、長く26巻分を規制してきた1巻第1話の<難題>(首に輪がかけられる)が解消される。

 

(続く)

 

 (2021/01/04。2022/01/02字句修正。本テキストは研究です(営利目的でない)。引用は若木民喜神のみぞ知るセカイ』(小学館少年サンデーコミックス>、2008-14)、文中で必要上同作の画像の一部引用をする場合はkindle版による)。ここでの画像の他媒体への転載を禁じます

参考:

『神のみぞ知るセカイ』私注1: 誰エンドになる物語か―ヒロインについて

『神のみぞ知るセカイ』私注2:女神編、恋の感情を操って現実世界を救うことの悲壮について

『神のみぞ知るセカイ』私注4:最終二話、地上の恋について

*1:同作をきちんと読む以前、たまたまアニメ一期のオープニングだけ目にしたことがあって、四つ打ちで始まりながらも最後にチェンバロやコーラスを混ぜて教会音楽調の悲壮感を持たせたような曲だったことに、このまんがはたしかコメディだったはずで(その時はそう認識していた)、ずいぶん大仰だ、ギャップをねらっているのかしら、と感じたことがあったが、むしろそうしたアニメオープニングのトーンにまんがが引きずられていったのか。あるいはコメディに見えてその骨格をつきつめればシリアスにならざるをえないことを見通した作曲だったのかもしれない。

『神のみぞ知るセカイ』私注2:女神編、恋の感情を操って現実世界を救うことの悲壮について

(以下、同作のネタバレが大いに含まれます。同作の通読後に御覧ください)

 2.女神編、恋の感情を操って現実世界を救うことの悲壮について

 6人めの女神捜しの展開は本当におもしろい。女神捜しが話題になった初めの段階ですでに歩美とちひろが並べられ、「どちらとも」または「どちらか」という可能性が提示される。二人(とエルシィ、結)が文化祭でのバンド演奏に出ることが女神捜しの進展と同時進行に語られていく(文化祭が話の筋に絡むというまんがやアニメ、ゲームの王道!)。

 もともと、ちひろのバンドへの興味は、桂馬の攻略(攻略の記憶はないが)のなかで「真剣になれ!!」(04-086-3)と言われたことが大きく影響している。

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(04-086-3、04-087-2、04-108-1)

  これが反転して、桂馬ははからずもそのちひろに真剣になることをつきつけられる(「ならあんたも、もっと真剣にやれば?」19-167-4。<他に投げかけた言葉がめぐりめぐって自分に返ってくる>という話型*1)。

 だが、「真剣」になってしまうこととは、女神を出現させられなくなることと同義であり、そうすると、世界は救えない。それゆえに、感情を偽らざるをえない。そのことをちひろは知り得ない。あるいは途中でいくらかは知りうるものの全ては理解しきれずに、感情を翻弄されたうえで失恋としてそれをかみしめることになる。桂馬は、ちひろの(また同時に歩美の)感情を翻弄したことを知りつつも黙するほかなく、女神編はせつなさを抱えながら終幕する。

 この展開について、改めて表現に着目しながら細かく追ってみよう。

 

09巻-73ページ-1コマめ

駆け魂を出した後も/あなたの記憶が残っています」

 女神持ちのヒロインは攻略の記憶が残っているという、女神編の重要なポイントが提示される。このあと、かのんが刺されて重篤になり、桂馬はそれを自分のせいだとして「ボクはもう…二度と失敗はしない!!」(13-022-3)、「ボクは…ゲーム世界の…鬼になる」(13-094-1)と述べて物語のトーンが重くなる。

 かのんの命がかかっていること、また、女神を出さないと世界が滅びるというリミットが決められたなかでの攻防をしなければいけないことだけが重さの原因ではないことに読者は徐々に気づく。それまでの攻略では、攻略の後はその対象から攻略のことを忘れられるということが救いだったはずが、記憶が消えていないのであれば、桂馬は、生身(「現実」)の人間を相手に、騙して感情を左右する(操縦する)ことを、それも複数を相手に、齟齬無く継続させなければならないという事態に直面していることになるのである。どう決着するにせよ、他者を傷つけずに終わることはないことになる。このことはこのあとの展開をきわめて重く、苦しいものとしていく。

 

  09-055-3
「……/頭で考えた通りにはいかないな」
 七香回だが、桂馬が頭で考えた展開を、それぞれの人の情動が上回るということが示される。それが一番はっきりと示される人物はもちろんちひろであるが、それぞれのヒロインの物語でも、この要素はそれなりに示されている。

 

 12-026-4

「……攻略は攻略!! 今は攻略じゃない!!」

 桂馬のちひろへの思いは、物語においては最終二話以前まで一貫して「(…)」という形で読者に知り得ないよう表現され、そのときそのときで読者にそれを読み取ることを要求する(前述)。ここは、ちひろに関わっては攻略というカテゴリーではできるかぎり接したくない桂馬、と読める。

 

13-076-2

「忘れてていいんだよ……/女神なんていない方が…巻き込まれずにすむ…」

 f:id:rinraku:20210101191028j:plain(13-076-2)

 桂馬の表情に見て取れるように、女神編の悲壮はすでに始まっている。

 桂馬の行動を、恋愛感情込みで通俗的に理解していたハクアが、桂馬の置かれている状況と心境を次第に理解していく。ここでのハクアは読者の認識の足場となる役割を果たしてもいよう。

 

14-017
「ギター始めて半年だし…」/「半年か。」/「半年。」
 攻略を覚えているようにも、覚えていないようにも受け止められるセリフ。ちひろ・歩美のどちらかが女神という状況において、読者にミスリードを誘う。

 

14-021-1

「まぁまぁ、いい感じの曲だったな。」

歌詞でなく曲に対して良さを感じている点は注意される。後述16-159-6につながる。攻略として計算された感想ではなく、素の感想。

 

14-125-2
「あ、いーかげん没収したPFP返せ!! 忘れていないぞ!!」
最終話の伏線でもあるのはいうまでもない。二階堂からゲームを取り上げられていることは寓意的でもある(二階堂がPFPを返す場面については後述)。

 

14-159-1,2

「もっと痛めつけといた方がいいぞ…/お前の言う通りだ…… ボクは月夜を傷つけた…」
次ページに「どんな罰を受けてもいい…/あと少しの間だけ… ボクを好きでいてくれ……!!」と続く。半ば贖罪的な意識があることを見て取ることができる。

 そのあと、月夜が「私は桂馬を…信じていいの……?」という問いに、「ボクは死んだって…… 月夜を守るよ…!!」と述べる。「信じていい」とは言わない。月夜のセリフに正面から答えることはできない。世界を救うためには月夜を騙しつづけなければならないからである。

 

14-184-1
「と言う訳で、 これがここまでのあらすじだ。」

f:id:rinraku:20210101191054j:plain(14-184-1)

  センサーが光ってウルカヌスが現れたことがわかる演出。この前のページの書き文字とセリフが「どさ」「ん?」のみで、人形の倒れた音だけが示され逆に静寂が強調される構成からのこのページ。読者に音を聞かせていく聴覚表現的演出はたいへんに巧み。そして次ページ、「女神ヲ拘束!?」「身の程ヲ知レ…!!」と人形と漢字カナ混じり表記によってその不穏さはさらに増していく。この3ページ(だけではないが)、まんが表現として最高である。*2

 

15-015
「翼だが……? それがどうした?」「い、いえ…なんでもありません……」ゴゴゴゴゴ

 天道あかね感。いちいち示さないが随所で高橋留美子調のコマがあって楽しい。

 

15-054-1
「天理はあなたのことを10年前から慕ってるのですよ!! 愛では誰にも負けません!!

力が戻らない原因は… きっと私自身のせいです…」[…略…]「天理の愛を打ち消しているのかも…」

 翼が戻らない理由を推測するディアナ。この時点でのこの解釈は、12項下で改まる。

 

16-119
「確認しておくが家に来ても誰もいない。/バーカ。」
 桂馬は「エルシィはいない。だから来ても意味がない。」という意味で言っているのに対して、ちひろにとってはそれが行く理由になる。ちひろが桂馬を心配するようなことを、桂馬は想像だにしていないのである。桂馬の計算が狂っていく(対ちひろだけではないが)のがおもしろい。

 

16-159-6

「でも、この曲は……/好きだな……」

 先の14-021-1から形をなしてきたこの曲を、桂馬は「好き」だという。ちひろが作曲して詞をあてつつあるこの歌を「好き」ということは、桂馬のちひろへの感情をどこか表してもいる(ちなみに曲が気に入るという展開はかのん攻略話ですでにあるが、自作である点はちひろの方が圧倒的に強い)。「歌は人なり」の話型。

 ここでの「好き」という言葉が、ちひろのドア越しの告白である「あんたのこと、好きなんだ。」(16-166-1)につながり、さらに文化祭での「好き」をめぐる問答に、そしてそこで答えられなかった答えを言う最終二話につながっていく。(後述)

 

16-168
「ゴメン。/何か?/言った?」
 ここでまさかの鈍感主人公。聞き逃す、あるいは、聞こえないフリは、まんが・アニメ・ゲームの王道的定型。このような修羅場でまさかの強引な展開はさすがである。

 

16-169-5

「(……/……/……)」
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攻略を進めなければならないことと、告白されたこととの間でせめぎあう桂馬。

 

17-015-1

「ま…/しゃーない しゃーない!!!」
f:id:rinraku:20210101191138j:plain(17-015-1)

 どちらかに女神がいることを示しつつ、それがどちらなのかをサスペンドする1ページ。なお、船(あかね丸)は4巻でのちひろ攻略の舞台でもあり、その船を欄干の手前から見上げるちひろは、記憶を持っているのか持っていないのか読者に疑わせる。この欄干は最終2話でも重要な象徴になると私は考えている。

 

17-128-1

「ボクに人の気持ちなんて…わからない/だから、ゲームのやり方しかないんだ。」

 後に、天理とのやりとりで反復されるセリフ(反復と差異)。ここでは桂馬は、歩美の攻略を、徹底的に自分のやり方で解決しようとする。それはゲーマーの矜持だと語られるが、自分の計算通りにはいかないし、ちひろや歩美の行動・発言によって乱されていく。そしてそれらの解決にも、実はちひろの助言が一役買っている。一人で何事かをなす気でいて実はそれができていない女神編の桂馬は、他に頼らなければ解決できないことを認め変容がもたらされる過去編のフリになっている。

 

17-157
「な、なんか変なんだよな…/ちひろがいつもと違うからさ…」/「どう違うのよ――」「なんか調子くるうんだよっ!」
 次のコマを見ても、これが攻略のための演技ではない。

 

17-170-1

…あれ?/このセリフ…あってるのか?

 選択肢と計算されたセリフとで事態を打開してきた桂馬が揺るがされる。

 

 17-178
「好きになるのに…理由なんてないよ!!」
 人知を駆使して因果を読み解き、理詰めで行動してきた桂馬に対するアンチテーゼ。ゆえに桂馬は混乱する。因果によって関係が構築されるギャルゲー的世界観を駆使する桂馬にとっては、全く想定外の発想。

 

17-182-2
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「好きなわけないだろ」「現実女をだましてやったんだよ。/バーカ!!」のあと、満開の花火と音が描かれる。まんがやゲームの王道の場面に、自分の思いと攻略とでせめぎあう桂馬をもってくる状況設定よ。

 

17-184-2

「…/いつもボクのことバカにしてるから…思い知らせてやったんだよ!!」

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 2コマめの(…)の内話と、コマを分けて3コマ目での発話。本心と、それを抑えて攻略に向かわなければならないこととの桂馬の内心のせめぎあいを、コマを分けることで示す。これを引き受けて188ページ3コマめの桂馬は、

f:id:rinraku:20210101191209j:plain(17-188-3)


と、ちひろが去って行ったあとを見ながら「(……/……)」と表される。こうせざるをえなかったことと、こうしてよかったのかという思いとの交錯。

 


17-200
「……許されないことです。天理のフィアンセを好きになるなんて…/私の翼が出ないのは……/私の罪悪感が天理の愛の力を奪っているからです…!!」

 ディアナに翼が出ない理由へのディアナの解釈が改まる。だが、これも実は誤認。8項下参照。

 

18-021-3
「…あの、/無理に笑わないでいいよ…」/「そうだな…それでも、/前に行かなきゃ終わらない。」
f:id:rinraku:20210101191219j:plain(18-021-3)

 作り笑いをする桂馬と、それを見抜く天理。桂馬の「笑い」の問題が明確に対象化されて物語の俎上に載る。また、「前に行く」ことを自らに課す桂馬が改めて示される。

 

18-064
「にーさま……」「止まるな――!! 全速力で離れろ!!」
18-065
「何か変なもん付いてないか? 発信器とか…」
18-066
「ま…/何かつけられてないか、後で確認しておこう」
 このへんがこの物語なりのリアリティのつけかた。桂馬は超人的な力を持つ悪魔に対しているが、悪魔も絶対的な力を持つわけではない。そういう世界観のなかで、超人的な味方が力を貸し(二階堂たち)、かつ本人は判断が速く気が回る、という造型が丁寧に仕込まれて、出し抜く物語のリアリティが保証される。

 

18-163
「そうね、あの人たちは…/世界征服を企む、 連中ってところかな…」

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ハクアの機転。こういう掛けた台詞はかっこいい。「どうしてそうまんが的表現に律儀なんです?」(『じゃじゃ馬グルーミンUP!!』) こういう、別の二者を掛けるような表現は、表すところは全然違うが、月夜と桂馬/フィオとハクアたちの場面の掛け方(ベンチの落下と椅子の落下)などにも指摘できる。

 

18-195-4

「戦争、じゃない……/戦争になったら、もう誰にも止められない」[…略…]「だから、戦いを始めちゃいけない!!」
 こういうところは正しく「少年まんが」だと思う。少年誌的啓蒙。むろん少年まんが=戦争まんがであるといってもいいぐらいのまんが史があるが、一方で、啓蒙的な側面を少年まんがは担ってきた。この物語は、戦争をさせないための物語なのである。

 

19-023

「(川にはまる等のオプション行動も取れる絶好の場だ。/歩美…来てくれよ。パンツを取り返すと言う大義名分も用意したぞ!!)」

f:id:rinraku:20210101190730j:plain(19-024-1)

 このセリフがシリアスに言われるというのが、女神編のおもしろさの真髄。最初は呆れる側だったハクアが、道行きをともにすることで桂馬の苦しさを理解していき、ここでは桂馬側に立って発言するようになっている。だがそのやってることの客観的な滑稽さを事情を理解できていないちひろは客観的に見る。シリアスとギャグ(コメディ)の間を綱渡りしつつ進んできたなかでの最高の1ページ。

 

19-124-1

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歩美、桂馬、ちひろ三者三様を表す1ページ。手を繋ぐ桂馬とちひろ

 

19-147-3

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 あかね丸船上の歩美・桂馬と、欄干を挟んで地上のちひろ。攻略にも女神にも関わらないちひろは、欄干の手前にいる。ちひろは地上の人物である。であれば、桂馬とちひろの物語の最後の場面は、船上では無く、欄干の手前でなければならない。(後述)

 

19-153-3

「て、天理……!! どうしてもっと早く言わないのです!!」

 このあとディアナに翼が生えるので、先の2コマからの連続から推測すると、天理の10年かけた桂馬への愛の強さに圧倒されてーつまり、ディアナ自身の桂馬への恋愛感情という阻害要因がなくなってー翼が戻った、と解釈できようか。(別の解釈もありうるか)

 

19-163-7

「ボクは一番良いセリフ使ってるのに!!」

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 歩美と桂馬とのやりとりから疎外されるちひろが、その背景を含めてさびしく描かれる。同時に、ちひろはセリフを「使う」ものとしている桂馬を見ている。こうしたことを経ているから、ちひろは最終話でいったんドアを閉めて時間を必要とするのであるし、「どーなるかわからん」という言葉によってようやく受け容れることができるようになるのである。

 

19-168,169

「自分で、自分で決めて…/桂木が、好きなんだ!!」/「(そうだよ、/私も… 自分で決めたんだ…!!)」

f:id:rinraku:20210101194837j:plain(19-168,169(部分))

 見開きの右・左で、歩美とちひろがそれぞれに「自分で決めた」ことを述べて照応関係であることが示される。受動的であったり操られていたりしているのではない形での恋心を表明する。これに対して、桂馬はゲームのやり方を通さなければならない。なぜならば、そうしないと世界が救えないからである。

 

19-180-3

「私、ライブに行かなきゃ…」

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 ちひろは、空も飛べないし、爆発も見えない。船には上り、歩美の背中を押したが、それ以上には自分のすべきことはもう終わり、船の手すりの手前で、地上の自分の物語を選ぶ。というよりも、地上の自分の物語しか選べない。

 描けるはずの女神と悪魔たちの大攻防を、必要最小限にしか描かない。野球の試合を描かないあだち充とつながる少年サンデーの系譜。

 

19-190-1

「いや、ちひろは…関係ない。」

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 ちひろがどううけとるか、とともに、桂馬がどういう思いでこの言葉を述べたか、も読み取らせる一コマ。

 

19-191-4

「今日のバンド…聴くよ、必ず。」/「あ、あーいいよ!!  すごい音聴かせてやるから。」

 ちひろが一瞬ひるむのは、桂馬への思いがモチーフになっている曲と詞を、意味を持ったものとしていま聞かれたくないからであろう。だから、「音」の方を話題にして回避する。

 

19-220-2,3

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 桂馬が唯一涙する場面。この落とした涙は、見開き左ページp221ののちひろの涙と呼応する。こぼれたのが涙かどうか疑わせる演出は、その前のp217-4の歌うちひろのコマとも呼応する。

f:id:rinraku:20210103170320j:plain(19-217-2)

そして、二者の涙の意味は、つながりつつも異なる。

 本当はちひろが好きで、かつちひろからも告白されたのに、それを表明もできず受け入れることもできず、世界を救うために、好きではない歩美に(しかも歩美が真剣に生きている人であることを知りながら)告白しなければならないという皮肉を抱え込まなければならない桂馬。人の感情を左右して世界を救うという所業が、桂馬自身が引き受けたことだとはいえ、それが、よりによって自分が好きな相手が、自分のことを好きだと言ってくれたことも攻略の中に組み込まざるをえなくなってしまった。好きな相手が自分のことを好きだと言ってくれた気持を、最悪の形で傷つけてしまったことを悔やむ。自分の気持ちを押し殺さなければならないつらさと、好きな相手の感情を左右して傷つけてしまったつらさとが相俟っている。

 そして、ちひろは、事態を知る者にはなるが女神の翼を見ることはできず(特殊ではない自分の再認)、桂馬の本心を知り得ず、そして真剣になってもうまくいかないことを知りながら歌わなければならない。初恋が破れただけでなく、自分が凡庸であることを、他の3人に翼を幻視してしまうことで(p214〜215。この見開きは、残酷で、かつ輝いている)痛切につきつけられる。そうした、つながりつつも異なる二人の涙で、女神編は苦く終了する。

(続く)

 

 (2021/01/03。本テキストは研究です(営利目的でない)。引用は若木民喜神のみぞ知るセカイ』(小学館少年サンデーコミックス>、2008-14)、文中で必要上同作の画像の一部引用をする場合はkindle版による)。ここでの画像の他媒体への転載を禁じます

参考:

『神のみぞ知るセカイ』私注1: 誰エンドになる物語か―ヒロインについて

『神のみぞ知るセカイ』私注3:過去編、「現在」と「過去」の交錯と反復について

『神のみぞ知るセカイ』私注4:最終二話、地上の恋について

*1:この話型については枚挙に暇が無いが、たとえば、三条陸稲田浩司ダイの大冒険』でいえば、まぞっほがそれである。ポップに勇気を出すことを示した、第二のメンターである「小悪党」のまぞっほが、物語の終盤で、自分が勇気を出すことを求められていく。個人的には『ダイ』の名場面の中でも「…ニセ者だけどなあっ!!!」は最高のシーン。

*2:一昔前のまんが評論では、このような表現を説明するときに、「映画的演出」などと評されていたように思うが(手塚まんがなど)、いまこの言い方が適切なのかはよくわからない。

『神のみぞ知るセカイ』私注1: 誰エンドになる物語か―ヒロインについて

 若木民喜神のみぞ知るセカイ』(小学館、2008~14)についての読解を提起したい。私はリアルタイムで追っていた読者ではなく、アニメも経由していないので、連載や放映と伴走した読者の熱狂とはまた違うのだろうとは初めに述べておきたい。

 

(以下、同作のネタバレが大いに含まれます。同作の通読後に御覧ください)

  1.  誰エンドになる物語か―ヒロインについて

 「ギャルゲー」を対象化して筋立て上の根幹とする本作について、最終的に「誰エンド」になるかは物語上の興味として読むときの推進力となっている。

 物語の始発当初は、誰エンドとするかは決められていなかったか、ある程度ゆるやかに定めていて展開に委ねる見通しだったか、ではなかったかと思う(作者はどうコメントしているかは未見。作者の意図にまつわるコメントはここでは棚上げしておく)。ただ、物語構成上あるいは物語展開上の必然性という観点からは、

ちひろ

・エルシィ

・天理

・歩美

の四人に絞られていくと考えられる*1

 エルシィは、物語を始める存在であり、構成上特権的な立場を持つ。ただ、何度か恋の対象になりそうな回はありながらも、恋人としてではない形で決着がつけられる。これは、エルシィが何を求めている存在なのか、ということを考えると、(やや強引ではあるが)収まるべきところに収まった終わり方であろう。エルシィが求めるようになっていくのはそこに「いる」ことの許容であった。「恋をする」という「する」で語られるカテゴリーでなく「いる」(である)で語られるカテゴリーである「家族」(妹)という存在に決着するのは最良の形である。恋のカテゴリーにおいてちひろはエルシィに優越するが、一方でエルシィはちひろに優越する絶対的な一点をもつ。

f:id:rinraku:20210102144034j:plain(26巻-182ページ-1コマめ)

 物語全編を通して、桂馬は対人の状況で笑うことはない。特に、女神編以降、桂馬の行動は孤独で辛く、悲壮感が漂うものとして描かれていく。その末に、ついにここで桂馬はエルシィを相手に笑みを浮かべる。そのことを思うとこの1コマの破壊力はとても大きい。エルシィは桂馬が全編で唯一笑みを見せる相手なのである。これはエルシィの存在の許容であるのと同時に、エルシィがもたらした「現実の生」を桂馬が受け入れたコマでもあると読める。ちひろとの恋は「ふつうの恋」なので、物語の後にちひろと別れることだって別に普通にありえてもよい(あまり考えない発想だと思うが、私はそういう終わり方だとも読める結末だと思っている)。エルシィはちひろとは別位相の、「いる」ことに関わる位置を得ることになる。

 ところで、エルシィは物語を始める存在と述べたが、それと同時に物語を閉じる存在でもある。物語全編は、桂馬とちひろで終わらず、天理を挟んで(後述)、エルシィで終わる。物語を始めた者が物語を収める、序跋の対応がここには指摘でき(01-007-2と26-237-1、エルシィはほうきを片手に手をかざす。そして手をかざす行為の意味が始めと終わりで変容する。ほうきは前者では空を向いていたのが、後者では地に足を付けている。反復と差異。)*2、その収まりは良い。

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 この物語は、エルシィがもたらした非日常(ただし桂馬は非日常と見られがちなゲームが日常であるという逆転にこの作品の面白さがあるのは言うまでもない)という触媒のなかで桂馬が変容・成長する物語なのであって、エルシィと桂馬の恋物語ではないのである。言ってみれば、エルシィは(帰らない)ドラえもんなのであって、ラムではない。

 

 歩美は、初回のヒロインで、かつ「歩く」という語を名前に持つ点で特権的な位置をもつが、これも後で述べるが、「秀でた能力を持たない普通の相手との恋」という大きなテーマの前に殉じることになる。ただ、歩美エンドに方向転換する弁も持たせられ続けてはいたように見受けられる。

 

 そして天理は、主人公が世界を「選択肢」=所与の人知により救おうとするのに対置される、(近鉄の駅名というモチーフを超えて)「天の理」という名前を持ち、主人公に気づきをもたらす存在としてやはり特権性を持つといえる。しかし、それは、恋の相手に選ばれるという形で果たされるのでなく、どうなるか知り得ない(=「神のみぞ知る」)生への歩み、というメッセージ性を担うかたちで終わる。物語全編が、桂馬とちひろで閉じられず、二人の退場の後に天理にページが割かれる(!)のは、特に過去編の展開が彼女無しに成立しえないという重さをもちながらも桂馬と結び付けられなかったことへの、贖罪のような数ページであったろうと見て取れないだろうか。

 

 さて、ちひろである。どこでちひろエンドが定まったかはわからないが、他のヒロインたちとは異なって、早い段階から、ちひろに関わる桂馬の内話が読者にわからないように表現されている点で、他のヒロインとは一線を画す存在であることは示されていた。 

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(04-040-2,04-041-5,16-169-5)

 

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(17-188-1,24-090-5)

基本的に桂馬の行動と心理に沿って展開する物語において、桂馬のちひろへの思念は折々「(…)」と表現されて読者に隠され、そこに含意があるものと示唆される。なお、歩美に関しても「(…)」が付される箇所があるが(09-073)、これはちひろに付されること(09-076)と照応する表現になっている点でやはりちひろに関する表現である。

 ここから考えれば、ちひろ攻略回以降において、構成上はちひろエンドしかありえない。文化祭でちひろとの関係がビターエンドとして終わり、違う物語へと展開する可能性もなくはなかったが、その後の過去編の展開にあっても、天理を語っているようでも、桂馬の言動はちひろの感情を左右させ傷つけたことを抱え続けるつらさが不即不離に語られ、ちひろエンドへのベクトルは持ちつづけていく(直接には「好き」という語をめぐる問題も推進力となっていく。「桂木は…私のこと好き…?」(17-179-3)→「(ボクはあの時…あんなこと言うつもりじゃなかったんだ………)」(19-220-2)→「……だよ…」(24-107-2)→「お前が好きだ。」(26-205-1)という「好き」という語の対応も桂馬とちひろのみである(こう考えると桂馬の真情からの告白の台詞は「好きだ。」以外にありえないのである)。ただし厳密には歩美も「好き」だと言われている。そして、「好き」について更に述べれば、エルシィは何と言っているかというと「私、この世界が……/大好きです!!」(26-178-1)と「いる」べき世界への愛を述べるのである。よくできている)。

 ただ、実のところ、物語の中でちひろが契機となって桂馬の認識が変容する箇所はそれほど多くない。そこに展開上の必然性がやや弱いように読み取る読者もいそうである。「こ、これは攻略じゃないぞ」(04-43。なお先に引用した24-090-5のコマは天理が対象なのではなくて、このちひろとのやりとりを反復している点でちひろに属する思念である)のあたりも、物語内に強い契機を持たないままちひろが特別な存在であることが示唆されているようでもある。何なら「理由がある→好きになる」というような、近代的な因果観に基づく恋愛観に対するアンチテーゼの意味合いも潜まされているようにも受け取られる(「気がついたらもう、/好きになってたのさ」17-177-2)。これは「出来事の発生→好きになる理由の出現→好きになる」という形の物語の型を好む向きの読者には、乗りにくい展開ではなかろうか。とはいえ、展開上の必然性がないわけではもちろんなく、「似たもの同士」(体育祭に顕著)であるだけでなく、「何かに秀でているわけではない人間が、理不尽な世界だが真剣に主人公として生きる(ことを説いた相手から、時を経て逆にそれを問い返されて新たな認識を得る)」という展開を持ち、私はそれで十分だと思うが、ちひろエンドが、先のような、構成やテーマ、理念ありきのものとも感じられかねないところが、脇を支えるサブヒロインたちが魅力的でかつ展開上の積み上げが豊かであるだけに、エンドとしては弱いという感想を抱かせることになっているとはいえそうである。

 だが、そうした桂馬との関係性に目を向けて批評的に述べてみても、やはり19巻p214,215の見開きの圧倒的な力に触れてしまえば、仮にビターエンドになったとしても(ならなかったが)、ちひろはヒロインとしての強度をしっかりもっており、ちひろエンドはおよそ必然的に提起されてきていると言うほかないだろう。

 ちなみに、エルシィは最終二話で「えり」という名を選んだが、「えり」という名につながる「エリー」というあだ名で呼び始めたのはちひろである。名づけとはその世界での誕生や存在を保証するものである。エルシィは「ゲームを終わらせに行きました!!」(26-201-3)というが、その相手がちひろであることを間違いなく直感しているはずである。エルシィは桂馬に妹になる許しを得、ちひろから与えられたあだ名に由来する名を名乗る。世界の平仄があうように物語は決着していく。

 

 やや前のめりになってしまったが、こうした全体像を提示したうえで、「女神編」の表現世界について、「過去編」の表現世界について、最終二話について、あと余裕があれば付編として栞と二階堂について、稿を改めて詳述したい。(続く)

 (2021/01/02。本テキストは研究です(営利目的でない)。引用は若木民喜神のみぞ知るセカイ』(小学館少年サンデーコミックス>、2008-14)、文中で必要上同作の画像の一部引用をする場合はkindle版による)。ここでの画像の他媒体への転載を禁じます

参考:

『神のみぞ知るセカイ』私注2:女神編、恋の感情を操って現実世界を救うことの悲壮について

『神のみぞ知るセカイ』私注3:過去編、「現在」と「過去」の交錯と反復について

『神のみぞ知るセカイ』私注4:最終二話、地上の恋について

*1:もちろん連載まんがにおいて構成上や展開上の必然性を超えて別の相手との結末になることもいくらでもある。例えば、古味直志ニセコイ』は展開上は小野寺エンド、筒井大志ぼくたちは勉強ができない』は構成上は古橋エンドとなるのが妥当だったと私には考えられる。だがそうではない結末になった。

*2:序跋の対応も十分にできずに終わる連載作品が大多数なのであって、序跋が対応して終わるというのは、成功した連載作品の特権であろう。

2020年、おもしかったまんが・十一選

1、三島芳治『児玉まりあ文学集成』

ぶっちぎりで一位。いやー、凄い本に出会った。

2、橋本悠『2.5次元の誘惑』

まんが家編がいい。続刊8巻に収められるはずのある回のある台詞について、ジャンプ+のコメントの反応がけっこう興味深かった。これは後日取り上げてみたい。少年まんがの主人公が感情昂ぶった台詞を言うとき、その台詞は「正しく」なければならないのか、という問題である。

3、おりもとみまなばくおん!!

ニコ動のdアニメストアに12月になってアップされ、仕事の逃避で何の気なしに1話を見たら、めちゃくちゃおもしろく、くそ忙しいのにそこから全話観てしまい、さらにまんがを全部購入して読んだ。アニメはバイクの動きと音が何より気持ちいい。まんがは、ある一面において、『こち亀』の自分が大好きな時期の、現代風アップデートといえるところがメチャクチャ好み。作者が対象に対してどこか覚めているあたりもいい。あまりまんがには詳しくないが、「定型+偏差値高めのパロディ+作者が好むニッチな題材」というのは00~10年代まんがの典型だと思う。だが、そのなかで恩沙(モジャ)というキャラクターは、他に類例を見ない、作者にとって一種の「発見」だったのではないか。恩沙については稿を改めて別に述べてみたい。それとは別に、「みるきいキャンディ」がいつの間にか静岡でカリスマ化してるのがまじで笑う。

4、安田剛助『じけんじゃけん!』

今年完結。互いに次の動きを読み合う回とかのパターンが好き。

5、町田粥『マキとマミ』

このサイト復活の直接のきっかけ。「二次創作界隈まんが」(その嚆矢は『げんしけん』なのかな)隆盛だが、そこに当然訪れるはずの「衰退ジャンル」がテーマになるという成熟ぐあいよ…。私は二次創作には興味はないのですが、90~00年代の無料ホームページ文化にはそこそこはまっていたので、いろいろ自分に置き換えられるところがあっておもしろかった。あれだけあったホームページの管理人たちや書き込んでいた人たちは今何をやってるのでしょうね。

6、長田悠幸、町田一八『シオリエクスペリエンス』

相変わらず進化し続けるバンドまんがの最高峰。自分のなかで、「ロック」にも賞味期限があったのかという驚きを抱いてからすでに二十年ぐらい経つが、「ブルース」という言葉と、60~70年代の再発見という筋立てで、ロックまんがをいま成立させえていることがおもしろい。個人的な性向ながら『BECK』が自分にはどうにも読めなかったのに『シオエク』は読めるのはなんでだろうと自分に問うとき、「ロック」幻想との距離感が関わるような気がする…。まだ言語化できないが。そんな理屈よりなにより、表現が凄い。
7、スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ、小梅けいと『戦争は女の顔をしていない』

この作品を、まんが化しようと思ったこと、またこの形でまんが化しえたことに脱帽。あの戦争は、まだまだ多面的に語られなければならない。

8、さと『神絵師JKとOL腐女子

片方が高校生以下の年の差カップルものは、性がどうであろうが自分の基準ではアウトなのだが、相沢(アイ)が楽しいので読んでしまう。<ポンコツだけど有能>ものが本当に自分は好きなんだな、と自覚。「尊い」という感覚はよくわからないのだが、焼く肉を食べに行って疲れ果てて寝たミスミ神の焦げた焼き肉を、起こしながらさりげなく自分の皿に入れているアイは尊いということでOKだろうか。
9、都留泰作『竜女戦記』

壮大な偽史でその筆致が凄い。が、アイデアぶち込み過ぎのようにも思う。ここからどう展開するのか。夫を立てる主婦主人公というのは面白いが、そもそもこの世界がどういう通念(倫理観・ジェンダー観)の世界なのかなのかが二巻だとまだちょっと見えないように思えて、まだ乗れない部分はある。今後も読もうとは思う。

10,若木民喜神のみぞ知るセカイ

若木民喜畑健二郎の対談を読んで、ふと『神のみぞ知るセカイ』ってちゃんと読んでいないな、と思い、コロナ禍下に全巻購入して読んでみたら面白かった。ネットでいくつか批評や感想も読んだが、どうも自分の読み取りや実感とはかけ離れているので(もちろんリアルタイムの読者の情熱に、後出しじゃんけんで述べて優越を誇るのが愚であることはわきまえているつもりだが)、何回かにわけて語りたい欲望にとりつかれている。

11,泰三子『ハコヅメ』

依然として面白い。初期は『モーニング』はこういうお仕事まんがが書ける人を探してくるのが本当に上手だなあ、という感想だったが(絵柄のぎこちなさも含めて。絵柄がぎこちないお仕事まんが・業界まんがの傑作が本当に多い)、同期の桜編ぐらいから、「作者の固有の体験を創作に落とし込む」だけにとどまらない、「一歩先」のレベルへと行き続けていることに感嘆する。映画ブロガーの三角絞めさんにも感じたが、警察組織から作者特定されて報復されないか心配。

『ハコヅメ』が描くトイレの近さや生理のつらさとか、それとは全然違うけど『ばくおん!!』のバイクへの足のつかなさなど、女の視点からの男性標準社会の生きづらさがポップに題材になっているのは、ここ5年ぐらいの明らかな変容だといえそうな。

 

次回から数回、『神のみぞ知るセカイ』私注を書いてみたい。副題は「恋の感情を操って現実世界を救うことの悲壮と記憶について」と決めた。

『GS美神私注』(最終回):「地上より永遠に!!」「ネバーセイ・ネバーアゲイン!!」編(39巻)

あるいは、美神悪霊編。過去の話との対応が随所に敷かれ、原点回帰の最終回。

■「地上より永遠に!!」
01 86 2
「あった……! 前のまんまだ、道路標識…!!
ここで私──/最初に横島さんと会ったんだ…!」
 この回は、1巻第1話、[美神除霊事務所出動せよ!!]と対応している。
 落石注意の看板は、1巻p12-1。ちなみに、おキヌに向けて岩が落ちてくるコマ(p87-5)は、その擬音とあわせ、横島に岩が落ちるコマ(1巻p14-3)に対応している。

 この標識は、『極楽』を前期と後期に分ける結節点といってよい[スリーピング・ビューティ!!]でも一回振り返られている。
「俺、この標識のところでおキヌちゃんと初めて会ったんスよ!」(19巻p179-4)
「この上…/横島さんと初めて会ったところ…」(20巻p136-2)
 横島のセリフに対し美神が「へえ…!」と言っていることからわかるように、標識は、横島とおキヌが出会った場所であって、厳密にはここに美神は介入していない。

01 93 2
「さっきは、わざと幽体をずらしてみせたのよ。」
 [スタンド・バイ・ミー!!](23巻)では、幽体と実体とがズレてしまうことに目をつけられ、おキヌは霊団に襲われたのだったが、今回もそれと同様かと見せかけつつ、実際はおキヌ自身が意識的にそのように見せていたことが知れる。
 その意味で、p91-3は、二度読むべきコマ(一度目…ズレに気づく幽霊、気づかないおキヌの危機。二度目…ズレに気づかされている幽霊、気づかせようと意図するおキヌ)である。

01 95 1
「私の体に乗り移っても、もうあなたには戻れないよ。本当にそれでもいいなら…/それがわかっても悲しくないなら──」
 手をにぎるおキヌ。

 おキヌは、『極楽』のなかで、<死>と<生>を司るキャラクターとしての位置づけがあるといえ、これはその総収ともいえる話。

 なお、ここで幽霊を説得してしまうおキヌは、次話[ネバー・セイ・ネバー・アゲイン!!]にて、横島によって、
「そんとき金のために力ずくで除霊されんのはやだなぁ。おキヌちゃんみたくやさしく成仏させてほしいですよ。」(p147-4)
と、美神とは対照的なものとして位置づけられる感があるが、おキヌの価値観の淵源は美神のセリフに見出すことができ、その意味ではおキヌは正しく美神の弟子ということにもなりましょう。すなわち、
「夢は人の心に必ず残るものよ!/それが素敵な夢だったのならなおさらでしょ? 指から水はこぼれても手のひらにはしずくが残るわ──」
「美神さん…全部…全部知ってて…」「幽霊のまま元どおりでいるより、生きて、かすかにでも何か心に残っている方が意味があるの。」([スリーピング・ビューティー!!]20巻p176-2)
01 97 2
「さよなら…!/またいつか──命になって戻ってきてね…!」
 「さよなら……」(1巻p33-1)を思い起こさせるが、そちらは「あの…つかぬことをうかがいますが、/成仏ってどうやるんですか?」とオチる。なつかしい。

 なお、この1巻の「さよなら」は、
「俺だって…俺だって…/別れたくないよ…!!
だからさよならはナシだ!!」(20巻p177-2)
でも踏まえられている。

01 98 1
「本当に楽しかった。/みんなありがとう──って、」
 おキヌが博愛的存在であることがうかがえる見開きコマ。[スリビュ]でもそうだが、呼びかける相手が「みんな」であるところがポイント。この件に関しては、[ジャッジメントデイ!!]34巻p38-3の項を参照されたい。

 なお、[ファイアースターター]以降、いないことになっているはずのルシオラたちがいるので世のルシオラファンたちは少しだけ溜飲を下げることでも有名な一コマ。

01 98 1
「(みんなにもらった命…/その日まで精一杯生きたよって。)」
 上でも触れているように、この回は、1巻第一話[美神除霊事務所出動せよ!!]、また19~20巻[スリーピング・ビューティー]と対応する。最終ページ、三者そろい踏みのコマは、構図・内容ともに、第1話の最終コマの描写と対応している。

 ただし、正確に読むならば、1巻1話の最終コマの背景では、日がずいぶん高く昇っているが、[地上より永遠に!!]最終コマの背景は、昇りゆく朝日の見える「朝焼け」にリライトされていることがわかりましょう。この、日中の太陽から朝焼けへの変化は、積極的に読みとるべきことのように、思われます。

f:id:rinraku:20201206212545j:plain(p98-1)
 このコマは、客観的な描写である1話とは異なって、おキヌの心内語とともに示されていることから、おキヌが思い出している映像であるはずだ。つまり、じっさいは日は高く昇っていたが(1巻)、その当時を思い出すおキヌの記憶では朝焼けになっている(39巻)ということになる。

 これを考えるに、山から下りて美神と横島についていくあの瞬間は、彼女が新しい世界に踏み出せた瞬間であり、それ以来「いいこといっぱいあった」日々を過ごすことができてきたのも、つまりはあの瞬間があったからである。昏い闇から輝く朝の光へと移りゆく朝焼けとは、その一歩踏み出した瞬間の状況を象徴するものとしてふさわしい。あの瞬間が朝焼けだというのはおキヌの記憶ちがいではあるのだけれど、それだけいまの彼女におけるあの瞬間への思い入れがわかることになる。300年の自分にとっての昏い<闇>から、<光>のなかに連れ出してくれた瞬間だったという思い。しかしながら、300年の<闇>もまた、単純に消し去ってそれでよしとすることもできないのであって、辛かった<闇>も輝かしい<光>の生活も抱え込んで、いまの彼女が在る。そういう思い入れがあって、彼女はあの瞬間を、まるで自分を象徴したような朝焼けだったと記憶している、と読みたい。

 ■「ネバーセイ・ネバーアゲイン!!」
01 104 3
「だからこそ金になるのよ!/日本にはもう幽霊を住まわせておく土地なんてないんだから。」
 初期『極楽』でのナレーション(横島)、「もはやこの日本に幽霊を住まわせる土地など無いのだ!」を踏まえる。

 最終回「ネバーセイ・ネバーアゲイン!!」。ただし、おおかたの認識では、この一話(二回)のみを最終話とはせず、「地上より永遠に!!」もあわせて、最終二話(三回)として位置づけられている模様。妥当な認識だと思う。

 最終回にありがちな回想シーンは[地上より…]に譲り(なお、『極楽』に関して、重要な箇所でのコピー乱用に対してはげんなりすることもあるのだが、この回想シーンは、回想シーンにもかかわらずそれぞれの絵を書き直している点、とても良い!)、[ネバーセイ…]では、これまでの悪霊退治という基本構成を正反対にひっくり返してみせていて、そのひっくり返しようが、やはり『極楽』という作品の比喩になっているようで、最終回にふさわしく楽しい終わり方だと思います。登場人物たちのその後を描くのも最終回の常道だけど、よりによって200年後ってのも、その後過ぎるだろ!っつうツッコミ待ち。

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「俺にはまだ心残りが──!! 教えてくれッ!! あの女は俺のかッ!? ちがうのかッ!?」
「いーからおまえも来いっ!! 往生際が悪いわよっ!!」「文字どおりの意味ですね。」
 この三人の関係がよく表れている2コマ。

 なお、おキヌには「慣用句属性」というものがあって、その積み重ねの末に最終回でこう言うのが趣深い。

 「慣用句属性」については以下のとおり。
「あっそーか!「逆鱗に触れる」っていう言葉の意味は…」ぽん([ドラゴンへの道!!]3巻p90)
「さすがですね── こういうのを「カエルの子はカエル」って…」([何かが道をやってくる!!]5巻p54)
「お野菜を水で濡らせば長保ちするようなものね…!!」([スリーピング・ビューティー]20巻p85)
「大丈夫!! 昔とったきねづか!! 幽体…離脱っ!!」([甘い生活!!]33巻p47)
「ぶっ、ぶらっくほおる~~~!?」「…って何?」([Gの恐怖!!]27巻p26)
「ニューヨークってどこですか!? 遠いんですか!?」([グレートマザー襲来!!]29巻p79)
「…体張って笑いとって、「オイシイ」とか言いますね。」([ザ・ショウ・ゴーズ・オン!!]36巻p150)
「あっ!! そーいえば「天の川」って英語で…」ぽん 「たしかに「ミルクの道」って言うわね──」([もし星が神ならば]38巻p148)
慣用句やことわざだけではないものも含めたが、これらのセリフは、おキヌの、きまじめで、しかしちょっとピントがズレていて、しかしそこがかわいい、という性格づけにたいへん有効に機能している。

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「バッカねー横島クン!! 死んだあとのこと心配してちゃ、人生楽しめないじゃん!!/私の信条は──
現世利益/最優先!!」
 形こそ異なるが、前話[地上より永遠に!!]のおキヌの心境と同軌のもの。

 これにて『GS美神極楽大作戦!!』、ひとまずの完結である。ここでの美神の格好は、連載当初の「イケイケバカ女」の象徴であるボディコンであり(連載中盤ぐらいから美神はボディコン以外の服装をすることも少なくなくなる)、原点に返った1コマといえる。

 なおわたくしの気が確かならば、最終コマは連載時は1ページであった。見開きは、単行本収録時に描き換えられたもの。

 (2003/08/17。20/12/31再録、語句修正。引用は椎名高志『GS美神 極楽大作戦』(小学館少年サンデーコミックス>、1992-99)、文中で同作の画像の引用をする場合はkindle版による)

『GS美神私注』「マジカル・ミステリー・ツアー!!/キツネの変奏曲!!」編その他 (38巻、39巻)

あるいは、タマモ成長編。美神が不在であるうえで、物語がどう展開されるかが楽しめる数編。

■「呪い好きサンダーロード!!」
01 49 4
「コ・ノ・ウ・ラ・ミ…/ハ・ラ・サ・デ・オ・ク・ベ・キ・カ──ッ!!」
 いうまでもなく、藤子不二雄『魔太郎が来る』が元ネタ。コマ枠が太いのも擬音の文字も、もちろん『魔太郎』を踏まえたものである。A先生ネタについては、すでに『猿』が引用されてもいた(27巻p48-2参照)。

 ちなみに、この前のコマ、「金でやとわれて悪人に味方する悪徳GSめええええ──ッ!!」という彼のセリフは、あながち、というより全然、まちがってない。万札をしっかりとっている。
 彼の暴走的なやり口はシロにたしなめられるわけだが、横島の「悪徳」自体は、呪いの発動によってきちんと報復される。少年まんが的因果応報。

02 60 3
「死にてぇのかバカ野郎──ッ!!」「うるせえッ!! こっちは交通弱者じゃ──ッ!!」
 免許持ってないマイノリティの心情が、ポジティヴに示される捨て台詞。こうしたマイノリティの開き直りぐあいが、けっこう椎名まんがの楽しみ。「教育的指導!!」はそれが前面にあふれていて名作なのである。

02 71 3
「そ、そうかっ!! 忘れていたが俺のパワーの源は煩悩っ!!」
 「忘れていたが」について。世界を救ってしまうまでの展開になったアシュ編に対し、それ「以後」をどう構築し直そうとしているかについて、何度か言及してきた。このセリフなどは、そのほとんど最終的な手続きであると言えよう。ここに至り、アシュ編「以前」の、<煩悩少年横島>という、彼の、ギャグまんがの登場人物としてのアイデンティティが、さらっと復権する。

■「守ってあげたい!!」
■「もし星が神ならば!!」
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「我が名は──/織姫!!」
 女性陣のコケ方のちがいが一覧できる点でも興味深いコマ。

 ・ガニマタこけ──美神、シロ
 ・足揃えこけ──おキヌ、タマモ

 足の角度は、登場人物たちの性格の喩としてはたらく。

01 130 3
「そ、それはヤバいっ!! ヤバすぎる──ッ!! 一刻も早く見つけないと──ッ!!」
 この美神の発言に加えて、
・おキヌ──「横島さんフケツ──ッ!!」
・シロ──「うわ──っ」
という三者三様のセリフから読み取られる意味あいについては、別に考察した。29巻p17-3の項、参照。
 これを踏まえたうえで、では、
・タマモ──「……」
というタマモの沈黙をどう解したらよいか。

f:id:rinraku:20201209165441j:plain(p130-3)

 三人が三人で盛り上がっているなかに、このクールなタマモの視線があるのであって(「……」P130-3)、これを、タマモの性格ゆえと言ってしまってもおもしろくない。横島との関係を特に求めてもいない唯一の者として、ほかの三人の勝手な<妄想>を、かえって際立たせる意味あいが強い、と読んでおきたい。タマモは、三人が三様の<妄想>を繰り広げていることにこそ、半ば呆れた視線を向かわせるのでありましょう。ある意味、彼女は、着実に「人間社会のことを学習」(37巻P20-4)しているわけだ。かなりのハイレベルで。

 タマモについて。
 いったいに、物語を通して見るとき、タマモの性格描写が一貫していないようにも見えるけれど、人間世界への関わり方に応じて性格が変化していくと捉えれば、むしろ一貫してないところに意味があることがわかってくるように思われます。が、とはいえ、クールさとすっとぼけた感じが入り混じっている37巻ぐらいがやっぱり(それまでの『極楽』の他のキャラクターには見えない)味があって、よろしい。

 

■「史上最大の臨海学校!!」
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「フランスのダイバー ジャック・マイヨールは100mまで潜ってるから大丈夫よね!」
 ジャック・マイヨール氏は2001年に逝去。
 それはさておき、けっきょく横島が圧倒的なパワーをもって敵を倒して終わり、という構造になっている。この回、わりとすきなのだが、書くことがとくにない。

 臨海学校をついに誤解しつづけるタマモについては、「人間社会のことを学習」(37巻p20-4)しているという流れのなかに置くべきセリフでもある。

 ■「マジカル・ミステリー・ツアー!!」
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「ここは本物のお化け屋敷で──しかもGSを無力化する空間ってことじゃねえか…!!/もし何かあったとしたら…シャレにならんぞ!!」
「………」「美神さん、金のためになんてことを…!!/こんなお化け屋敷、冗談じゃ──」
 この美神は、はっきりいって須狩と茂流田と同レベルである。
  「魔物は決して人間の天敵ってわけじゃないわ。/必要なら闘うけど──時には協力もするし人間と対等なのよ。一方的にもてあそんでいいはずがないわ。
命がけで魔物たちと向き合ってきた者じゃないとわからないでしょうけどね。」(「サバイバルの館!!」編、24巻p38-2)
こう諭したのは、ほかならぬ美神本人であったはずなのだ。おかしい。
 ちなみに、最初のころの美神は、「低級霊」にも、金を払って雇っていたのだった。
  「時給500円でやとった低級霊よ!」「俺より給料いいのかよ…!?」 (「狼たちの死後!!」編1巻p83-4)
 初心を思い出してほしい。ここで美神は、報復を受け、またおキヌに諭されて、いちおう因果応報の構成にはなっているが。

  ○  ○  ○  ○

 「アシュ編以後」の物語は、アシュ編があまりに大河ドラマ的展開だったことにより、以降「強大な敵」は登場しにくく、そのなかで物語が展開するためには、美神や横島たちの側に大きい欠陥があり、そのことが引き金になって……、という方法が、主にとられているように思われる。
 「アシュ編以前」にも、金に汚い美神、煩悩に負ける横島、というパーソナリティが引き金になっていたことはたしかなのだけれど、アシュ編で見せた両者のポテンシャルの大きさ(「世界を救ってしまう」ほどの)を承けざるをえない「アシュ編以後」のそれは、やはりその相貌をいささか変えていることは疑いない。
 言い換えれば、「アシュ編以後」の物語には、美神と横島の能力が強すぎるだけに、その危機の出来と解決への経緯とに、一定の工夫が求められているということになりましょう。
 しかし、その工夫として、当編で美神が「魔物」を「おもちゃ」にすることを持ち出してくることには、いささかの違和感を禁じえないという評は、下してもよいように思われる。

02 40 5
「「ひとり千五百円で……」」
 もちろん笑うところである。

 ■「キツネの変奏曲!!」
01 44 1
「意味もなく盛り上がるお祭りさわぎに──/乗るとおもしろい…ただそれだけの全く無意味な乗り物……
画期的だわッ!! 人間ってこーゆーくだらないことにかけてはサイコー!!」
 クールなタマモの、意外な一面が垣間見える。

 ところで、このタマモのセリフは、裏を返せば、人間世界のことを知ったかのような、高踏的な立場に立ったものである。
 そういうタマモの態度は、織姫登場のときの、美神、おキヌ、シロを見るタマモの視線(上述)にも見出すことができるといえましょう。たぶん、タマモは、美神もおキヌもシロも、横島になぜか好意を持っていることを見抜いている。ツッコミ的に冷ややかな視線だけれども。
 冷ややかな視線のタマモは、あくまで人間社会の観察者であり、観察から足を踏み出して自らを投げ入れようという姿勢ではない。

 けれども、それは態度としてであって、タマモの登場する回は、たいてい、クールさが描かれる一方に、人間世界(美神たち。あるいは人間ではないがシロ)のさりげない優しさに触れるタマモ像が差し挟まれもしてきた。タマモ物語は、「アシュ編以後」の、人間世界と非人間世界との橋渡しという、美智恵によって示されたテーマ(らしきもの)を、ほとんど唯一のかたちで担っていることになる。

 で、「キツネの変奏曲!!」は、その流れのなかのひとつである。といって、別段、タマモの成長譚の終了と位置づけるつもりはない。むしろ成長譚というもっともらしい言い方をしてしまうとつまらない。だがとりあえずは、そういうタマモ物語の流れにあって、そのなかでもっともきれいな挿話たりえていることは、言っておきたい。
 この挿話では、タマモというキャラクターに期待される在り方が、ホントよく出ているし、それと十分に組み合うかたちで、少年まんがの基本中の基本である「少年」が、(多少定型的ではありながらも)さりげなく美しく描かれえている。
 「少年まんが」は、レンジの広さはいうまでもないけれど、その始発から現在に至ってさえ、この挿話が描きえているような、さりげないささやかな叙情が、確実にある世界でもある。 

01 47 2
「あの──」「大人ひとり千六百円です!!」
 いうまでもないが、
  「このアトラクションはCチケットです! 大人ひとり千五百円になります」 「ピンチでデート!!」編19巻p153-3)
と対応している。値上げしているのが芸がこまかい。

02 70 1
「うん……」 きゅっ
 真友くんの差し出した手をつかむタマモ。
 ところで──「きゅっ」??
 どこかで聞いた擬音語だ…。

 手を差し出した相手につかまるとき、そこには、助ける側/助けられる側、という関係が生じる。
 タマモは、じっさいは真友くんより年上で、しかも妖怪であって、力量的にははるかに上である。にもかかわらず、正体を明かさず、虚構の関係(助けられる側)にまだ身をゆだねようとしようとしている。それを象徴的に示す表現として、この「きゅっ」はあろう。

 虚構の関係を続けようとするタマモ。真友くんを傷つけないようにしたい気持ちが、その第一の理由であろうが、もうひとつの理由を考えてよい。
 すなわち、タマモが子どもとして屈託なく真友くんとデジャブーランドを楽しむのは、ふだん演じているクールさを、周りを気にすることなく脱ぎ捨てていることでもある。
 ここで真友くんの言葉にしたがって変身を解かないのは、普段まとっているクールさを、まだ脱ぎ捨てたままでいたい、というタマモの心情ゆえであるということを、理由の二つめとして認めてよいように思うのである。

02 72 1
「今、近くの弁護士事務所で調停してる。 …その間、僕にはここで遊んでこいってさ。
……サイテーだよ……!!/親が別れる相談してるんだぜ……!?/そんな時に遊んで──おもしろいわけないじゃないか……!!」
 真友くんは、短編「発展途上帝国MORO」(『(有)椎名百貨店』3巻、1994)で登場した主人公と同姓同名同容姿であるが、おそらくはスターシステムに基づいた登場であろう。「MORO」での両親の関係からは離婚を想像するのはむずかしい。

02 79 1
「あんただって本当のこと見せないじゃん。あいこだよね。」「え…!?」
「男の子だからってがんばってばっかいちゃってさ。/笑っていいコにしてなくていいじゃん!
悲しいんだったらさ、泣いたっていいのに……!」「!」「男のコでもさ……!」
 「マジカル・ミステリー・ツアー!!」のB面としての「キツネの変奏曲!!」であるけれども、タマモとシロというコンビということを考えるとき、お姉さん立場の女の子が、弟立場の男の子を諭すという構成に共通項を見出すならば、「呪い好きサンダーロード!!」との両A面としても読むこともできようか。

 タマモ物語に話を戻そう。
 本当の姿を隠している点において、真友くんと自分とは同様であることが、ほかならぬタマモによって言及されている。
 そして、ここでタマモは、真友くんに、強がって本当の姿を隠さなくていいんだ、と声をかけている。対話のなかで、真友くんの大人ぶった強がりを見据え、泣いていいのだと許すタマモであるが、じつは、そうやって真友くんの「本当」を見据えることができたということは、はじめの人間を敵視していたタマモからは考えられないなのではないか。
 これまでの人間世界とのかかわりのなかで培ってきたことがバックグラウンドとしてそれを可能とさせるようになった、と読みとることができると、思われる。であるとすれば、それがタマモの成長である、といえもしよう。

 さて、さらにもうひとひねりさせて読み取ってみたいことがある。
 すなわち、「本当の姿を隠す=虚構の姿をまとう」ということについてである。図式化すれば、
真友くん:
本当のこと=両親が別れるのが悲しい → 虚構=男の子だからがんばる

タマモ:
本当のこと=中学生あるいは妖怪の自分 → 虚構=小学生の姿
  しかしここにはねじれを見てとってよい。タマモは、もしかしたら、虚構の姿をまとうことによって、普段のクールなふるまいを脱ぎ捨てられていたのではないか、という仮説が成り立ちうるのだ(上述)。
 真友くんに、虚構を脱ぎ捨てていいのだ、そういうときがあってもいいんだ、と諭すタマモだけれど、それを認めてしまうときとは、タマモもまた中学生に戻らなくてはならないときであり、そのままタマモと真友くんの別れのときだということになる。そして、中学生あるいは妖怪の姿に戻るという年齢の問題での別れとともに、自分を解放できた一日の交流という心情面でのさみしさもまた、タマモは抱えるのではないか。
 そういった、タマモにおける二重の訣別を踏まえるとき、最後の風船を眺めるタマモの描写は(この眼は、完全に中学生タマモの眼になっている)、いっそう意義ぶかいものとして読めてくるのではないか。そのように思うのである。

 あれ、まてよ? そうすると、最終話での妙に明るいタマモは、クールにふるまう不自然さを克服したタマモの真の姿ってことになりかねないな…。最終回の妙に明るいタマモはよくわかりません。

02 81 2
「いや、年じゃなくてさ…/妖怪……」「じゃ、約束のしるしに交換だ!!」
「……
……うん!」
 夏の終わり、花火、別れ、という叙情。ベタではあるけれど悪くない。

 さて、ここで「交換」をしていることは意義深いことだ。「交換」の成立とは、原則として両者が対等な条件にあることを示すものであろう。ここでかたくなに「交換」を求めようとする真友くんとは、タマモにいつまでも対等な小学生同士でいてほしい、という欲求を表している。
 そしてタマモも、それがわかるから風船を「交換」する。けれどもおそらくは、二人ともたぶんもう会うことはないことをわかっているのではないか。優しい眼でありながらしかしそれは中学生のそれである最後のタマモの表情から、そう言っていいように思うのである。 


 『GS美神』は、残り三回を残すのみになった。
 というわけで、以下、独断と偏見に基づき、「アシュ編以後」の各編について、簡単にまとめておきたい。

  トラブル 解決者 美神 備考
ファイヤースターター ひのめ。 美神(作戦)、横島(実行)。 解決者(作戦)。 屋根裏部屋焼失。
ドリアン・グレイの肖像!! 紅井緑、横島。 美神ら。 解決者(実行)。  
賢者の贈り物!!   おキヌ。 不在、サポート。 おキヌ版「ただいま修行中!!」。
フォクシー・ガール!! 美神。 a:美神(作戦)、横島、おキヌ(実行)。
b:美神母子。
金を優先して依頼受ける。 タマモ登場編。
おキヌ外泊疑惑。
マイ・フェア・レディー!! 美神。 ひのめ。 同上。前回の反省なし。 おキヌカマトト疑惑。
ザ・ショウ・ゴーズ・オン!! 銀ちゃん。 美神(失敗)、横島とおキヌ(実行)。 解決せず。途中から不在。 美神チームのチームワークおよび横島の本質の強調。
沈黙しない羊たち!! 横島、金を優先して美神に迫る。 法王(?) 途中から追われる。 欲望の横島、復活の印象。
白き狼と白き狐!! 切り裂きジャック タマモ、シロ。 監督者的立場。 シロ・タマモコンビ黎明編。タマモ、人間世界を知るため美神の預かりに。
GS美神’78!! 吾妻公彦。 美神美智恵、唐巣神父。 「えっ、まさかこのまま?」 恋を描けない美神物語を美智恵が代行か。
呪い好きサンダーロード!! 横島、金を優先して因果応報。 シロ、横島。 不在。 シロ説諭編。
横島煩悩再認編。
守ってあげたい!! タマモ。 シロ(実行)、美神(作戦)、横島(援護(笑))。 解決者(作戦)。 シロ・タマモ友情編。
もし星が神ならば!! 織姫。
横島の煩悩。
美神、おキヌ、シロ、タマモ。 解決者。 タマモ観察編?
史上最大の臨海学校!! 六道女学院。 美神(作戦)、横島(切札)、冥子、エミ、シロ、タマモ、六道女学院のみなさん。 解決者(作戦)。 シロ・タマモ協力編。
マジカル・ミステリー・ツアー!! 美神、金を優先して非倫理的行為。 おキヌ、横島。 被解決者。非倫理的行為。 おキヌ横島接近編。
キツネの変奏曲!! 同上。 タマモ。 不在。 タマモ慕情編。

 美神不在で横島とおキヌ活躍のパターン、また、タマモとシロ活躍(およびハートフル路線)のパターンが、かなりしっかりと目指され、美神はむしろ名サポートか、トラブルメーカーかとしての位置づけが強くなってきていることがわかる。
 とりわけ、37,38巻に関しては、タマモ率が高く、それも、「知らない」タマモが「知っていく」、というひとつの軸が確立されようとしてきているようであることも、指摘できるだろう。 

(2002/07/19。03/08/17新訂。20/12/30再録、語句修正。引用は椎名高志『GS美神 極楽大作戦』(小学館少年サンデーコミックス>、1992-99)、文中で同作の画像の引用をする場合はkindle版による)